ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

小鳥遊愚香

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僕の家

ゆめうつつ

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 ふと目が覚めたとき、天井が遠すぎた。

 ――あ、床だ。

 さらに気づく。すぐ隣に、わたらいさんがいる。

 床に直接横たわる僕らの上に、かろうじて掛け布団が広げられていて、彼女は横向きに眠っていた。


 兄ちゃんの部屋の、朝になりきれない薄い光の中。

 寝息は静かで規則正しく、長いまつげは、伏せられたまま微動だにしない。

 わたらいさんが、眠ってる。

 それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 昨夜のことを、思い出す。

 呼吸。シャボン玉。

 僕の名前を呼ぶ彼女の声を思い出しただけで、喉の奥が熱くなる。

 動いたら、壊れそうだった。

 今の距離も、温度も、全部。

 だから、ただ見ていた。

 わたらいさんの髪が、頬にかかっている。
赤ちゃんみたいな寝顔が無防備だ。

 もう、二度とないかもしれない。彼女が、僕の隣で眠ってくれることなんて。
 
 そう思った瞬間、彼女が小さく身じろぎをした。布団の中で、もぞもぞと近づく気配の後に、ぐっと顔の位置が近づく。

 その瞬間。

 ……ふ、と、柔らかいものが、唇に触れた。声にならなかった。心臓が跳ね、息が止まる。

「……っ」

 触れたというより、瞬きするよりも短い、ほんの一瞬、当たっただけ。

 わたらいさんは、何も知らないまま、また静かな寝息に戻っている。眉も、口元も、さっきと同じ。

 夢なのかな。

 そう思いたかったのに、唇に残るわずかな温度は、どうしても消えなかった。

 動けない。動いたら、全部が終わってしまいそうで。

 布団の中で、指先が震える。愛おしくて、仕方なかった。

 こんなふうに眠っている人が、昨日、僕の名前を呼んでくれた。助けてくれた。
 それだけで、十分なのに。

 声にしなかった言葉が、胸の中で膨らむ。

 ずっと一緒にいたい。どこにも行かないでほしい。

 そんなことをひとりで考えるのは、きっと、ずるいことだ。

 わたらいさんが、寝ぼけたまま、少しだけ眉を寄せた。

「……ん……」

 小さな、寝言。意味のない音。
それなのに、胸がいっぱいになる。

 僕は布団の端をそっと掴んで、頭までそれを被り、目を閉じた。

 これ以上、何も起きなくていい。この朝が、ただ、静かに過ぎてくれればいい。

 もう一度眠ろう。
起きたときも、彼女はまだ無防備に隣に眠ってる気がした。

 部屋の外の気配なんて、もうどうでもよかった。





******

 数分だったのか、数十分だったのか。再び意識が浮上したのは、布団が動いたからだった。

 隣で、わたらいさんが小さく身じろぎをしている。寝返りというには、何か目的があるような動き。

「……はや、て……」

 名前が、溢れた。はっきりとした発音ではなくて、喉の奥で転がしたみたいな柔らかい音。

 心臓が、ぎゅっと縮む。

「……ハヤテ……」

 今度は、さっきよりも少しだけ強く呼ばれる。

 次の瞬間、布団の中で、腕が伸びてきた。探るみたいに空を掴んで、それから、僕の服の肩の辺りを掴む。
 
 そのまま、ぎゅっと引き寄せられた。

「……っ」

 声を出しそうになって、慌てて息を殺す。
 わたらいさんは、目を閉じたまま完全に、寝ている。

 それなのに。
 彼女は、僕の肩に顔を埋めて、服の端をきゅっと歯で噛んだ。

「……ん、んむ……」

 ……噛んでる。
 引っ張るでもなく、ちょっと困ったみたいに甘噛みしている。

 ――なに……?なんか、食べる夢……?

 状況が可笑しいはずなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 僕を逃がす気は、まったくないらしい。ずっと、しがみついている。

 急に噛んでいた力が抜けて、口がぱっと離れる。唇が微かに震えていた。

「……やだ……」

 震えている、小さな声。

「……よじ、れ……っ」

 彼女の飼い猫の名前。
 夢の中でも会えないのだろうか。

 泣きそうな声で、彼女の指が僕の服をさらに強く掴む。
今度は僕の胸に額を押しつけてきた。

「……ハヤテ……!」

 また、僕の名前。
 今度は、縋るみたいに呼んでいる。

 喉の奥が、きゅっと鳴った。

 ――ああ。
 僕は、今、守られているんじゃない。必要とされている。

 それが、こんなにも、安心できることだなんて。

 彼女は、眠ったまま、泣いていた。
声は出さない。ただ、まつげの端が濡れていく。

 僕は、そっと、彼女の背中に手を回した。
 抱きしめる、まではいかない。ただ、彼女が僕にしてくれたように、そっと、手を置く。
 
「……大丈夫だよ」

 聞こえないと分かっていて、それでも囁く。

「ここにいるよ」

 わたらいさんの呼吸が、少しだけ落ち着いた。服を掴む力が、ほんのわずかに緩むけど、離れはしない。

 まるで、本当に僕がいなくならないか、確かめているみたいに――。

 可愛くて、どうしようもなくて。
 僕は、動かないまま、朝を待つことにした。
 
 この重さも、この温度も。
 全部、今、生きている証みたいだった。

 わたらいさんが目を覚ましたら、自転車の鍵を探そう。そして、今度はもっと遠くまで、一緒によじれを探しに行くんだ。

 だから……もう一度、眠ろう。

 重たいまぶたの隙間で、視線がふらふらと部屋を泳ぐ。
 
 僕らの足元に、兄ちゃんの棚がある。
 ママが磨き上げた遺品たちに、場違いな物が混ざっていた。

 兄ちゃんが中学生の時に作り、五歳の僕がでたらめにシールを貼った、不格好なプラモデル。

 手足は妙に短く、関節の位置もどこか頼りない。胴体だけが、ずんぐりと膨らんでいる。

 両腕の付け根には、用途の分からない丸い膨らみがあって、頭部は低く、目らしい部分だけが横に広がっていた。

 格好いいはずの兵器なのに、どこか生き物みたいで、深い海の底を、音もなく這いずる奇妙な生命体のようにも見えた。

 ママが毎日丁寧に埃を払うせいで、剥がれかけたシールの隙間にノリが白く固着している。

 ……ふと、僕は思う。
 
 もしかして。
 さっきの、兄ちゃんのあの指は。
 僕でも、シャボン玉でもなくて。
 
 ――アレを、指差していたの?
 
 確かめる気力もないまま、意識が暗転する。



*********************



「どうせ、いつか壊すんだからさ」
 兄ちゃんはそう言って、できたばかりのプラモデルに目を向けた。
「悲しくならないやつが、いいだろ?」

「……こんなの、かっこ悪い」
 そう言いながら、幼い僕はさっきまで夢中でシールを貼っていた。

 兄ちゃんは笑った。
「じゃあ、俺が預かってやる」

 棚の一番下にそれを飾る。
「俺は、これ好きだよ」

「でも、弱そうじゃん」

「だからだろ」
 まだ文句を言う僕の頭を、兄ちゃんがポンポンと撫で付ける。
「これは、お前を、いつか助けてくれる」

 僕は改めてそのプラモデルを見た。
「……かっこ悪い」

「そうか」

 少しだけ間があって、兄ちゃんは笑った。
「俺は、好きだよ」



*********************



 ――ママには、内緒な。

 耳の奥で、そんな声がした気がした。
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