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一緒に
欠伸と微睡み
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車内では、ママも僕もわたらいさんも、前を向いたまま一言も発することはなかった。
信号待ちのたびに、ママの指がハンドルを規則正しく叩く音だけが、解放までのカウントダウンのように響いていた。
このまどろみが、息苦しさからくる目眩なのか、眠気なのか、もうわからない。
気づけば、車はマンションの駐車場に滑り込んでいた。
エンジンが止まった瞬間の真の静寂が、鼓膜に突き刺さる。
「さあ、着いたわ。恵ちゃん、シャンプーやタオルやドライヤーはうちのを貸してあげる。着替えだけ取りに行って、持っていらっしゃい」
ママの妙に明るい声だけが、夜の駐車場に不自然に浮いて響いた。
「荷物、持ち切れないなら、颯が手伝うわ」
家を出る時から持っていたトートバッグを手に、助手席から降りたわたらいさんの背中が、寒さのせいか、それとも別の理由か、小さく震えているのが見えた。
もしかしたら、さっきの小鳥の残像が、あるいは駐車場でのママの心無い一言が、未だ彼女を責め続けているのではないか。
僕はそんな不安を抱きながら、車を降りると、歩き始めたわたらいさんの後ろをついていく。
「……鍵、持ってる?」
僕が小声で聞くと、わたらいさんはゆっくりとこちらを向き、ポケットを叩き小さく頷いた。
その目元には微かに涙が浮かんでいたけれど、彼女はそれを拭いながら、大きな欠伸を一つした。その身体が、小さく震える。
震えの正体がただ欠伸を噛み殺しているだけだと分かり、僕は拍子抜けしてしまう。
「眠いの?」
「……ちょっと、疲れちゃった」
彼女はそう答えると、視線を落としたまま、自分の家の方へと歩き出す。
ママの視線が届かない暗がりに足を踏み入れた瞬間、数歩分の距離を保っていた彼女の歩調が、僕を待つようにしてわずかに緩んだ。
「……お風呂の中で眠っちゃいそう」
安堵に胸を撫で下ろしながらも、あれほどの異常の後で眠気を覚えている彼女に、思わず苦笑が漏れた。
わたらいさんの中では、あの小鳥たちの凄惨な姿さえ、日常の一部に過ぎないのだろうか。
僕は彼女の隣で、ようやくひんやりとし始めた夜の空気の中を歩き出す。
守らなくちゃ――そう思った自分の指先が、わずかに震えていた。彼女のすべてを、本当に僕ひとりでこのまま抱え込めるのだろうか。
ママさえも悲鳴を上げたあの闇を、僕は一生、彼女の隣で見つめ続ける覚悟が、本当にできているのだろうか。
アパートの階段を上がり切ると、僕の家の扉を通り過ぎてわたらいさんの家の前まで進む。
鍵を開けた瞬間、わたらいさんは急に眠気の覚めたような顔になる。
「ここで、ちょっと待ってて」
それがなぜかは分からずに外廊下で待っていたが、きっと着替えの下着を見られたくなかったのだろうと少し遅れて思い至る。
そんな当たり前の羞恥心がまだ彼女の中に残っていることに、僕はどこか救われたような気持ちになっていた。
思ったよりも支度に長い時間をかけた後、わたらいさんがまたトートバッグを手に出てくる。
「ごめん……おじいちゃんたちからの留守電が、いっぱい溜まってて……」
伏せられた睫毛が、微かに震えている。
ママは言っていた。病院から戻ったわたらいさんの祖父母に、自分から事情を説明して納得させたのだと。
留守電に残された声は、きっとママへの感謝と、わたらいさんへの「いい人に助けてもらえてよかった」という、無垢で残酷な安堵に満ちていたのだろう。
それは、わたらいさんにとっての帰る場所が、ママの支配下という監獄に上書きされたことを意味していた。
「……いやだよね」
僕は、ママが階段を上り始めた微かな足音に気づきながら、小声で呟く。
「僕のママのこと、嫌いでしょ?」
わたらいさんは、トートバッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめたまま、すぐには答えなかった。
彼女は僕の顔を見ようとはせず、ただ、暗い階段の先を見つめていた。
カツン、カツンと、ママの足音が少しずつ近づいている。
「……嫌いとか、そういうの、もうわかんない」
掠れた声で彼女は言った。
それは、感情を殺すことでしかママという圧倒的な存在から心を守れないという限界のサインだったのかもしれない。
僕は、半開きの扉の影に身を潜めるわたらいさんの肩にそっと触れ、玄関の内側へ押し戻した。
「そのまま部屋に戻って。僕が上手く言っておくから。支度している途中に、疲れて寝ちゃったって」
そんな子供じみた嘘が、あの鋭敏なママに通じないことくらい分かっていたけれど、僕は今の彼女に、これ以上嫌な思いをさせたくなかった。
せめて自然な睡魔に身を任せて、ゆっくり休んで欲しかったのだ。
僕の提案を聞いて、わたらいさんはトートバッグを握る手を少しだけ緩めた。
そして不安げに、そろそろママが上り切るであろう階段の方を見つめる。けれど、その視線はすぐに僕の方へと戻ってきた。
「……ママは、こわい。すごく、きらい。……でも……」
わたらいさんはそこで言葉を切り、下唇をぐっと噛み締める。
彼女の頬が、ぽっと淡い赤を帯びた。
「……ぺことお泊まりは、したい」
それは、さっきまでの絶望していた少女とは思えないほど、幼く、純粋な表情だった。
