ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

小鳥遊愚香

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あの子の幻影

幻じゃなくて本物だよ

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 イルカショーの喧騒を尻目に、順路を逆走する。照明が明るくなったり、暗くなったり、同じ海に生まれたはずなのに、それぞれが必要とする光量の違いに驚く。

 水辺からわざわざ陸地に上がった遠い遠い祖先の渇望と憧憬が、未だに渦巻いているように感じられた。 

 二足歩行への誇りを胸に、僕は人々の群れを熱に浮かされたようにすり抜けていく。

 心臓が、早く真実にたどり着けと叫んでいた。

 深海生物のエリアは、他のエリアとは明らかに隔絶されていた。照明は落とされ、ブルーライトのような深い青に支配された通路が続く。 

 人影はまばらだ。
 誰も興味を惹かれないのだろう。
 人々の足が止まることはなく、ただ順路の通過点でしかないようだった。

 まるで個室のように隔離された一角に、深海に暮らす生物たちがそれぞれ鎮座していた。

 大型のカニやアンコウ、カサゴ、エビやウミヘビ。

 展示説明のプレートを目印に、僕はパーテーション越しに覗き込む。

 ようやく見つけた突き当たりの角に、目的のものは静かに佇んでいた。

 ダイオウグソクムシ。

 昨日、サービスエリアで見たフィギュアと寸分違わぬ、灰色がかった硬い甲羅。

 触覚や無数の脚は生きて蠢いているとより嫌悪感が煽られる。

 静止した水の中で、それは完全に沈黙していた。

 「よく似合うでしょう?」
 場違いに明るい声が響いた。驚いて振り返る。

 後部座席にしか現れなかったはずの幻影のわたらいさんが、いつの間にか僕の隣に立っていた。

 綺麗めのブラウスにミニスカートを履いて、にこやかに微笑んでいる。
 「ぺこの好きな服装だから」
 幻影の彼女は、僕の理想通りの声でそう答えた。

 僕は、グソクムシの水槽と、幻影のわたらいさんを交互に見る。どちらも、僕が目を逸らしてきた醜い真実を象徴している。

 「グソクムシってさ、何ヶ月も何も食べなくても平気なんだって。5年も何も食べなかった子もいるんだって。すごいよね」
 幻影が、無邪気に笑う。
「ぺこは、お腹ぺこぺこで我慢できなかったもんね」

 僕は、空腹のあまり齧り付いた、あの雨の日の泥に塗れたカレーパンを思い出す。吐き気を感じながらも、僕は幻影の声を静止できない。

「深海の掃除屋って呼ばれてて、深海の底まで沈んできたクジラの死骸とか、弱った生き物を食べるんだよ。死んだり弱っている仲間すら、共食いするんじゃないかと言われてる。そんな劣悪な環境で、こんなに大きくなれるの、偉いよね?」

 水槽の中でじっとしているグソクムシを指差して、わたらいさんの幻影が僕を見る。

 僕は、幻影のわたらいさんの言葉を静かに聞いていた。手が、冷え切っていた。深海の冷たさと、グソクムシの孤独が、僕の深部を揺さぶる。

 「……早く、本物のわたらいさんに会いたい」
 僕は思わず、呟いていた。

 僕の心からの願いに、幻影の彼女は首を傾げる。
 「いるよ、ここに」

 僕は、強く首を横に振る。
 「違う。君は偽物だ。僕が勝手に想像して大きく膨らませただけの、都合のいい虚像だ」

 瞬間、全ての音が遠き、耳鳴りがする。
 魚たちの呼吸を助ける酸素を送るポンプの低い音だけが地鳴りのように響く。

 幻影のわたらいさんに、一瞬ノイズが走る。しかし、すぐに微笑みを深めた。
 「そうだとしても……ぺこの理想通りなんだから、私が本物でしょう?」

 「違う……」

 「全部全部、ぺこが都合よく想像して生み出した偽物なんだ?」
 幻影が、挑発するように聞き返す。その声はどこか優しく、しかし容赦がない。
 「それじゃあ、ぺこがお兄さんに抱いてきた罪悪感だって、偽物かもしれないね?」
 その言葉は、僕の心の最も脆い壁を打ち破った。

 
 「それは違う!」
 僕は目を見開き、反射的に大声を出した。
 拳を固く握りしめ、自分の膝に振り下ろす。

 孤独な車内でも、常に傍にいてくれた彼女の幻影に、僕は初めて本気で怒りの眼差しを向けた。

 幻影は、変わらず穏やかな表情を浮かべている。
 「ぺこが、自分は可哀想っていう痛みに縛られて、それに酔っているだけなのに」

 「やめろ!わたらいさんは、そんなこと言わない!!」
 咄嗟に、幻影の肩を掴んで黙らせようとするのに、嘲笑うようにすり抜ける。
「わたらいさんの声で、そんなこと言うな!!」
 僕の叫びは、深海の静寂に吸い込まれていく。

 「違う!あれは、偽物じゃない!兄ちゃんへの罪悪感は、本物だ!だからこんなに苦しいのに!」
 僕は、幻影のわたらいさんを否定することで、自分の存在を証明しようとした。

 幻影は、静かに僕の頬に手を伸ばした。そっと触れるように動かすが、すり抜けてしまう。

「颯のママだって、幻じゃなくて本物だよ」
 その瞬間、世界が反転した。視界が大きく歪んで、脳みそごと揺さぶられるような衝撃に、呼吸が浅くなる。

 僕が逃げたかったはずの醜い現実の中に、僕が求めていた本物の全てが、すでに含まれていたのだ。

「どんなに醜くても、あれはぺこの本物のママ。……ちゃんと、よく見てみて」
 その声を最後に、幻影は水槽の微かな水の揺らぎに溶けるように消えた。

 グソクムシの水槽の深海の青の中に、反射したママの姿が見えた。

 思わず振り返る。
 僕は、水槽の冷たいガラスの前で、身じろぎもせず立ち尽くしていた。

 ママは、パニックと焦りで、順路など関係なく僕を探し回っているようだった。

 そのあまりに無防備な焦燥が、僕にはにわかには信じられず、かける言葉が見つからなかった。

 誰も興味を示さない深海生物コーナーの、順路の通過点でしかないこの場所を、誰もが足早に通り過ぎていく。

 それでも、ママの足はそこで止まった。
 少し遅れて、その視線は僕の立っている場所にたどり着く。まるで、僕の無言の視線に導かれるように。そして、固定された。

 世界が止まったかのような一瞬に、ママが大きく息を吸い込む音が全てを切り裂く。

「颯!」
 ママは、駆け寄ってきた。

 僕はママの姿を、息子を探してパニックになった不器用な一人の人間として、初めて見つめている。

 「ごめんなさい……ママ」

 僕が謝罪の言葉を口にすると、ママの顔が少し歪んだ。しかし、そこから漏れたのは怒りや叱責ではなく、安堵の言葉だった。

 「心配したじゃない……っ」
 ママはそう言って、僕の腕を強く掴んだ。
 その力は支配のためではなく、失いたくないという人間的な恐怖だけが滲んでいた。

 僕は、ママの掴む手に自由な方の手を添えて、力を込めて握り返した。
 その体温はひどく冷たい。でも、確かに本物だ。

 「本当にごめん……でも、もう大丈夫。別の魚、見に行こうか」
 僕はそう言って、ママの手を引いた。

「……それより、先にお土産を見に行きましょう。お友達に買って帰るって約束したんでしょう?」
 ママは、自分の動揺を打ち消すように、すぐに社会的な義務という日常の規範へと意識を戻した。

 僕はママを人混みの中へと導きながら、順路に戻ると、繋いでいた手を静かに解いた。

 ママはまた僕の先を行ってしまったが、数歩進んだところで、ママは足を止めた。そして、何か考えを巡らせたような仕草の後で、初めてこちらを振り返った。

 これまでは、僕が当然のように付いてくることを疑わなかった人が、だ。

 ママは、僕の存在を確かめるように、そして僕が彼女に付いてくるのを待つように、人混みの中で静かに佇んでいた。

「ほら、早く。行くわよ」

 僕はその初めての確認に、わずかに心臓が温まるのを感じた。

※ダイオウグソクムシが共食いするのか否かは、諸説あります。
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