50 / 91
僕の家
想像してごらん
しおりを挟む
僕の家。
いつも通り掃除の行き届いた、清潔で、逃げ場のない、僕の家だ。
ひとつだけいつもと違うのは、あのわたらいさんが、同じ屋根の下にいるということ。
ただし、僕は自室にほとんど隔離されていた。入浴中のわたらいさんと生活動線が被ることのないように、というママの徹底した配慮によって。
自室のベッドに横たわり、天井を見つめる。 しんと静まり返った家の中で、浴室から届く微かなシャワーの音だけが、耳障りなほど鮮明に鼓膜を叩いた。
壁をいくつか隔てた先で、脱衣所の扉がスライドする乾いた音が響く。
見えなくても察しはついた。浴室のすぐ外、脱衣所の狭いスペースに、ママが入ろうとしている。
棚からバスタオルを取り出す衣擦れの音。
隙のない、ママ特有の足音。
それだけで、僕の脳内にはその光景が立ち上がってしまう。
脱衣所から浴室にいる彼女へ、ママが声をかける。
「恵ちゃん、替えのバスタオル、ここに置いておくわね」
廊下を伝って届くママの声は、反響して、いつもより高く澄んで聞こえた。
完全に無防備なわたらいさんが、心底動揺したような声で返事をする。
監視にも近いママの完璧なお世話にうんざりしながらも、僕は浴室のすりガラスの向こう側にいる、裸の彼女を想像してしまう。
タイルの上。
湯気に包まれた彼女。
ママが用意した清潔な泡で、柔らかく白い肌を撫で、清めているであろう肢体。
想像してはいけないと思えば思うほど、像は鮮明になる。
生野菜を口に押し込むために手掴みした、あの両手。 必死にママの正しさを処分するために膨らませた、あの頬と喉。 恐る恐る口を開けた僕の唇に、触れんばかりにピザを押し込んできた指先。 興奮に任せて、必死に僕に吸いついてきた、あの唇。
さっきまで僕たちが貪り合っていた甘い毒が、今、無慈悲なお湯に溶かされ、跡形もなく流されていく。
ママが一人の大人として彼女を救い出し、その身を清めさせているだけだと、頭では分かっている。
それでも僕には、あの子と繋がっていた確かな何かを、一枚ずつ、生身の皮膚ごと剥がされていくように感じられた。
しばらくの間、二人の雑談のようなものが続いていたが、シャワーの飛沫に紛れて内容は聞き取れない。
不意に、シャワーの音が止んだ。
浴室の扉が乱暴に開く音。
それと同時に、悲鳴に近い彼女の声が届く。
「いえ、そんな……! 下着まで洗っていただくなんて、本当に申し訳ないです! 汚れたままでいいので、何か、袋に……。自分で、洗えますからっ!」
顔を真っ赤にして、自分の衣類を必死に守ろうとする姿が、容易に浮かぶ。
ママにとっては単なる洗濯だ。 いつもより一人分多いだけの、なんでもない作業。
けれど、僕たちの間に漂っていた熱っぽさや、分かち合った毒まで、気づかれてしまう気がした。
「恵ちゃん、前にハヤテに体操服を貸してくれたでしょう? あの時はありがとう。あの時のお礼だから、今日は。本当に気にしなくていいのよ。お互い様なんだから」
「お礼なんて、そんなつもりじゃ……いいんです。あの時、颯くんは雨で濡れていて……そうした方がいいと思って、私……」
声は震え、今にも泣き出しそうだった。
必死に、自分たちの小さな聖域を守ろうとする抵抗。
けれどママは、それを遮ることもなく、むしろ慈しむような溜息まじりの声で言った。
「ええ、そうね。だから今、私もそうした方がいいと思っているのよ。恵ちゃん」
空気が、一瞬で冷えた。
「困っている子を助けて、清潔にしてあげる。あなたが颯にしてくれた『正しいこと』を、今度は私があなたにしてあげたいの。
……それとも恵ちゃん、私にだけは、借りを作ったままでいろって言うのかしら?」
ずるい。 そんなの卑怯だ。
僕は自室で一人、歯を食いしばる。
――僕は助けに行けない。 見えない場所で起きていることを、勝手な想像で埋めて、 それが一番ましな形だと思い込むしかない。
流れに身を任せている間だけ、考えずにいられる。
ママは、わたらいさんの善意を人質に取ったのだ。
こうなれば、彼女はもう何も言えない。 親切の皮を被った侵略を、拒むことはできない。 彼女自身が持っていたはずの優しさや正当性までも、所詮はお節介だったのだと、塗り替えられてしまう。
すりガラスの向こうで、彼女は項垂れ、顔を赤くして、唇を噛み締めているはずだ。
無防備な裸のまま。 意思も、思い出も、身に着けていた下着の所有権さえも。 すべてが、ママの圧倒的な正しさという濁流に押し流されていく。
プライバシーという最後の砦を明け渡した彼女は、泣いてしまうかもしれない。
――見えないというのは、安全だ。 見えなければ、どんな顔をしているかも、 どこまで奪われたかも、想像で済ませられる。
想像は、いつだって、現実よりも都合がいい。
弱々しく浴室の扉が閉まり、シャワーの音が再開する。
話はこれでおしまいと言わんばかりに、ガタン、と洗濯機の蓋が閉まる音が聞こえた。
