25 / 91
あの子の幻影
不完全な放物線
しおりを挟む水族館への移動中、ママは最新の教育事情や、水族館のイルカショーのトリビアを熱心に話し続けた。すべては、僕が優等生として興味を持つべき教養だった。
僕は、表面的には相槌を打った。しかし、僕の思考はすべて、わたらいさんの家のドアノブに引っ掛けた、あのパイナップルゼリーに向いていた。
わたらいさんは、気づいてくれただろうか。
もし、一晩経ってもそのまま残っていたとしたら。それは彼女が遠くへ行ってしまった、あるいは、彼女自身の能力で溶けてしまったとか……いずれにせよ、異常な不在を意味する。
わたらいさんの身に何か起きたのではないかという、冷たい不安が喉元に張り付いていた。
水族館に到着すると、そこはママの支配とはまた違う、与えられた楽しみで満たされた空間だった。明るい照明、賑わう家族連れ、そして大きな水槽。すべてが完璧に設計された教育的娯楽だ。
「イルカショー、次の回にまだ間に合うわ。早く行きましょう」
入館するや否や、ママはさっさと順路を進んでいく。僕は、無感情にママの背中を追う。
淡水魚も、海水魚も、ふれあいコーナーも、甲殻類も、軟体動物も、みんなただの背景になって走馬灯のように過ぎていく。
わかっていた。ここに来たところで、わくわくしたり楽しい思いができるわけじゃないってこと。全てはママの思い通りに旅を終えることでしかなくて、僕の感情はいつも置き去りのままだ。
「ほら、ここがいいわ。こっち。ここならよく見えそう」
ママに促され、観客席に腰を下ろす。
すぐに、ショーが始まる。トレーナーの合図一つで、イルカは完璧な放物線を描いて飛び上がり、水面に派手な水しぶきを上げた。
僕は、イルカがジャンプするたびにトレーナーが与える餌に、目を奪われた。イルカはトレーナーの期待に応えるために、餌を報酬として完璧な行動をとる。
僕や兄ちゃんと、何も変わらない。
むしろ、ママはそう言う意味を込めて、僕をここへ座らせたのだろう。
トレーナーの完璧な誘導と、イルカの描く完璧な放物線。すべてはママの理想通りだ。
それに気づいた瞬間、イルカが飛び跳ねる度に僕の胸に、強い吐き気と嫌悪感が込み上げてきた。
愛情という餌欲しさに、ママの支配的な期待に従順なイルカとして生きてきた。
心臓がバクバクと異常な音を立てて、身体中に血を巡らせる。
ダメだ、これ以上は。これ以上考えたら、残酷な真実に気がついてしまう。
僕は薄々気がついていた。自分の空想癖、自分の理想通りのわたらいさん。
いつか取り戻せると思っていた、自分の理想通りの優しかったママ。
ダメだ、止めろ。思考を止めろ。
ぜんぶ、幻だったとしたら?
イルカがジャンプに備えて、水中に深く深く潜るその前にトレーナーが餌の魚を放り込む。
僕が餌をもらえた試しは、なかった。
動悸がした。項垂れるように前屈みになる。
「すごいでしょう、ハヤテ。みんなとても優秀なのよ。イルカたちも、正しいことをすれば、ご褒美がもらえるって理解している」
ママの満足そうな声が、僕の耳元で支配の正当性を囁く。耳鳴りがした。
イルカがこれまでで最大の高さまで、飛ぶ。反動で観客席まで広がる水しぶきに、歓声が上がった。
僕も水しぶきを避けるために反射的に手をかざした。
ほんの一瞬、それが空中にぴたりと止まったのを見て、さっと払う。
払い落ちた飛沫は、コンクリートの地面に染み込むことなく、ゼリーみたいに弾んで転がる。
ママの顔を伺う。ショーに夢中で気づいていない。
僕は胸を撫で下ろす。
歓声の届かない場所に行きたい。
わたらいさんに会いたい。
トレーナーの合図のホイッスルが鳴り響き、イルカが再び深く潜る。
勢いよく飛び出したうちの1匹が、トレーナーが指示した場所にほんの数センチ届かずに、転がるように着水した。
飛び出した瞬間は完璧な放物線ではあったが、合図とはわずかに異なる軌道にズレたのだ。
観客席には、先ほどの歓声ではなく、どこか拍子の抜けたまばらな拍手が響く。
「あら、失敗ね。あのイルカ、今日は集中していないのかしら」
ママが、落胆と不満の混ざった声で呟く。
トレーナーはすぐに笑顔を取り繕い、失敗を隠すように魚を与えたが、その表情には焦りがあった。
僕は、項垂れていた顔をゆっくりと上げた。
そして、ママの顔を正面から見据え、観客のざわめきの中でも、聞こえるように、しかし静かに問うた。
「ママは、兄ちゃんが、途中までしか飛べなかったことを失敗だと思ってるの?」
ママの顔から、一瞬で全ての表情が消え去った。
観客席の喧騒、水槽の泡の音、すべてが遠ざかり、世界の中心には、僕とママ、そして失敗という言葉だけが、凍り付いて残った。
いや、あれは失敗ではない。
あのイルカは、あそこまでしか飛びたくなかったんだ。あるいは、あの場所に着水したかったんだ。
トレーナーの期待に応える完璧さではなく、自分の身体が動くままに、一瞬だけ、自由を選んだ。
完璧じゃないことは、失敗じゃない。
心臓が、完璧ではない僕を肯定する。身体のちょうど真ん中ではなく、やや左で力強く脈打っている。
そのわずかな逸脱と不完全さこそが、あのイルカの、そして僕たちの、唯一の抵抗だ。
「兄ちゃんは、自分でどこまで飛ぶか決めたんだ」
静かに、しかし、水槽の分厚いガラスを叩き割るような破壊力を込めて呟く。
ママは、顔から完全に血の気が失せ、もはや何も答えることができないようだった。
「僕、別の魚を見てくる」
僕は、ショーの感動を共有したいママを放置して、席を立った。
今この瞬間に僕の頭を支配したのは、グソクムシだった。
それは、昨夜サービスエリアで見た、あの醜いフィギュアと寸分違わぬ姿をしているのかどうか、確かめずにはいられなかった。
「ちょっと、颯!どこへ行くの。戻ってきなさい!」
ママが、か細い声で僕を呼んだ。権威を失い、完全に動揺している声だった。
僕は、その声に一度だけ立ち止まった。それは従順さからではなく、最後に釘を刺すためだ。
「イルカは失敗しても餌をもらえたみたいだけどね」
僕は、グソクムシのいる深海の暗い場所を目指すように、人混みの中へと歩き出した。
水族館の順路に沿って進む人々の群れに、順路を逆走する僕は、完璧ではない一匹の自由なイルカのように飛び込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる