ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

小鳥遊愚香

文字の大きさ
42 / 67
きっと見つかる

聖母の檻

しおりを挟む
 救急外来の処置室のベッドに寝かされた僕の両腕には、ガーゼと包帯が大袈裟に巻かれた。頬には、冷感のある軟膏が厚く塗られている。

 左腕の包帯を掻い潜るようにして、点滴を打たれた。脱水症状を改善するための透明な液体が、一滴ずつ、僕の静脈へと吸い込まれていく。

 点滴を目で追うのも飽きて、なんとなく廊下側に目をやる。

 カーテンのせいで見えないが、僕らを運んでくれたタクシー運転手がまだそこにいるのが分かった。

 処置室にはドアがないせいで、廊下での会話さえ丸聞こえだった。

「……それで、男の子が親御さんに連絡したようでしたが」
 運転手の、低くて、どこか安堵したような声。

「ええ、綾瀬くんのお母様が今こちらに向かわれているそうです。お電話口でも本当に心配されていて……。運転手さんに、とても感謝されていました」
 看護師の落ち着いた声。

「いや、いいんだ。子供のあんな大火傷見せられたら、放っておけるはずないからな。

帰りも足がないだろうし、お母さんが来るまでここで待たせてもらうつもりだったけど……なんだか、恩着せがましいかな」

「そんなことありませんよ。お母様もきっと心強いはずです」

 運転手の照れ臭そうな声と、看護師の明るい笑い声。

 何も知らない善意が、僕たちの嘘を真実として補強していく。
 


 熱中症で倒れそうになったわたらいさんを、僕が支える形で熱いシャッターに腕を押し付けた。身動きが取れず、よろけた拍子に頬も焼きつけた。



 それが、わたらいさんと2人で咄嗟に考えた言い訳だった。
 医師は多少違和感を覚えたようだが、2人とも脱水症状の所見があり、最終的には納得したようだった。

「……ねえ、ぺこ」

 隣のベッドから、わたらいさんが震える右手を伸ばしてきた。彼女も、左腕に点滴を打たれている。
 わたらいさんは、包帯と点滴でぐちゃぐちゃの僕の左腕にそっと触れ、壊れ物を扱うような手つきでゆっくりと撫でる。

「私が言えたことじゃないけど……もう、あんなことしないで」

 僕は黙って、包帯越しに伝わる彼女の指先の震えを感じていた。点滴針で不自然に膨らむ僕の薄い皮膚を慈しむ彼女の指先は、まるで共犯の証を確かめているようだった。

 僕は寝返りを打つようにして、点滴の打たれていない方の手で彼女の指先をそっと包み込んだ。

「……私のせいで、全部ママにバレちゃうね。ごめんね」
 指と指を絡め、お互いの体温を確かめ合う。

「……ごめんね、ぺこ」
 わたらいさんが、掠れた声で囁く。
「私のせいで、バレちゃう」

「いいんだ。僕が選んだことだから」
 僕は彼女の指を強く握りしめた。

 その時、廊下の向こうから、あの規則正しく、冷徹な足音が響き渡った。

 一歩、また一歩。

 それは僕の心臓を直接踏みつけるようなリズムで、看護師さんの案内と共に、こちらへ近づいてくる。

 やがて、控えめな挨拶をするママの声を掻き消すような、タクシー運転手さんの弾んだ大きな声だけが聞こえた。

「いやあ、本当に立派な息子さんですよ!お嬢ちゃんが倒れそうになったのを、熱いシャッターに押し付けられながらも支え続けていたって。あんな度胸、なかなか見られませんよ」

 それに答えるママの声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。

 看護師からも説明を受けているようだ。ママはなかなかこちらへ入ってこない。

 それでも、僕の体は硬直した。

 ふいに隣のベッドから、わたらいさんが身を乗り出す。

「……キスしようよ」

 彼女の発言に、僕は息を呑む。
 点滴のチューブが、チリ、と微かな音を立てた。

 廊下からは、ママが誰かに挨拶する声が聞こえている。

 カーテン一枚隔てた向こう側では、看護師と他の患者の話し声が聞こえた。

 2人きりの空間では、決してない。
 何より、この短時間にも、看護師が定期的に点滴の様子を観にきていた。

 今、ここでそんなことをすれば、僕たちは取り返しのつかないところまで堕ちる。

 
 分かっている。
 それなのに、拒絶なんて考えもしなかった。

 熱に浮かされたわたらいさんの、僕を試すような瞳。それに抗う術を、僕は持っていなかった。

「……いいよ」

 僕は、点滴のチューブが突っ張るのも構わず、わたらいさんの顔へと身体を乗り出した。

 早く、早く彼女に触れたい。
 ママという現実がこの部屋を侵食し尽くす前に、僕たちの罪を確定させてしまいたい。

 彼女の唇から漏れた熱い吐息が、僕の唇を撫でる。

 触れる直前、処置室へ侵入してくる大人の足音が急速に大きくなった。

 わたらいさんは、まるで最初からそうする予定だったかのように、滑らかな動作でベッドの中へと身を隠し、カーテンを戻した。

 でも、僕は違った。
 わたらいさんに吸い寄せられた身体の勢いを、止めることができなかった。
 
 ベッドの端の、転落防止の柵に手を突き、上半身を隣の区画に大きく乗り出したまま。

 重ねるはずだった唇を、頭を、突き出した無様な格好のまま。

 僕は、硬直していた。

 背後から響いたのは、乱暴に開かれたカーテンの音。

「颯……」
 
 無防備に晒された僕の背後から、すぐにママの両腕が回された。

 前傾姿勢のまま固まっている僕を、ママは後ろから、壊れ物を扱うような力で抱きしめる。

「なんてこと……。こんなに前屈みになるほど、痛いのね? 苦しいのね?」

 ママは、僕が誰に向かって身体を動かしていたのか、気づいていない。
 
 ママの掌が、僕のお腹を優しくさする。

 僕の視線の先にあるのは、今やカーテンに遮られて見えなくなってしまったわたらいさんだけだった。

 僕の心はわたらいさんに向けられたまま、身体はママの腕に閉じ込められている。

「颯、そんな姿勢でどうしたの? 痛いの? それとも、どこか行くつもりだったの?」
 ママの困惑した声が耳元で跳ねる。

 僕は、わたらいさんに向けて伸ばしかけた身体を、今一度ベッドへと沈めた。

「もしかして……トイレ? ああ、トイレに行きたかったのね? 腕がこんなだもの、一人じゃ無理よ。もう、どうしてすぐに看護師さんを呼ばなかったの?」
 僕が止める間もなく、ママは枕元のナースコールを押した。

 ママは考えもしないのだ。

 わたらいさんに触れたくて、その毒に侵されたくて、自分から堕ちようとしていたなんて。
 そんな考えは、ママの完璧な世界には存在し得ないのだから。

 ママの掌が、僕の頭を優しくさする。

「ごめんなさいね、ママが遅かったから……。もう大丈夫よ。すぐに看護師さんが来てくれるわ」

 僕は、ママの腕の中で人形のように今度こそ動けなくなった。

 わたらいさんが今、カーテンの向こうでどんな顔をして笑っているのか、あるいは蔑んでいるのか、僕にはまるで分からなかった。
 
「……さあ、顔を見せてちょうだい」

 ママの手が僕の頬に回る。火傷の軟膏が塗られたそこを、大切そうに撫でた。

「立派だったわね、颯」

 ママの瞳は、僕の負傷を熱心に見つめている。僕の痛みを心配しているんじゃない。僕が正しい息子になれたことを喜んでいる。

「……本当に、立派なことをしたわね。颯」

 ママは僕の包帯に巻かれた腕を、まるで神聖なものでも扱うような手つきで、誇らしげに撫でている。

 ママの理想通りに正しく傷ついた僕を、ママは今、心の底から愛している。

 僕たちの嘘が、ママの理想の息子像として受け入れられ、逃げ場のない檻が閉じようとしていた。

 隣の区画を隔てるカーテンが素早く開く。
 それから、ベッドで丸まっていたわたらいさんが、ゆっくりと体を起こした。

「……ハヤテくん」

 乱れた髪の間から覗くその瞳は疲労のせいか、それとも別の何かのせいか、爛々と冴え渡っている。

「ハヤテくん」

 わたらいさんが、掠れた声で僕を呼ぶ。「ぺこ」という愛称ではなく、「ハヤテくん」という正しい呼び名を使って。

「ごめんね。あんなに熱かったのに……。私が『火傷しちゃうから離して』って言ったら、もっと強く抱きしめてくれて。……全部、私のせいなのに」
 わたらいさんは力なく呟いて、しおらしく項垂れている。

 僕は息を詰めた。
 これは、ただの謝罪じゃない。

 こんな怪我なんてなんともないくらいに、ハヤテくんは、私のことが好きなんですよ。

 彼女の言葉の裏側で、そんな声が聞こえた気がした。

 わたらいさんは、顔を上げる。その先でママの視線を真っ向から受け止め、弱々しく微笑んでみせた。

「はじめまして、ハヤテくんのお母様。……ハヤテくんの火傷は、私を助けてくれた『しるし』なんです。一生、消えなければいいのにって、思っちゃうくらい。私は……嬉しいんです」

 その言葉に、ママの指が僕の腕の上でピクリと止まった。

 ママが愛でている正義の勲章を、わたらいさんは一瞬にして自分への執着の証へと塗り替えてしまう。

「……そう。そうね」

 ママの笑顔は崩れない。僕を撫でる指先に、微かな力がこもった。

 2人の女の視線が、僕の目の前で静かに、激しく火花を散らしている。

「綾瀬くーん、遅くなってごめんなさいねー」

 ママの押したナースコールでようやく看護師がやってきた。
 僕は無言で下腹部を抑える。

「あ、おトイレ?じゃあちょっと、行きましょうね」
 看護師さんに点滴棒を転がされ、僕はゆっくりと歩き出す。

 わたらいさんの方を振り返ることは許されなかった。

 廊下へ出る直前、僕は突き出したまま何にも触れられなかった唇を、強く、強く噛み締めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

最高魔導師の重すぎる愛の結末

甘寧
恋愛
私、ステフィ・フェルスターの仕事は街の中央にある魔術協会の事務員。 いつもの様に出勤すると、私の席がなかった。 呆然とする私に上司であるジンドルフに尋ねると私は昇進し自分の直属の部下になったと言う。 このジンドルフと言う男は、結婚したい男不動のNO.1。 銀色の長髪を後ろに縛り、黒のローブを纏ったその男は微笑むだけで女性を虜にするほど色気がある。 ジンドルフに会いたいが為に、用もないのに魔術協会に来る女性多数。 でも、皆は気づいて無いみたいだけど、あの男、なんか闇を秘めている気がする…… その感は残念ならが当たることになる。 何十年にも渡りストーカーしていた最高魔導師と捕まってしまった可哀想な部下のお話。

冗談のつもりでいたら本気だったらしい

下菊みこと
恋愛
やばいタイプのヤンデレに捕まってしまったお話。 めちゃくちゃご都合主義のSS。 小説家になろう様でも投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

処理中です...