ひとつだけいつもと違うのは、あのわたらいさんが、同じ屋根の下にいるということ。
ただし、僕は自室にほとんど隔離されていた。入浴中のわたらいさんと生活動線が被ることのないように、というママの徹底した配慮によって。
自室のベッドに横たわり、天井を見つめる。 しんと静まり返った家の中で、浴室から届く微かなシャワーの音だけが、耳障りなほど鮮明に鼓膜を叩いた。
壁をいくつか隔てた先で、脱衣所の扉がスライドする乾いた音が響く。
見えなくても察しはついた。浴室のすぐ外、脱衣所の狭いスペースに、ママが入ろうとしている。
棚からバスタオルを取り出す衣擦れの音。
隙のない、ママ特有の足音。
それだけで、僕の脳内にはその光景が立ち上がってしまう。
脱衣所から浴室にいる彼女へ、ママが声をかける。
「恵ちゃん、替えのバスタオル、ここに置いておくわね」
廊下を伝って届くママの声は、反響して、いつもより高く澄んで聞こえた。
完全に無防備なわたらいさんが、心底動揺したような声で返事をする。
監視にも近いママの完璧なお世話にうんざりしながらも、僕は浴室のすりガラスの向こう側にいる、裸の彼女を想像してしまう。
タイルの上。
湯気に包まれた彼女。
ママが用意した清潔な泡で、柔らかく白い肌を撫で、清めているであろう肢体。
想像してはいけないと思えば思うほど、像は鮮明になる。
生野菜を口に押し込むために手掴みした、あの両手。 必死にママの正しさを処分するために膨らませた、あの頬と喉。 恐る恐る口を開けた僕の唇に、触れんばかりにピザを押し込んできた指先。 興奮に任せて、必死に僕に吸いついてきた、あの唇。
さっきまで僕たちが貪り合っていた甘い毒が、今、無慈悲なお湯に溶かされ、跡形もなく流されていく。
ママが一人の大人として彼女を救い出し、その身を清めさせているだけだと、頭では分かっている。
それでも僕には、あの子と繋がっていた確かな何かを、一枚ずつ、生身の皮膚ごと剥がされていくように感じられた。
しばらくの間、二人の雑談のようなものが続いていたが、シャワーの飛沫に紛れて内容は聞き取れない。
不意に、シャワーの音が止んだ。
浴室の扉が乱暴に開く音。
それと同時に、悲鳴に近い彼女の声が届く。
「いえ、そんな……! 下着まで洗っていただくなんて、本当に申し訳ないです! 汚れたままでいいので、何か、袋に……。自分で、洗えますからっ!」
顔を真っ赤にして、自分の衣類を必死に守ろうとする姿が、容易に浮かぶ。
ママにとっては単なる洗濯だ。 いつもより一人分多いだけの、なんでもない作業。
けれど、僕たちの間に漂っていた熱っぽさや、分かち合った毒まで、気づかれてしまう気がした。
「恵ちゃん、前にハヤテに体操服を貸してくれたでしょう? あの時はありがとう。あの時のお礼だから、今日は。本当に気にしなくていいのよ。お互い様なんだから」
「お礼なんて、そんなつもりじゃ……いいんです。あの時、颯くんは雨で濡れていて……そうした方がいいと思って、私……」
声は震え、今にも泣き出しそうだった。
必死に、自分たちの小さな聖域を守ろうとする抵抗。
けれどママは、それを遮ることもなく、むしろ慈しむような溜息まじりの声で言った。
「ええ、そうね。だから今、私もそうした方がいいと思っているのよ。恵ちゃん」
空気が、一瞬で冷えた。
「困っている子を助けて、清潔にしてあげる。あなたが颯にしてくれた『正しいこと』を、今度は私があなたにしてあげたいの。
……それとも恵ちゃん、私にだけは、借りを作ったままでいろって言うのかしら?」
ずるい。 そんなの卑怯だ。
僕は自室で一人、歯を食いしばる。
――僕は助けに行けない。 見えない場所で起きていることを、勝手な想像で埋めて、 それが一番ましな形だと思い込むしかない。
流れに身を任せている間だけ、考えずにいられる。
ママは、わたらいさんの善意を人質に取ったのだ。
こうなれば、彼女はもう何も言えない。 親切の皮を被った侵略を、拒むことはできない。 彼女自身が持っていたはずの優しさや正当性までも、所詮はお節介だったのだと、塗り替えられてしまう。
すりガラスの向こうで、彼女は項垂れ、顔を赤くして、唇を噛み締めているはずだ。
無防備な裸のまま。 意思も、思い出も、身に着けていた下着の所有権さえも。 すべてが、ママの圧倒的な正しさという濁流に押し流されていく。
プライバシーという最後の砦を明け渡した彼女は、泣いてしまうかもしれない。
――見えないというのは、安全だ。 見えなければ、どんな顔をしているかも、 どこまで奪われたかも、想像で済ませられる。
想像は、いつだって、現実よりも都合がいい。
弱々しく浴室の扉が閉まり、シャワーの音が再開する。
話はこれでおしまいと言わんばかりに、ガタン、と洗濯機の蓋が閉まる音が聞こえた。
0
あなたにおすすめの小説
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる