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一緒に
潔癖の檻
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「……あれが恵ちゃんの探していた猫?」
そうではないことを確信しているような表情で、ママが薄汚れた三毛猫を指差す。
あんな汚いものを、ママは自分の車に乗せたくないのだ。
「いいえ……。でも、もしかしたらそうかも知れないと思って……思わず見にきてしまいました」
わたらいさんはそう言って、影を作る為に寄せていた身体を、僕から少しだけ離した。
「それなら、早くこちらへいらっしゃい。そんな汚い猫、どんなバイ菌を持っているか分からないんだから。きっと病気持ちなのよ、放っておきなさい」
ママがわたらいさんの両肩に触れた。そのままごく自然に自分の方へと引き寄せる。わたらいさんの表情が明らかに強張ったことに、ママは気づかない。
「颯、アンタは触ってないでしょうね?」
「触ってないよ」
そう答えても、ママは僕を睨んでいた。
ママの視線が、僕から外れる。
「あら、それは何……?」
ママがわたらいさんを自分の方へ引き寄せたことで僕らの影が割れ、あの異形が堂々と晒されていた。
夜の駐車場に、ママの喉から絞り出されたような鋭い悲鳴が響く。
それは僕が生まれて初めて聞く、理性を欠いた無力な女の悲鳴だった。
「これ」がわたらいさんの能力を目の当たりにした人間の、正しい反応なのだろう。
わたらいさんの目が伏せられ、瞳から光が消える。
驚いた三毛猫が、小鳥を置いたまま、音もなく闇の奥へと逃げ去っていく。
ママは震える手で自分の口を覆った。声を無理矢理喉の奥へと押し込むように。
見開かれた瞳には、嫌悪と、生理的な拒絶が渦巻いている。額には、うっすら冷や汗が滲んでいた。
けれど、その動揺は一瞬だった。
猫の姿が消えたのを確認すると、ママは無理やり肺に空気を詰め込み、一気にそれを押し殺した。
乱れた髪を一撫でして、いつもの「正しい母親」の仮面を被り直す。
「……帰りましょう。こんなところ、もう一秒もいたくないわ」
ママの声は、もういつもの凛とした調子を取り戻していた。
けれど、車のキーを取り出すママの指先が、隠しきれずに微かに震えているのを僕は見逃さなかった。
わたらいさんは、何も言わなかった。
ただ、伏せられた睫毛の影が、街灯の下で異様に長く、暗く伸びている。
さっきまで「よじれからの返事だ」と熱を帯びていた彼女の瞳は、今はもう、自分の存在そのものを恥じるように、深く、沈み込んでしまっている。
ママに続いて歩き出す彼女の背中は、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
僕は、たまらなくなって歩幅を早めた。
ママの視線を盗むようにして、彼女の隣に並ぶ。
「……わたらいさん」
小さな声で呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねた。
ママはさっさと背を向け、車だけを見つめて歩いている。
その隙を突いて唇を重ねようとした僕の袖を、わたらいさんが力強く掴んで止めた。
「だめ。……見られる」
微かな、震える声。彼女はママの恐ろしさを、僕以上に敏感に察知していた。
振り向かれたら終わりだ。僕たちがママの正しさを汚したことがバレれば、二度と会えなくなるかもしれない。
僕は素直に身体を引き、拳を握りしめた。
でも、このまま彼女を絶望の中に置き去りにはしたくない。
僕は、彼女の手のひらに、自分の指先をほんの少しだけ触れさせた。
ママに悟られない程度の、けれど確かに「僕はここにいる」と伝えるための、微かな接触。
彼女の指先は、氷のように冷たかった。
けれど僕が触れた瞬間、彼女の指が、縋るように僕の人差し指を握り返した。
「わたらいさん。僕は、大好きだよ」
それは、空気の振動だけで伝えるような、微かな囁き。
「何があっても、僕は君の味方だから。さっきの猫も、小鳥も、僕は……」
言いかけた言葉を、ママの車の解錠音が遮る。
わたらいさんは、僕の言葉を飲み込むように小さく頷くと、僕の指をパッと放した。
「颯、早くしなさい! 恵ちゃんも!」
ママの鋭い声が飛んでくる。
僕たちは一歩分の距離を保ったまま、何食わぬ顔で歩き出した。
後部座席を開けたママの手が、わたらいさんの肩を強く押し、車へと促す。
わたらいさんは抗うこともなく、まるで魂の抜けた殻のように、ママの誘導に従った。
彼女が先に車に乗り込む間に、僕はアスファルトの上に残された異形を最後にもう一度だけ見た。
街灯に照らされたそれは、光と影の中で、分かたれることを拒むように、まだひっそりと横たわっている。
