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人をバカにする鍵
浅瀬のひだまりティーパーティー
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シンク下の収納から、雪平鍋を引っ張り出した。
水を張って、コンロに載せ、火にかける。
「ママに怒られない?」
僕の隣で、ガスコンロの青白い炎を覗き込んでいた彼女が言う。
「火事が怖いし、火傷したら危ないし……」
その声が、途中で小さくなった。
鍋の底には、細かな泡が出来始める。
わたらいさんは、それ以上は何も言わず、互いの手の甲をそっと擦り合わせるように触れた。
すでに僕が、火傷で負傷していることを思い出したのだろう。
「ぺこ、知ってる?」
彼女は鍋の底で生まれては消える泡を、ただぼんやりと見つめている。
「お湯はすぐに沸騰して水面が暴れるでしょう。でも、油は違うの」
僕は、ガスの火を見つめている。
「すごく熱くても、静かなまま。触れるまで、誰も気づかない」
わたらいさんが、僕の肩に頭をもたれてきた。
「……ぺこも、そうなんだと思う」
「……紅茶、とってくる」
僕は温もりから離れ、乾物類が仕まってある戸棚や引き出しを開ける。
頂き物らしい、上等そうな紅茶のティーバッグがいくつか出てきた。
全部、名前が違うみたいだ。
ママはコーヒー派だし、僕も紅茶に詳しくない。
わたらいさんの横に戻って、僕はトランプみたいに広げてみせた。
「どれがいい?」
いつの間にか、お湯は狭い鍋の中から飛び出さんばかりに暴れている。
火を止めると、水面はすっと静まり、湯気だけが狼煙みたいに真っ直ぐに立ち上った。
熱い鍋から充分に距離をとってから、「そのままにして、選びたい」と彼女が言った。
わたらいさんは目を閉じたまま、腕をこちらに伸ばして、紅茶を選んでいる。
彼女は、なんでも楽しめる人なんだ。
手探りする彼女の指先が、僕の並べたティーバッグの端を掠める。
けれど、彼女の指は紅茶を掴むことなく、そのまま空を切って、僕の肩に触れた。
引き寄せられた流れで、両腕が首元へと滑り込んできた。
目を閉じたままの彼女の顔が、ゆっくりと近づき、僕のすぐ目の前にあった。
息が、驚くほど近い。
「……あ」
彼女が僕に何をしようとしているのか、その距離だけで悟ってしまった。
言葉にしなくても、ここから一歩進めば戻れなくなる。
僕は、その境界線に立っていた。
今の僕には、それを受け止める資格も、勇気も、何よりその後の責任も持てそうにない。
かつて、衝動に任せ、考えなしに彼女と唇を重ねた自分を恨んだ。
もし今、唇を重ねてしまったら、本当に戻れなくなる。
彼女をこの冷え切った食卓に永遠に閉じ込めてしまうか、あるいは僕自身が木っ端微塵に砕けてしまうか――そのどちらに転んでも、破滅しかないような気がした。
でもそれは、かつて僕らが切望した破滅とは、決定的に違う。
全てのことにいずれ終わりがくるのだとしたら、僕らは永遠のまま破滅してしまいたかった。
あの気持ちに嘘はない。嘘じゃなかったからこそ、形が変わってしまったのだ。
終わりたくなかった。全てのことにいずれ終わりが来るのだとしても、それをわざわざ早めることはない。
僕は彼女と、繰り返していきたい。日常も、食卓も、後悔も。
僕は大きく息を吸い込みながら、そのまま彼女の全てを取り込むように自分の胸の中へと引き寄せた。
ぎゅう、と、逃がさないように、けれど壊さないように抱きしめる。
「……だめだよ」
彼女の耳元で、自分でも驚くほどかすれた声が出た。
「終わりたくないから。気持ちまで一つになったら……離れるの、つらくなっちゃう、から」
こうしていれば、僕たちはまだ一つの輪郭でいられる。
触れ合いながら、踏み越えることはしない。
この曖昧さの中でしか、僕は答えを見つけられない気がした。
僕の腕の中で、わたらいさんの身体が、一度だけびくりと震えた。
やがて、僕の首元に回されていた彼女の腕に、力がこもる。
「大好きだよ、ハヤテ」
わたらいさんが、感情の読めない声で囁く。
「私たち、ずっと仲良しだよね?」
「うん」
どちらともなく、身体を離す。
「魚釣りの約束、忘れてないから」
わたらいさんが、僕の手から紅茶をひとつ抜き取る。
「……アールグレイだ。美味しいやつ」
自分の分を一つ手元に残して、紅茶を元の場所に戻す。
手際よく紅茶を淹れた彼女が、食卓にそれを運ぶ。ソーサーでカップに蓋がされていた。
「こうやって、蒸らして飲んだ方が美味しいよ」
彼女が食卓に座る。
「ちょっと、お行儀悪く見えるけどね」
僕も食卓に座った。
数分後、彼女が「もういいよ」というので、ソーサーを外した。
閉じ込められていた湯気と共に、紅茶の華やかな香りが鼻を抜けた。
わたらいさんは、ティーバッグを上下させながら、「魚釣りってこんな感じかな?」と笑う。
表面に息を吹きかけて、熱い紅茶を湯気ごと吸い込む。
温かくて、胸の奥の氷が溶けて解けていくようだ。
「美味しいね、ぺこ」
わたらいさんが微笑む。
その瞳の端に、小さな光が溜まっているのには気づかないふりをして、僕も笑う。
「美味しい。わたらいさんが淹れてくれたから」
――ピンポーン。
玄関から無機質な音が鳴った。
喉を通り過ぎた熱い紅茶が、胃に落ちる途中で急速に冷えていくようだ。
わたらいさんが、ティーバッグで魚釣りをしていた手を止める。
「綾瀬さーん、いらっしゃるー?」
玄関の向こう側から、聞き覚えのない、穏やかな誰かの声が聞こえてきた。
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