ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

小鳥遊愚香

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あの子の幻影

不完全な放物線

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 水族館への移動中、ママは最新の教育事情や、水族館のイルカショーのトリビアを熱心に話し続けた。すべては、僕が優等生として興味を持つべき教養だった。

 僕は、表面的には相槌を打った。しかし、僕の思考はすべて、わたらいさんの家のドアノブに引っ掛けた、あのパイナップルゼリーに向いていた。

 わたらいさんは、気づいてくれただろうか。
 もし、一晩経ってもそのまま残っていたとしたら。それは彼女が遠くへ行ってしまった、あるいは、彼女自身の能力で溶けてしまったとか……いずれにせよ、異常な不在を意味する。

 わたらいさんの身に何か起きたのではないかという、冷たい不安が喉元に張り付いていた。

 水族館に到着すると、そこはママの支配とはまた違う、与えられた楽しみで満たされた空間だった。明るい照明、賑わう家族連れ、そして大きな水槽。すべてが完璧に設計された教育的娯楽だ。

「イルカショー、次の回にまだ間に合うわ。早く行きましょう」

 入館するや否や、ママはさっさと順路を進んでいく。僕は、無感情にママの背中を追う。

 淡水魚も、海水魚も、ふれあいコーナーも、甲殻類も、軟体動物も、みんなただの背景になって走馬灯のように過ぎていく。

 わかっていた。ここに来たところで、わくわくしたり楽しい思いができるわけじゃないってこと。全てはママの思い通りに旅を終えることでしかなくて、僕の感情はいつも置き去りのままだ。

「ほら、ここがいいわ。こっち。ここならよく見えそう」

 ママに促され、観客席に腰を下ろす。
 すぐに、ショーが始まる。トレーナーの合図一つで、イルカは完璧な放物線を描いて飛び上がり、水面に派手な水しぶきを上げた。

 僕は、イルカがジャンプするたびにトレーナーが与える餌に、目を奪われた。イルカはトレーナーの期待に応えるために、餌を報酬として完璧な行動をとる。

 僕や兄ちゃんと、何も変わらない。

 むしろ、ママはそう言う意味を込めて、僕をここへ座らせたのだろう。
 トレーナーの完璧な誘導と、イルカの描く完璧な放物線。すべてはママの理想通りだ。

 それに気づいた瞬間、イルカが飛び跳ねる度に僕の胸に、強い吐き気と嫌悪感が込み上げてきた。

 愛情という餌欲しさに、ママの支配的な期待に従順なイルカとして生きてきた。
 心臓がバクバクと異常な音を立てて、身体中に血を巡らせる。

 ダメだ、これ以上は。これ以上考えたら、残酷な真実に気がついてしまう。

 僕は薄々気がついていた。自分の空想癖、自分の理想通りのわたらいさん。
 いつか取り戻せると思っていた、自分の理想通りの優しかったママ。

 ダメだ、止めろ。思考を止めろ。

 ぜんぶ、幻だったとしたら?

 イルカがジャンプに備えて、水中に深く深く潜るその前にトレーナーが餌の魚を放り込む。

 僕が餌をもらえた試しは、なかった。

 動悸がした。項垂れるように前屈みになる。

「すごいでしょう、ハヤテ。みんなとても優秀なのよ。イルカたちも、正しいことをすれば、ご褒美がもらえるって理解している」

 ママの満足そうな声が、僕の耳元で支配の正当性を囁く。耳鳴りがした。

 イルカがこれまでで最大の高さまで、飛ぶ。反動で観客席まで広がる水しぶきに、歓声が上がった。

 僕も水しぶきを避けるために反射的に手をかざした。

 ほんの一瞬、それが空中にぴたりと止まったのを見て、さっと払う。

 払い落ちた飛沫は、コンクリートの地面に染み込むことなく、ゼリーみたいに弾んで転がる。

 ママの顔を伺う。ショーに夢中で気づいていない。
 僕は胸を撫で下ろす。

 歓声の届かない場所に行きたい。
 わたらいさんに会いたい。

 トレーナーの合図のホイッスルが鳴り響き、イルカが再び深く潜る。

 勢いよく飛び出したうちの1匹が、トレーナーが指示した場所にほんの数センチ届かずに、転がるように着水した。

 飛び出した瞬間は完璧な放物線ではあったが、合図とはわずかに異なる軌道にズレたのだ。

 観客席には、先ほどの歓声ではなく、どこか拍子の抜けたまばらな拍手が響く。

「あら、失敗ね。あのイルカ、今日は集中していないのかしら」

 ママが、落胆と不満の混ざった声で呟く。

 トレーナーはすぐに笑顔を取り繕い、失敗を隠すように魚を与えたが、その表情には焦りがあった。

 僕は、項垂れていた顔をゆっくりと上げた。

 そして、ママの顔を正面から見据え、観客のざわめきの中でも、聞こえるように、しかし静かに問うた。

「ママは、兄ちゃんが、途中までしか飛べなかったことを失敗だと思ってるの?」

 ママの顔から、一瞬で全ての表情が消え去った。

 観客席の喧騒、水槽の泡の音、すべてが遠ざかり、世界の中心には、僕とママ、そして失敗という言葉だけが、凍り付いて残った。

 いや、あれは失敗ではない。

 あのイルカは、あそこまでしか飛びたくなかったんだ。あるいは、あの場所に着水したかったんだ。

 トレーナーの期待に応える完璧さではなく、自分の身体が動くままに、一瞬だけ、自由を選んだ。

 完璧じゃないことは、失敗じゃない。

 心臓が、完璧ではない僕を肯定する。身体のちょうど真ん中ではなく、やや左で力強く脈打っている。

 そのわずかな逸脱と不完全さこそが、あのイルカの、そして僕たちの、唯一の抵抗だ。

「兄ちゃんは、自分でどこまで飛ぶか決めたんだ」

 静かに、しかし、水槽の分厚いガラスを叩き割るような破壊力を込めて呟く。

 ママは、顔から完全に血の気が失せ、もはや何も答えることができないようだった。

 「僕、別の魚を見てくる」

 僕は、ショーの感動を共有したいママを放置して、席を立った。

 今この瞬間に僕の頭を支配したのは、グソクムシだった。

 それは、昨夜サービスエリアで見た、あの醜いフィギュアと寸分違わぬ姿をしているのかどうか、確かめずにはいられなかった。

 「ちょっと、颯!どこへ行くの。戻ってきなさい!」
 ママが、か細い声で僕を呼んだ。権威を失い、完全に動揺している声だった。

 僕は、その声に一度だけ立ち止まった。それは従順さからではなく、最後に釘を刺すためだ。
 
「イルカは失敗しても餌をもらえたみたいだけどね」

 僕は、グソクムシのいる深海の暗い場所を目指すように、人混みの中へと歩き出した。

 水族館の順路に沿って進む人々の群れに、順路を逆走する僕は、完璧ではない一匹の自由なイルカのように飛び込んだ。
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