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用を足した後、点滴棒を転がしながら廊下を戻る。点滴の袋が揺れ、まとわりつくチューブが鬱陶しい。
繋がれている。犬がリードを引かれるように。
看護師は心からの善意で僕を導く。
そして、不自然に足を止めた。周囲に他のスタッフや患者の姿はないことを確認するような仕草。
「……ねえ、綾瀬くん」
嫌な予感がした。
彼女が僕の目線の高さまでしゃがみ、肩に手を置く。その掌は、不快なほど温かい。
「先生も、私もね。……君たちの言っていることが、どうしても本当のことだとは思えないの」
彼女の声は慈愛に満ちていた。
「同年代の子に比べて、あなた随分と小柄よ。ごはん食べるの、好きじゃない?」
ドラマで見るような正しい大人の、心配している時のトーン。
「本当のことを言って、怪我のこと。誰かにやらされたの? それとも……お母さんに、何か言われているの?
今なら、私たちは君を守れる。もちろん、あのお嬢さんのことも。力になれるのよ」
彼女は、僕の瞳を真っ向から見据えた。
守る。力になれる。
大人が安易に口にする、耳触りのいい言葉。
もう手遅れだ。
僕らは、既に傷ついている。
「……本当のことだと思えないって、何がですか?」
僕は、看護師の言葉を遮るように、一歩踏み出す。
「えっ……」
看護師が、明らかに動揺した。僕の肩に置かれた彼女の手が、微かに強張る。
「僕が友達を助けたのが、そんなに変ですか? 僕の体が細いのが、そんなに不自然なことですか?」
その問いかけは、自分でも驚くほど淀みがなかった。
「僕の体が細いから……先生と看護師さんは……僕が、怪我をしたのに嘘をついている変な子だと思ってるんですか?」
「そ、そうじゃなくて……、私たちはただ、心配で……」
「心配なら、どうして僕の話を信じてくれないんですか?」
僕はさらに一歩、逃げ場を奪うように踏み出す。潤んだ瞳を演じながら、冷え切った心で看護師を追い詰める。
「僕を信じないのは……僕が、頼りない体をしてるからなんでしょう?それって、差別じゃないんですか。……僕が普通じゃないから、疑ってるんだ!」
「そんなつもりじゃ……! ごめんなさい、綾瀬くん。そんなつもりじゃなかったの」
看護師の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
彼女の中の正義が、僕の投げた偏見という刃でズタズタに切り裂かれていく。
看護師は今や、傷ついた少年をさらに追い詰めてしまった加害者だ。
「あんなに熱かったのに!必死で友達を助けたのに!そんなに疑われるなら、見捨てればよかった!
まるで、あの子が死んじゃったほうがよかったみたいに!
それなら、みんな満足したんですか!」
廊下に、僕の大声が響き渡った。
点滴棒を握りしめた手が激しく震える。
ガタガタと金属の鳴る音が静まり返った夜の廊下に不気味に反響した。
「あ、綾瀬くん、落ち着いて……!ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
看護師さんが真っ青な顔で、狼狽しながら僕の腕を掴もうとする。
「離してっ!」
僕はその手を、汚いものを見るような目で振り払った。
看護師が絶句し、廊下に重い沈黙が満ちる。
「……あ、ハヤテくん。ここに居た」
わたらいさんだけがひどく場違いな感嘆を漏らした。彼女は自分の点滴棒を引きずりながら、僕のすぐ傍まで歩み寄る。
「あんな大声出せるんだね。おかげで探す手間が省けたよ。……喉、痛くない? 大丈夫?」
心配そうに僕の喉元を覗き込む。その瞳には、僕を救おうとした看護師への敵意も、僕が吐いた嘘への驚きもなかった。
ふいに、彼女の視線が僕の左腕に固定された。
見ると、逆流した僕の血が、チューブの中でどす黒く溜まり、点滴の滴下が完全に止まっている。
まるで、僕の怒りに呼応して、体内の時間が凍りついてしまったかのように。
看護師が視線を動かすより早く、わたらいさんは僕の腕に自分の体を寄せた。その自然な流れで、指先がチューブをなぞる。
「もうすぐ点滴終わるから、そしたらもう帰っていいって。鬱陶しいから早く外したいね」
彼女は、止まった点滴を隠すように僕の腕を抱き寄せた。看護師にその秘密を見せないよう、慈しむような仕草で。
「……それより、ハヤテくんのお母様、すごかったよ」
わたらいさんは、僕の耳元で内緒話をするように囁いた。
「会計窓口で、私の分まで勝手に払っちゃうんだもん。お医者さんに頼んで、パパたちの病院にも連絡してくれて。
今日、おじいちゃんたちは向こうに泊まるから、私はハヤテくんの家に泊まればいいって、お母様が。
ふふ。あの人、本当に全然こっちの話を聞いてくれないんだね。全部、一人で決めちゃった」
それは、純粋な感嘆のようでいて、これ以上ないほど冷酷な皮肉だった。
僕が数年かけて飲み込んできたママの異常性を、彼女は出会って数時間で暴いてみせたのだ。
わたらいさんの指先が、僕の包帯の上から火傷の跡をなぞる。
引き攣るような痛みが走り、思わず腕を引く。それでも、彼女はわざとそれを楽しむように力を込めた。
「……やったね、ハヤテくん。今夜はママ公認で、ずっと一緒だよ」
そう言って、わたらいさんは僕の指先に自分の指を絡めた。そして、思い出したように看護師の方を見る。
看護師さんは唇を震わせ、何かを言いかけたけれど、結局、何も言えずに項垂れた。
「……ごめんなさい。……さあ、行きましょう」
事務的な声に戻った彼女を従え、僕らは処置室へと戻る。
各々のベッドに横たわると、蜘蛛の巣に捕らえられたような気持ちでママを待っていた。
繋がれている。犬がリードを引かれるように。
看護師は心からの善意で僕を導く。
そして、不自然に足を止めた。周囲に他のスタッフや患者の姿はないことを確認するような仕草。
「……ねえ、綾瀬くん」
嫌な予感がした。
彼女が僕の目線の高さまでしゃがみ、肩に手を置く。その掌は、不快なほど温かい。
「先生も、私もね。……君たちの言っていることが、どうしても本当のことだとは思えないの」
彼女の声は慈愛に満ちていた。
「同年代の子に比べて、あなた随分と小柄よ。ごはん食べるの、好きじゃない?」
ドラマで見るような正しい大人の、心配している時のトーン。
「本当のことを言って、怪我のこと。誰かにやらされたの? それとも……お母さんに、何か言われているの?
今なら、私たちは君を守れる。もちろん、あのお嬢さんのことも。力になれるのよ」
彼女は、僕の瞳を真っ向から見据えた。
守る。力になれる。
大人が安易に口にする、耳触りのいい言葉。
もう手遅れだ。
僕らは、既に傷ついている。
「……本当のことだと思えないって、何がですか?」
僕は、看護師の言葉を遮るように、一歩踏み出す。
「えっ……」
看護師が、明らかに動揺した。僕の肩に置かれた彼女の手が、微かに強張る。
「僕が友達を助けたのが、そんなに変ですか? 僕の体が細いのが、そんなに不自然なことですか?」
その問いかけは、自分でも驚くほど淀みがなかった。
「僕の体が細いから……先生と看護師さんは……僕が、怪我をしたのに嘘をついている変な子だと思ってるんですか?」
「そ、そうじゃなくて……、私たちはただ、心配で……」
「心配なら、どうして僕の話を信じてくれないんですか?」
僕はさらに一歩、逃げ場を奪うように踏み出す。潤んだ瞳を演じながら、冷え切った心で看護師を追い詰める。
「僕を信じないのは……僕が、頼りない体をしてるからなんでしょう?それって、差別じゃないんですか。……僕が普通じゃないから、疑ってるんだ!」
「そんなつもりじゃ……! ごめんなさい、綾瀬くん。そんなつもりじゃなかったの」
看護師の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
彼女の中の正義が、僕の投げた偏見という刃でズタズタに切り裂かれていく。
看護師は今や、傷ついた少年をさらに追い詰めてしまった加害者だ。
「あんなに熱かったのに!必死で友達を助けたのに!そんなに疑われるなら、見捨てればよかった!
まるで、あの子が死んじゃったほうがよかったみたいに!
それなら、みんな満足したんですか!」
廊下に、僕の大声が響き渡った。
点滴棒を握りしめた手が激しく震える。
ガタガタと金属の鳴る音が静まり返った夜の廊下に不気味に反響した。
「あ、綾瀬くん、落ち着いて……!ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
看護師さんが真っ青な顔で、狼狽しながら僕の腕を掴もうとする。
「離してっ!」
僕はその手を、汚いものを見るような目で振り払った。
看護師が絶句し、廊下に重い沈黙が満ちる。
「……あ、ハヤテくん。ここに居た」
わたらいさんだけがひどく場違いな感嘆を漏らした。彼女は自分の点滴棒を引きずりながら、僕のすぐ傍まで歩み寄る。
「あんな大声出せるんだね。おかげで探す手間が省けたよ。……喉、痛くない? 大丈夫?」
心配そうに僕の喉元を覗き込む。その瞳には、僕を救おうとした看護師への敵意も、僕が吐いた嘘への驚きもなかった。
ふいに、彼女の視線が僕の左腕に固定された。
見ると、逆流した僕の血が、チューブの中でどす黒く溜まり、点滴の滴下が完全に止まっている。
まるで、僕の怒りに呼応して、体内の時間が凍りついてしまったかのように。
看護師が視線を動かすより早く、わたらいさんは僕の腕に自分の体を寄せた。その自然な流れで、指先がチューブをなぞる。
「もうすぐ点滴終わるから、そしたらもう帰っていいって。鬱陶しいから早く外したいね」
彼女は、止まった点滴を隠すように僕の腕を抱き寄せた。看護師にその秘密を見せないよう、慈しむような仕草で。
「……それより、ハヤテくんのお母様、すごかったよ」
わたらいさんは、僕の耳元で内緒話をするように囁いた。
「会計窓口で、私の分まで勝手に払っちゃうんだもん。お医者さんに頼んで、パパたちの病院にも連絡してくれて。
今日、おじいちゃんたちは向こうに泊まるから、私はハヤテくんの家に泊まればいいって、お母様が。
ふふ。あの人、本当に全然こっちの話を聞いてくれないんだね。全部、一人で決めちゃった」
それは、純粋な感嘆のようでいて、これ以上ないほど冷酷な皮肉だった。
僕が数年かけて飲み込んできたママの異常性を、彼女は出会って数時間で暴いてみせたのだ。
わたらいさんの指先が、僕の包帯の上から火傷の跡をなぞる。
引き攣るような痛みが走り、思わず腕を引く。それでも、彼女はわざとそれを楽しむように力を込めた。
「……やったね、ハヤテくん。今夜はママ公認で、ずっと一緒だよ」
そう言って、わたらいさんは僕の指先に自分の指を絡めた。そして、思い出したように看護師の方を見る。
看護師さんは唇を震わせ、何かを言いかけたけれど、結局、何も言えずに項垂れた。
「……ごめんなさい。……さあ、行きましょう」
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