僕たちは、ママが軽蔑したあの小鳥たちのように、互いの絶望を繋ぎ合わせたまま、清潔な白い車へと吸い込まれていった。
そうではないことを確信しているような表情で、ママが薄汚れた三毛猫を指差す。
あんな汚いものを、ママは自分の車に乗せたくないのだ。
「いいえ……。でも、もしかしたらそうかも知れないと思って……思わず見にきてしまいました」
わたらいさんはそう言って、影を作る為に寄せていた身体を、僕から少しだけ離した。
「それなら、早くこちらへいらっしゃい。そんな汚い猫、どんなバイ菌を持っているか分からないんだから。きっと病気持ちなのよ、放っておきなさい」
ママがわたらいさんの両肩に触れた。そのままごく自然に自分の方へと引き寄せる。わたらいさんの表情が明らかに強張ったことに、ママは気づかない。
「颯、アンタは触ってないでしょうね?」
「触ってないよ」
そう答えても、ママは僕を睨んでいた。
ママの視線が、僕から外れる。
「あら、それは何……?」
ママがわたらいさんを自分の方へ引き寄せたことで僕らの影が割れ、あの異形が堂々と晒されていた。
夜の駐車場に、ママの喉から絞り出されたような鋭い悲鳴が響く。
それは僕が生まれて初めて聞く、理性を欠いた無力な女の悲鳴だった。
「これ」がわたらいさんの能力を目の当たりにした人間の、正しい反応なのだろう。
わたらいさんの目が伏せられ、瞳から光が消える。
驚いた三毛猫が、小鳥を置いたまま、音もなく闇の奥へと逃げ去っていく。
ママは震える手で自分の口を覆った。声を無理矢理喉の奥へと押し込むように。
見開かれた瞳には、嫌悪と、生理的な拒絶が渦巻いている。額には、うっすら冷や汗が滲んでいた。
けれど、その動揺は一瞬だった。
猫の姿が消えたのを確認すると、ママは無理やり肺に空気を詰め込み、一気にそれを押し殺した。
乱れた髪を一撫でして、いつもの「正しい母親」の仮面を被り直す。
「……帰りましょう。こんなところ、もう一秒もいたくないわ」
ママの声は、もういつもの凛とした調子を取り戻していた。
けれど、車のキーを取り出すママの指先が、隠しきれずに微かに震えているのを僕は見逃さなかった。
わたらいさんは、何も言わなかった。
ただ、伏せられた睫毛の影が、街灯の下で異様に長く、暗く伸びている。
さっきまで「よじれからの返事だ」と熱を帯びていた彼女の瞳は、今はもう、自分の存在そのものを恥じるように、深く、沈み込んでしまっている。
ママに続いて歩き出す彼女の背中は、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
僕は、たまらなくなって歩幅を早めた。
ママの視線を盗むようにして、彼女の隣に並ぶ。
「……わたらいさん」
小さな声で呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねた。
ママはさっさと背を向け、車だけを見つめて歩いている。
その隙を突いて唇を重ねようとした僕の袖を、わたらいさんが力強く掴んで止めた。
「だめ。……見られる」
微かな、震える声。彼女はママの恐ろしさを、僕以上に敏感に察知していた。
振り向かれたら終わりだ。僕たちがママの正しさを汚したことがバレれば、二度と会えなくなるかもしれない。
僕は素直に身体を引き、拳を握りしめた。
でも、このまま彼女を絶望の中に置き去りにはしたくない。
僕は、彼女の手のひらに、自分の指先をほんの少しだけ触れさせた。
ママに悟られない程度の、けれど確かに「僕はここにいる」と伝えるための、微かな接触。
彼女の指先は、氷のように冷たかった。
けれど僕が触れた瞬間、彼女の指が、縋るように僕の人差し指を握り返した。
「わたらいさん。僕は、大好きだよ」
それは、空気の振動だけで伝えるような、微かな囁き。
「何があっても、僕は君の味方だから。さっきの猫も、小鳥も、僕は……」
言いかけた言葉を、ママの車の解錠音が遮る。
わたらいさんは、僕の言葉を飲み込むように小さく頷くと、僕の指をパッと放した。
「颯、早くしなさい! 恵ちゃんも!」
ママの鋭い声が飛んでくる。
僕たちは一歩分の距離を保ったまま、何食わぬ顔で歩き出した。
後部座席を開けたママの手が、わたらいさんの肩を強く押し、車へと促す。
わたらいさんは抗うこともなく、まるで魂の抜けた殻のように、ママの誘導に従った。
彼女が先に車に乗り込む間に、僕はアスファルトの上に残された異形を最後にもう一度だけ見た。
街灯に照らされたそれは、光と影の中で、分かたれることを拒むように、まだひっそりと横たわっている。
僕たちは、ママが軽蔑したあの小鳥たちのように、互いの絶望を繋ぎ合わせたまま、清潔な白い車へと吸い込まれていった。
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