その真っ直ぐな渇望に、僕の心臓が不規則な音を立てる。
カツン、と。
階段の最後の一段を踏みしめる音がして、踊り場からママの姿が見えた。
信号待ちのたびに、ママの指がハンドルを規則正しく叩く音だけが、解放までのカウントダウンのように響いていた。
このまどろみが、息苦しさからくる目眩なのか、眠気なのか、もうわからない。
気づけば、車はマンションの駐車場に滑り込んでいた。
エンジンが止まった瞬間の真の静寂が、鼓膜に突き刺さる。
「さあ、着いたわ。恵ちゃん、シャンプーやタオルやドライヤーはうちのを貸してあげる。着替えだけ取りに行って、持っていらっしゃい」
ママの妙に明るい声だけが、夜の駐車場に不自然に浮いて響いた。
「荷物、持ち切れないなら、颯が手伝うわ」
家を出る時から持っていたトートバッグを手に、助手席から降りたわたらいさんの背中が、寒さのせいか、それとも別の理由か、小さく震えているのが見えた。
もしかしたら、さっきの小鳥の残像が、あるいは駐車場でのママの心無い一言が、未だ彼女を責め続けているのではないか。
僕はそんな不安を抱きながら、車を降りると、歩き始めたわたらいさんの後ろをついていく。
「……鍵、持ってる?」
僕が小声で聞くと、わたらいさんはゆっくりとこちらを向き、ポケットを叩き小さく頷いた。
その目元には微かに涙が浮かんでいたけれど、彼女はそれを拭いながら、大きな欠伸を一つした。その身体が、小さく震える。
震えの正体がただ欠伸を噛み殺しているだけだと分かり、僕は拍子抜けしてしまう。
「眠いの?」
「……ちょっと、疲れちゃった」
彼女はそう答えると、視線を落としたまま、自分の家の方へと歩き出す。
ママの視線が届かない暗がりに足を踏み入れた瞬間、数歩分の距離を保っていた彼女の歩調が、僕を待つようにしてわずかに緩んだ。
「……お風呂の中で眠っちゃいそう」
安堵に胸を撫で下ろしながらも、あれほどの異常の後で眠気を覚えている彼女に、思わず苦笑が漏れた。
わたらいさんの中では、あの小鳥たちの凄惨な姿さえ、日常の一部に過ぎないのだろうか。
僕は彼女の隣で、ようやくひんやりとし始めた夜の空気の中を歩き出す。
守らなくちゃ――そう思った自分の指先が、わずかに震えていた。彼女のすべてを、本当に僕ひとりでこのまま抱え込めるのだろうか。
ママさえも悲鳴を上げたあの闇を、僕は一生、彼女の隣で見つめ続ける覚悟が、本当にできているのだろうか。
アパートの階段を上がり切ると、僕の家の扉を通り過ぎてわたらいさんの家の前まで進む。
鍵を開けた瞬間、わたらいさんは急に眠気の覚めたような顔になる。
「ここで、ちょっと待ってて」
それがなぜかは分からずに外廊下で待っていたが、きっと着替えの下着を見られたくなかったのだろうと少し遅れて思い至る。
そんな当たり前の羞恥心がまだ彼女の中に残っていることに、僕はどこか救われたような気持ちになっていた。
思ったよりも支度に長い時間をかけた後、わたらいさんがまたトートバッグを手に出てくる。
「ごめん……おじいちゃんたちからの留守電が、いっぱい溜まってて……」
伏せられた睫毛が、微かに震えている。
ママは言っていた。病院から戻ったわたらいさんの祖父母に、自分から事情を説明して納得させたのだと。
留守電に残された声は、きっとママへの感謝と、わたらいさんへの「いい人に助けてもらえてよかった」という、無垢で残酷な安堵に満ちていたのだろう。
それは、わたらいさんにとっての帰る場所が、ママの支配下という監獄に上書きされたことを意味していた。
「……いやだよね」
僕は、ママが階段を上り始めた微かな足音に気づきながら、小声で呟く。
「僕のママのこと、嫌いでしょ?」
わたらいさんは、トートバッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめたまま、すぐには答えなかった。
彼女は僕の顔を見ようとはせず、ただ、暗い階段の先を見つめていた。
カツン、カツンと、ママの足音が少しずつ近づいている。
「……嫌いとか、そういうの、もうわかんない」
掠れた声で彼女は言った。
それは、感情を殺すことでしかママという圧倒的な存在から心を守れないという限界のサインだったのかもしれない。
僕は、半開きの扉の影に身を潜めるわたらいさんの肩にそっと触れ、玄関の内側へ押し戻した。
「そのまま部屋に戻って。僕が上手く言っておくから。支度している途中に、疲れて寝ちゃったって」
そんな子供じみた嘘が、あの鋭敏なママに通じないことくらい分かっていたけれど、僕は今の彼女に、これ以上嫌な思いをさせたくなかった。
せめて自然な睡魔に身を任せて、ゆっくり休んで欲しかったのだ。
僕の提案を聞いて、わたらいさんはトートバッグを握る手を少しだけ緩めた。
そして不安げに、そろそろママが上り切るであろう階段の方を見つめる。けれど、その視線はすぐに僕の方へと戻ってきた。
「……ママは、こわい。すごく、きらい。……でも……」
わたらいさんはそこで言葉を切り、下唇をぐっと噛み締める。
彼女の頬が、ぽっと淡い赤を帯びた。
「……ぺことお泊まりは、したい」
それは、さっきまでの絶望していた少女とは思えないほど、幼く、純粋な表情だった。
その真っ直ぐな渇望に、僕の心臓が不規則な音を立てる。
カツン、と。
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