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人をバカにする鍵
滅びの呪文
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コンビニの前に差し掛かると、わたらいさんは「飲み物買おうよ」と言って、僕の返事を待たずに入店した。
自動ドアが開くのと同時に、冷房の効きすぎた空気と、あの無機質な入店音が僕たちを迎える。
眩しい。外の夏の日差しとは違う、人工的な眩しさ。
並べられた雑誌の表紙も、食べ物や飲み物のパッケージも、セールを告げる手書きのポップ広告も、ママの家にはない外の世界の色が多すぎて、僕は少し眩暈がした。
「……ぺこ、何がいい?」
プリンの帽子のつばを指で直しながら、飲料売り場の前のわたらいさんが僕を振り返る。
彼女はもう、迷いなく“わたらいさん”の顔をしていた。
「いい……僕、お金ないし」
「何言ってんの。今更そんなことで遠慮しないでよ。……麦茶でいい?」
わたらいさんは売り場から二人分を抜き取りながら、「今のちょっと、ぺこのママみたいだったね」と笑った。
それから、少しだけ声をひそめて彼女が続ける。
「ねえ、また、外にタクシー停まってたよね」
はっきり言って、僕は全く気がつかなかった。
「また、あの運転手さんだったりして」
僕はわたらいさんの誘導を頼りに、雑誌棚に身を隠しつつ、店内からタクシー内部を伺った。
男性ドライバーで、ドリンクホルダーにはブラックコーヒーのボトル缶が刺さっている。
「……どう? あの人?」
わたらいさんが、適当な漫画雑誌を開いて、顔を隠しながら尋ねてくる。
「分からない。でも、男の人だ。缶コーヒーを飲んでる」
僕は、ありのままを報告した。
「缶コーヒー買ってさ、お礼、を……言いに行こうよ」
よりによって青年誌を開いた彼女は、何かを見てしまったらしく、ぎょっとした顔で慌てて漫画雑誌を閉じた。
「気のせいだったら、気のせいでいいから。病院まで送ってもらったのに、知らんぷりできないでしょ」
「そうしようか。人違いなら、謝ればいいだけだしね」
僕も同意した。
缶コーヒー一本と、麦茶二本をレジに置いたわたらいさんは、トートバッグから剥き出しのお金を取り出す。
慣れた手つきで千円札を差し出す彼女の横で、僕は自分の空っぽのポケットに手を入れることしかできない。
重くなったレジ袋を受け取る彼女の細い腕が、僕よりもずっと大人びて見えて、僕は野球帽を深く被り直した。
守りたいなんて、どの口が言ったんだろう。
僕はまだ、彼女の財布の中に住んでいる寄生虫みたいなもんなのに。
「ちょっと、お手洗い行ってくる」
わたらいさんは買ったばかりのコンビニ袋を僕に預けた。
そのまま彼女がコンビニの奥、トイレの方へ向かうのを、僕はレジ前から見ていた。
トイレ付近に男が一人立っていた。
すれ違うとき、男の肘が、わたらいさんのトートバッグに軽く当たっていた。謝罪はなかった。
個室は一つだけ。いわゆる多目的トイレというもの。車椅子でも入れるようなスライド式の引き戸で、中は広い。
そこに、わたらいさんが入る。すると、それを待っていたかのように、扉の前にすかさず男が立った。
近い。
順番を待っているにしても、あんな距離で立つ理由が分からない。扉の真ん前で、まるで逃げ道を塞ぐみたいな位置だった。
多分、わたらいさんは気づいていない。
嫌な予感がして、僕はこっそり男の背後に回り込んだ。
しばらくして、彼女が内側から鍵を開ける小さな音が、僕の心臓の音より大きく響いた。
扉がわずかに開いた隙間に、男が吸い込まれるように肩を差し込む。
「あ、すみません……」
わたらいさんの、小さくて正しい謝罪。
彼女が外へ出ようとしたその身体を、男の厚い胸板が、押し潰すようにしてトイレの中へ押し戻した。
「うっ……!」
彼女が床に崩れる、鈍い音。
僕はレジ袋を握ったまま、扉へと駆け出していた。
男の手が、扉の内側を探るみたいに動いた。
鍵の位置を、確かめているように見えた。
扉が後ろ手に閉められるその隙間に、僕は無我夢中でコンビニ袋を押し込んだ。
間一髪、ペットボトルを扉に噛み合わせたことを確認してから、僕は腹の底からの大声で叫んだ。
「あの人、万引きしてる!!」
僕の叫びは、自分でも驚くほど店内に響き渡った。店の外まで届いたかもしれない。
レジの店員が顔を上げ、棚の向こうで雑誌をめくっていた客がこちらを見る。
「万引きしたものを、トイレで隠そうとしてます!!」
叫びながら、扉の向こうで彼女が泣いていないか、そればかり気になっていた。
泣いていたら、きっと、もう遅い。
扉の隙間から、なんとか自力で立ち上がったわたらいさんが見えた。口がぽかんと開いたままで、声が出ているのかどうかもよく分からなかった。肩がかすかに震え、手のひらをぎゅっと握っている。
「……っ、おいガキ、何が万引きだ!」
男が顔を真っ赤にして扉に挟まったレジ袋を押し返そうとしたが、もう遅い。店員が通路を走ってくる足音が聞こえた。
「わたらいさんっ!!」
僕はレジ袋で扉を押さえながら、もう片方の手を慎重に隙間に差し込んだ。指先が、角に押し込まれている彼女の手に、ぎりぎり届いた。
掴もうとしたけれど、わたらいさんは握り返さない。代わりに、恐る恐る指先で僕の甲をなぞるように触れ、確かめるように撫でた。
そのとき、初めて小さな啜り泣きが聞こえた。声は押し殺したまま、息だけが震えている。
ああ、だめだ。僕が怪我をするくらいなら、あの子は自分ひとりで全部引き受けるつもりなんだ。
走ってきた店員は、息を切らしながら立ち止まった。名札のカタカナが、やけにくっきり目に入る。
「……?」
何かを尋ねているのだと思う。でも、日本語じゃなかった。
トイレの扉を閉じまいと踏ん張る子供の手に困惑していた。
「中にっ、友達が……! 知らない男の人に……!」
言葉にしたら、僕も泣いてしまった。
「早くっ……たすけてぇ……!」
「チッ、関係ねぇよ! あっち行ってろ」
男が扉の隙間から手を出して、しっしっと追い払うジェスチャーをした。
店員が、わずかに後退りした。
「ちが……中に……!」
言葉が、順番を失って喉につかえる。指でトイレの扉を示しても、状況は伝わらない。
男が、わざとらしく肩をすくめた。
「なんだよ、ガキの悪ふざけか?」
男の手が、扉の縁を掴む。今度は逆に扉を開く方向へ動かす。僕が噛ませたレジ袋を、力任せに押し出そうとしていた。
「やめろっ……!」
慌てて腕を引き抜き、僕も必死に扉を開かせまいと引く。でも、体重も、腕の太さも、全部が違う。大人の力だし、引く力よりも押す力の方が強いことを知っている。
扉が、じり、と開かれる。
隙間がわずかに広くなるたび、挟み込んだコンビニ袋が重力に従い、ズレて落ちる。わたらいさんの顔を見る余裕もなくなっていた。
だめだ。閉められる。
頭が真っ白になって、でも、口だけが勝手に動いた。
「……い、いん……!」
喉がひっくり返る。
ママに散々やらされた、あの大嫌いな英単語帳のページを、頭の中で必死にめくる。
「……いん、まい……まい、ふれんど!!」
通じているかなんて、分からない。トイレを表す単語を思い出せない。それでも、叫ぶしかなかった。
「へるぷ、みー!! ぷりーず!!」
ママが僕の口に、頭に、無理やり詰め込んできた忌々しい単語。テストのためだけに覚えさせられた無機質な記号が、今、彼女を守るための唯一の武器になるなんて、皮肉すぎて吐き気がした。
男が舌打ちをして、もう一度、強く扉を押した。
腕が痺れる。指が、滑りそうになる。
それでも僕は、声が潰れるまで叫び続けた。意味なんて、どうでもよかった。
ただ、閉めさせちゃいけない。
それだけだった。
自動ドアが開くのと同時に、冷房の効きすぎた空気と、あの無機質な入店音が僕たちを迎える。
眩しい。外の夏の日差しとは違う、人工的な眩しさ。
並べられた雑誌の表紙も、食べ物や飲み物のパッケージも、セールを告げる手書きのポップ広告も、ママの家にはない外の世界の色が多すぎて、僕は少し眩暈がした。
「……ぺこ、何がいい?」
プリンの帽子のつばを指で直しながら、飲料売り場の前のわたらいさんが僕を振り返る。
彼女はもう、迷いなく“わたらいさん”の顔をしていた。
「いい……僕、お金ないし」
「何言ってんの。今更そんなことで遠慮しないでよ。……麦茶でいい?」
わたらいさんは売り場から二人分を抜き取りながら、「今のちょっと、ぺこのママみたいだったね」と笑った。
それから、少しだけ声をひそめて彼女が続ける。
「ねえ、また、外にタクシー停まってたよね」
はっきり言って、僕は全く気がつかなかった。
「また、あの運転手さんだったりして」
僕はわたらいさんの誘導を頼りに、雑誌棚に身を隠しつつ、店内からタクシー内部を伺った。
男性ドライバーで、ドリンクホルダーにはブラックコーヒーのボトル缶が刺さっている。
「……どう? あの人?」
わたらいさんが、適当な漫画雑誌を開いて、顔を隠しながら尋ねてくる。
「分からない。でも、男の人だ。缶コーヒーを飲んでる」
僕は、ありのままを報告した。
「缶コーヒー買ってさ、お礼、を……言いに行こうよ」
よりによって青年誌を開いた彼女は、何かを見てしまったらしく、ぎょっとした顔で慌てて漫画雑誌を閉じた。
「気のせいだったら、気のせいでいいから。病院まで送ってもらったのに、知らんぷりできないでしょ」
「そうしようか。人違いなら、謝ればいいだけだしね」
僕も同意した。
缶コーヒー一本と、麦茶二本をレジに置いたわたらいさんは、トートバッグから剥き出しのお金を取り出す。
慣れた手つきで千円札を差し出す彼女の横で、僕は自分の空っぽのポケットに手を入れることしかできない。
重くなったレジ袋を受け取る彼女の細い腕が、僕よりもずっと大人びて見えて、僕は野球帽を深く被り直した。
守りたいなんて、どの口が言ったんだろう。
僕はまだ、彼女の財布の中に住んでいる寄生虫みたいなもんなのに。
「ちょっと、お手洗い行ってくる」
わたらいさんは買ったばかりのコンビニ袋を僕に預けた。
そのまま彼女がコンビニの奥、トイレの方へ向かうのを、僕はレジ前から見ていた。
トイレ付近に男が一人立っていた。
すれ違うとき、男の肘が、わたらいさんのトートバッグに軽く当たっていた。謝罪はなかった。
個室は一つだけ。いわゆる多目的トイレというもの。車椅子でも入れるようなスライド式の引き戸で、中は広い。
そこに、わたらいさんが入る。すると、それを待っていたかのように、扉の前にすかさず男が立った。
近い。
順番を待っているにしても、あんな距離で立つ理由が分からない。扉の真ん前で、まるで逃げ道を塞ぐみたいな位置だった。
多分、わたらいさんは気づいていない。
嫌な予感がして、僕はこっそり男の背後に回り込んだ。
しばらくして、彼女が内側から鍵を開ける小さな音が、僕の心臓の音より大きく響いた。
扉がわずかに開いた隙間に、男が吸い込まれるように肩を差し込む。
「あ、すみません……」
わたらいさんの、小さくて正しい謝罪。
彼女が外へ出ようとしたその身体を、男の厚い胸板が、押し潰すようにしてトイレの中へ押し戻した。
「うっ……!」
彼女が床に崩れる、鈍い音。
僕はレジ袋を握ったまま、扉へと駆け出していた。
男の手が、扉の内側を探るみたいに動いた。
鍵の位置を、確かめているように見えた。
扉が後ろ手に閉められるその隙間に、僕は無我夢中でコンビニ袋を押し込んだ。
間一髪、ペットボトルを扉に噛み合わせたことを確認してから、僕は腹の底からの大声で叫んだ。
「あの人、万引きしてる!!」
僕の叫びは、自分でも驚くほど店内に響き渡った。店の外まで届いたかもしれない。
レジの店員が顔を上げ、棚の向こうで雑誌をめくっていた客がこちらを見る。
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叫びながら、扉の向こうで彼女が泣いていないか、そればかり気になっていた。
泣いていたら、きっと、もう遅い。
扉の隙間から、なんとか自力で立ち上がったわたらいさんが見えた。口がぽかんと開いたままで、声が出ているのかどうかもよく分からなかった。肩がかすかに震え、手のひらをぎゅっと握っている。
「……っ、おいガキ、何が万引きだ!」
男が顔を真っ赤にして扉に挟まったレジ袋を押し返そうとしたが、もう遅い。店員が通路を走ってくる足音が聞こえた。
「わたらいさんっ!!」
僕はレジ袋で扉を押さえながら、もう片方の手を慎重に隙間に差し込んだ。指先が、角に押し込まれている彼女の手に、ぎりぎり届いた。
掴もうとしたけれど、わたらいさんは握り返さない。代わりに、恐る恐る指先で僕の甲をなぞるように触れ、確かめるように撫でた。
そのとき、初めて小さな啜り泣きが聞こえた。声は押し殺したまま、息だけが震えている。
ああ、だめだ。僕が怪我をするくらいなら、あの子は自分ひとりで全部引き受けるつもりなんだ。
走ってきた店員は、息を切らしながら立ち止まった。名札のカタカナが、やけにくっきり目に入る。
「……?」
何かを尋ねているのだと思う。でも、日本語じゃなかった。
トイレの扉を閉じまいと踏ん張る子供の手に困惑していた。
「中にっ、友達が……! 知らない男の人に……!」
言葉にしたら、僕も泣いてしまった。
「早くっ……たすけてぇ……!」
「チッ、関係ねぇよ! あっち行ってろ」
男が扉の隙間から手を出して、しっしっと追い払うジェスチャーをした。
店員が、わずかに後退りした。
「ちが……中に……!」
言葉が、順番を失って喉につかえる。指でトイレの扉を示しても、状況は伝わらない。
男が、わざとらしく肩をすくめた。
「なんだよ、ガキの悪ふざけか?」
男の手が、扉の縁を掴む。今度は逆に扉を開く方向へ動かす。僕が噛ませたレジ袋を、力任せに押し出そうとしていた。
「やめろっ……!」
慌てて腕を引き抜き、僕も必死に扉を開かせまいと引く。でも、体重も、腕の太さも、全部が違う。大人の力だし、引く力よりも押す力の方が強いことを知っている。
扉が、じり、と開かれる。
隙間がわずかに広くなるたび、挟み込んだコンビニ袋が重力に従い、ズレて落ちる。わたらいさんの顔を見る余裕もなくなっていた。
だめだ。閉められる。
頭が真っ白になって、でも、口だけが勝手に動いた。
「……い、いん……!」
喉がひっくり返る。
ママに散々やらされた、あの大嫌いな英単語帳のページを、頭の中で必死にめくる。
「……いん、まい……まい、ふれんど!!」
通じているかなんて、分からない。トイレを表す単語を思い出せない。それでも、叫ぶしかなかった。
「へるぷ、みー!! ぷりーず!!」
ママが僕の口に、頭に、無理やり詰め込んできた忌々しい単語。テストのためだけに覚えさせられた無機質な記号が、今、彼女を守るための唯一の武器になるなんて、皮肉すぎて吐き気がした。
男が舌打ちをして、もう一度、強く扉を押した。
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