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人をバカにする鍵
潮干狩り
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わたらいさんがパッと顔を上げ、弾かれたように玄関へと駆けていく。
僕も戸惑いながら、その後を追った。
玄関のドアを開けると、そこには夏の朝日を背負った、上品な老夫婦が立っていた。
「朝早くから失礼致します。昨晩は、孫娘がお世話に……」
老婦人のその柔らかな目元に、わたらいさんの面影を感じる。
「おじいちゃん、おばあちゃん!」
わたらいさんの声が、弾んでいる。
僕の知らない声色。
それは、僕の前で見せる甘えたような響きとも、切実な訴えとも違う。
もっと根源的な場所から湧き出たような、無垢で、濁りのない心からの安堵の声だ。
「突然お邪魔して、申し訳ない。病院の帰りに、どうしてもお礼を言いたくて」
お祖父さんが、深々と頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
「あ、いえ……」
釣られて僕もぎこちなくお辞儀する。
「何も……してあげられなかったですけど……」
「そんなことはない、この子の顔を見れば分かる」
お祖父さんが、わたらいさんに笑いかける。
「……こんなに嬉しそうな顔は、久しぶりに見た」
わたらいさんも笑っている。
「おじいちゃん、紹介するね。この子が、綾瀬ハヤテくん」
彼女は誇らしげに、僕をフルネームで紹介した。
目と目が合う。
彼女は、僕の目を見つめたまま、言葉を続けた。
「私は、『ぺこ』って呼んでる」
「えっ……」
ドクン、と心臓が跳ねた。
これは思わず頬が熱くなるような、可愛らしい照れくささなんかじゃない。
「それは……」
それは、君が独り占めしていたはずの名前。
二人だけの世界で、秘密のおまじないみたいに呼んでいたその言葉が、夏の朝日の下で、あまりにもあっさりと放たれたことに呆然とする。
奪われてしまう。
本物の、大きな幸せの波に撫でられて、僕らの歪な幸せがこんなに無防備に晒されている。
剥き出しにされたら、奪われる。
僕の家の、この薄暗い玄関先で。
「まあ、ぺこ。可愛い呼び名ねえ」
目の前の老夫婦は、それを微笑ましく受け入れている。
やめて。奪わないで。返して。埋め直して。
「うん。お腹ぺこぺこだったから、ぺこ」
僕たちの特別が、正しい世界の友情の中に、いとも簡単に溶け込んでいく。
それがたまらなく怖かった。
「えへへ……変な名前ですよね」
僕は必死に、砂をかき集めた。
剥き出しになった僕たちの秘密を、もう一度見えないように埋め直したくて、必死に言葉を紡ぐ。
「その時は、その……雨もひどかったですし……色々あって……僕も、動揺していたみたいで……」
喉から出た声は、自分でも驚くほど乾いていて、上滑りした。
「雨の日にお腹がぺこぺこだったなんて、さぞかし辛かったろう」
それなのに、お祖父さんは僕のそんな必死な隠蔽工作なんて気にも留めない。
「何も恥ずかしいことじゃないさ。寒くて腹ぺこなのは、みーんな辛い」
僕は、へらへらと笑うことしかできない。
ママは既に仕事へ出かけたことを伝えると、お祖母さんが、手に持っていた紙袋を僕の手に握らせた。
「これ、地元の美味しいお菓子なの。お母様にもよろしくお伝えしてね」
それから老夫婦は、わたらいさんとたわいない話をしていた。
お祖父さんもお祖母さんもわたらいさんも、病院で戦っているはずの彼女の両親については一言も触れなかった。
まるで、この瞬間だけは不幸をこの家の外に置いてきたかのように、穏やかな空気を纏っている。
その和やかな会話の中で、わたらいさんは「さっき鍵を見つけてね。何の鍵か分かんないから、今、鍵穴を探す遊びをしてるんだよ」と正直に打ち明けた。
僕は、心臓が止まるかと思った。
不謹慎だ、他人の家で何をしているんだと、わたらいさんが叱られることを覚悟したからだ。
「えっ、あ、はい。でも、それは不謹慎というか……その、無理矢理、僕が手伝ってもらっただけで……」
だから、わたらいさんを叱らないで。
そう言おうとした僕の声を掻き消すように、お祖父さんは声を立てて笑った。
「はっはっは! まるで宝探しだねえ、楽しそうだ」
眩暈がした。
僕を縛り付けていた罪悪感も、後ろめたさも、この人たちの圧倒的な善意の前では、ひどく矮小なものに思えた。
「何か素敵なものが出てくるかもしれない。見つけたら、おじいちゃんたちにも教えておくれよ」
お祖父さんはそう言って、わたらいさんの頭を撫でた。
彼女には、帰る場所がある。
僕が死に物狂いで守ろうとしなくても、彼女を全肯定し、愛してくれる、僕の知らない世界が、最初から用意されているのだ。
違う。わたらいさんは、そんなに明るくて、正しいものじゃない。
僕が守りたかったのは、もっと暗くて、じっとりとした、誰にも触れられない場所で誰にも理解されずに身を潜めている、そんな彼女だったはずなのに。
「それじゃあ、私の家の鍵……これ、渡しておくね」
わたらいさんが、自分の家の鍵をお祖母さんに手渡す。
「めぐちゃん、お昼ごはん、何がいい?」
お祖母さんが尋ねる。
「冷やし中華!甘い金糸卵が、いっぱい乗っかってるやつ!」
わたらいさんが、無邪気に答えた。
さっきから、彼女の視線はずっと老夫婦に向いたままだ。
「はいはい。腕によりをかけるからね」
わたらいさんに穏やかに笑いかけたままの温かい表情で、お祖母さんが僕を見た。
「ハヤテくんも、良かったらご一緒しない?簡単なものだけど」
「……あ」
断らなくちゃ。そう思うのに、咄嗟に言葉が出てこない。
誘われたのは、きっと温かくて、眩しい、まともな食卓だ。
そこに行くのが――僕が居なくても生きていける彼女を目の当たりにするのが、堪らなく怖かった。
せっかく、わたらいさんが、穏やかで安心できる日常に戻れるのに。
僕は、なぜ喜べない?
彼女にとっての幸せが、まだ分からない?
握りしめた指先が、冷たくなる。考えれば考えるほど、自分が場違いな不純物に思えた。
「……ぺこ」
わたらいさんが、そっと手を握る。
「私、一緒に食べたいな」
彼女の視線がこちらを向いているのが分かるのに、僕はその目を見つめ返すことができない。
自分の足元を見つめたまま、呟く。
「……じゃあ……少しだけ……」
“少しだけ”なんて、誰に向けた言い訳なのか、正しい返事なのかも分からない。
「それじゃあ、出来たらまた呼びに来ますね」
そんな他愛もない約束をして、老夫婦は去っていった。
玄関のドアが閉まり、静寂が戻る。
手元には、ずっしりと重い手土産の袋が残された。廊下の片隅にそっと降ろす。
わたらいさんは、去っていった背中を見送っていた時の笑顔のまま、ゆっくりと僕の方を振り返った。
「……ね、ぺこ。お昼ごはんできるまで、鍵探しの続き、やろうよ」
彼女の瞳には、もう涙の欠片もなかった。安心しきったようにふにゃりと微笑んでいる。
僕はたまらなくなって、彼女の身体を力任せに引き寄せた。
「……っ」
驚いたような彼女の吐息が、鎖骨のあたりに当たる。
僕は何も言わなかった。適当な言葉が見つからなかった。
ただ、彼女を抱きしめる腕に力を込める。
いつか彼女がその正しい世界へ帰ってしまう前に、“僕の好きだったわたらいさん”のその輪郭を、自分の中に刻みつけておきたかった。
「……ぺこ?」
わたらいさんが、心底不思議そうな声を出す。
「……もう少しだけ……このままがいい」
ドアスコープから、小さな光が差し込んでいる、この曖昧なひだまりの中で。
暴かれてしまった無防備な彼女を埋め直すように。
僕たちはまだ、どこにも属さないただの「ぺことわたらいさん」でいたかった。
僕も戸惑いながら、その後を追った。
玄関のドアを開けると、そこには夏の朝日を背負った、上品な老夫婦が立っていた。
「朝早くから失礼致します。昨晩は、孫娘がお世話に……」
老婦人のその柔らかな目元に、わたらいさんの面影を感じる。
「おじいちゃん、おばあちゃん!」
わたらいさんの声が、弾んでいる。
僕の知らない声色。
それは、僕の前で見せる甘えたような響きとも、切実な訴えとも違う。
もっと根源的な場所から湧き出たような、無垢で、濁りのない心からの安堵の声だ。
「突然お邪魔して、申し訳ない。病院の帰りに、どうしてもお礼を言いたくて」
お祖父さんが、深々と頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
「あ、いえ……」
釣られて僕もぎこちなくお辞儀する。
「何も……してあげられなかったですけど……」
「そんなことはない、この子の顔を見れば分かる」
お祖父さんが、わたらいさんに笑いかける。
「……こんなに嬉しそうな顔は、久しぶりに見た」
わたらいさんも笑っている。
「おじいちゃん、紹介するね。この子が、綾瀬ハヤテくん」
彼女は誇らしげに、僕をフルネームで紹介した。
目と目が合う。
彼女は、僕の目を見つめたまま、言葉を続けた。
「私は、『ぺこ』って呼んでる」
「えっ……」
ドクン、と心臓が跳ねた。
これは思わず頬が熱くなるような、可愛らしい照れくささなんかじゃない。
「それは……」
それは、君が独り占めしていたはずの名前。
二人だけの世界で、秘密のおまじないみたいに呼んでいたその言葉が、夏の朝日の下で、あまりにもあっさりと放たれたことに呆然とする。
奪われてしまう。
本物の、大きな幸せの波に撫でられて、僕らの歪な幸せがこんなに無防備に晒されている。
剥き出しにされたら、奪われる。
僕の家の、この薄暗い玄関先で。
「まあ、ぺこ。可愛い呼び名ねえ」
目の前の老夫婦は、それを微笑ましく受け入れている。
やめて。奪わないで。返して。埋め直して。
「うん。お腹ぺこぺこだったから、ぺこ」
僕たちの特別が、正しい世界の友情の中に、いとも簡単に溶け込んでいく。
それがたまらなく怖かった。
「えへへ……変な名前ですよね」
僕は必死に、砂をかき集めた。
剥き出しになった僕たちの秘密を、もう一度見えないように埋め直したくて、必死に言葉を紡ぐ。
「その時は、その……雨もひどかったですし……色々あって……僕も、動揺していたみたいで……」
喉から出た声は、自分でも驚くほど乾いていて、上滑りした。
「雨の日にお腹がぺこぺこだったなんて、さぞかし辛かったろう」
それなのに、お祖父さんは僕のそんな必死な隠蔽工作なんて気にも留めない。
「何も恥ずかしいことじゃないさ。寒くて腹ぺこなのは、みーんな辛い」
僕は、へらへらと笑うことしかできない。
ママは既に仕事へ出かけたことを伝えると、お祖母さんが、手に持っていた紙袋を僕の手に握らせた。
「これ、地元の美味しいお菓子なの。お母様にもよろしくお伝えしてね」
それから老夫婦は、わたらいさんとたわいない話をしていた。
お祖父さんもお祖母さんもわたらいさんも、病院で戦っているはずの彼女の両親については一言も触れなかった。
まるで、この瞬間だけは不幸をこの家の外に置いてきたかのように、穏やかな空気を纏っている。
その和やかな会話の中で、わたらいさんは「さっき鍵を見つけてね。何の鍵か分かんないから、今、鍵穴を探す遊びをしてるんだよ」と正直に打ち明けた。
僕は、心臓が止まるかと思った。
不謹慎だ、他人の家で何をしているんだと、わたらいさんが叱られることを覚悟したからだ。
「えっ、あ、はい。でも、それは不謹慎というか……その、無理矢理、僕が手伝ってもらっただけで……」
だから、わたらいさんを叱らないで。
そう言おうとした僕の声を掻き消すように、お祖父さんは声を立てて笑った。
「はっはっは! まるで宝探しだねえ、楽しそうだ」
眩暈がした。
僕を縛り付けていた罪悪感も、後ろめたさも、この人たちの圧倒的な善意の前では、ひどく矮小なものに思えた。
「何か素敵なものが出てくるかもしれない。見つけたら、おじいちゃんたちにも教えておくれよ」
お祖父さんはそう言って、わたらいさんの頭を撫でた。
彼女には、帰る場所がある。
僕が死に物狂いで守ろうとしなくても、彼女を全肯定し、愛してくれる、僕の知らない世界が、最初から用意されているのだ。
違う。わたらいさんは、そんなに明るくて、正しいものじゃない。
僕が守りたかったのは、もっと暗くて、じっとりとした、誰にも触れられない場所で誰にも理解されずに身を潜めている、そんな彼女だったはずなのに。
「それじゃあ、私の家の鍵……これ、渡しておくね」
わたらいさんが、自分の家の鍵をお祖母さんに手渡す。
「めぐちゃん、お昼ごはん、何がいい?」
お祖母さんが尋ねる。
「冷やし中華!甘い金糸卵が、いっぱい乗っかってるやつ!」
わたらいさんが、無邪気に答えた。
さっきから、彼女の視線はずっと老夫婦に向いたままだ。
「はいはい。腕によりをかけるからね」
わたらいさんに穏やかに笑いかけたままの温かい表情で、お祖母さんが僕を見た。
「ハヤテくんも、良かったらご一緒しない?簡単なものだけど」
「……あ」
断らなくちゃ。そう思うのに、咄嗟に言葉が出てこない。
誘われたのは、きっと温かくて、眩しい、まともな食卓だ。
そこに行くのが――僕が居なくても生きていける彼女を目の当たりにするのが、堪らなく怖かった。
せっかく、わたらいさんが、穏やかで安心できる日常に戻れるのに。
僕は、なぜ喜べない?
彼女にとっての幸せが、まだ分からない?
握りしめた指先が、冷たくなる。考えれば考えるほど、自分が場違いな不純物に思えた。
「……ぺこ」
わたらいさんが、そっと手を握る。
「私、一緒に食べたいな」
彼女の視線がこちらを向いているのが分かるのに、僕はその目を見つめ返すことができない。
自分の足元を見つめたまま、呟く。
「……じゃあ……少しだけ……」
“少しだけ”なんて、誰に向けた言い訳なのか、正しい返事なのかも分からない。
「それじゃあ、出来たらまた呼びに来ますね」
そんな他愛もない約束をして、老夫婦は去っていった。
玄関のドアが閉まり、静寂が戻る。
手元には、ずっしりと重い手土産の袋が残された。廊下の片隅にそっと降ろす。
わたらいさんは、去っていった背中を見送っていた時の笑顔のまま、ゆっくりと僕の方を振り返った。
「……ね、ぺこ。お昼ごはんできるまで、鍵探しの続き、やろうよ」
彼女の瞳には、もう涙の欠片もなかった。安心しきったようにふにゃりと微笑んでいる。
僕はたまらなくなって、彼女の身体を力任せに引き寄せた。
「……っ」
驚いたような彼女の吐息が、鎖骨のあたりに当たる。
僕は何も言わなかった。適当な言葉が見つからなかった。
ただ、彼女を抱きしめる腕に力を込める。
いつか彼女がその正しい世界へ帰ってしまう前に、“僕の好きだったわたらいさん”のその輪郭を、自分の中に刻みつけておきたかった。
「……ぺこ?」
わたらいさんが、心底不思議そうな声を出す。
「……もう少しだけ……このままがいい」
ドアスコープから、小さな光が差し込んでいる、この曖昧なひだまりの中で。
暴かれてしまった無防備な彼女を埋め直すように。
僕たちはまだ、どこにも属さないただの「ぺことわたらいさん」でいたかった。
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