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人をバカにする鍵
プリンの帽子
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家に洗濯物を置きに戻ったわたらいさんを、僕は共用玄関で待つ。
夏の日差しが、相変わらず容赦なく照りつけている。
前回の猫探しの教訓から、僕は野球帽を被ってきた。特段贔屓にしている球団というわけでもない。多分メジャーリーグのロゴマークで、それがなんとなくカッコよく見えた。
手持ち無沙汰で、意味もなく家のポストを開けたりするが、チラシの一枚すら入っていなかった。
集合ポストの下には、不要チラシを捨てるための共用ゴミ箱がある。雑に押し込まれたチラシの一枚が不自然に折れて、どこかの貸し倉庫の写真がちらっと見えた気がした。
それも一瞬のことで、階段を降りてくる軽やかな足音に気づくと、すぐにそちらに意識を持っていかれてしまった。
「お待たせ」
わたらいさんはまたトートバッグを肩に下げていた。洗濯物が減った分、いくらか薄くなっている。
彼女は自宅の鍵を、自分の部屋番号のポストの中に押し込みながら、「おじいちゃんとおばあちゃん、家に入れなくなっちゃうから」と、聞いてもいないのに呟いた。
わたらいさんも帽子を被っている。名前は知らない、変わった形の帽子。
「プリンみたいだね」
僕は思わず口に出していた。
「カラメルソースかける前の、プリン」
彼女は被っていた帽子を脱いで、まじまじと見ている。髪はシュシュでひとつ結びのままだった。
「なんか、薄いベージュ色だし」
僕は、自分が知っている中で、一番近い色に例えた。
「これはね、ベージュじゃなくて生成り」
わたらいさんが帽子を深く被り直す。
「きなり?」
「うん。白に近い布の色」
彼女は帽子のつばを、指で軽くつまんだ。
「形は……確かにプリンみたいだけど」
僕は、心の中でプリンの帽子と呼ぶことを決めた。
「バケットハットって言うんだよ。バケツをひっくり返したみたいな形だから」
「……本当だ」
わたらいさんは、プリンの帽子の本当の名前を教えてくれた。
猫探しと同じルートを、敢えて選んで歩き出す。隣同士並んで歩くけれど、今回は手を繋がなかった。
僕は手のひらの中に鍵を、彼女はトートバッグの持ち手を握り込んでいる。
日陰を探して歩いていても、熱はどんどん籠るように思えた。
「ねえ……」
僕は、手のひらの中で温もる鍵を確かめながら、ずっと彼女に聞こうと思っていた話題に、初めて触れることにした。
「わたらいさんはさ、やっぱり、将来はお医者さんになりたいの?」
なんで今こんなことを聞いたのか、自分でもよく分からなかった。
夏の暑さのせいで、頭がどうにかなったのかもしれない。
わたらいさんの顔を覗き込む。
怯えたような目が見つめ返してきた。
「……お医者さん? やだよ」
そして、彼女はすぐに目を伏せる。
「誰かを助けるなんて、そんな立派なこと……今の私にできるわけないじゃん」
わたらいさんは吐き捨てるようにそう言って、プリンの帽子のつばをさらに深く下げた。
「私ね、本当は、壊す方が得意なんだと思う。……パパやママの期待も、自分の将来も。ぺこの日常も、全部」
彼女の指先が、僕の手の甲に触れ、すぐに離れる。
「ぺこも、全部見てたでしょ?」
「見てたけど……それでも、壊す方が得意とは思わないよ」
僕の言葉を否定するように、わたらいさんは強く首を横に振った。
「お医者さんになって、誰かの病気を治すくらいなら。……私は、一生治らない病気みたいに、誰かに……」
その先は言わなかった。
彼女の顔を覗き込んでいた僕の方へ、彼女はゆっくりと顔を寄せる。
お互い、呼吸が荒い。
「……本当はさ、壊れてないって、確かめたかったんじゃないの?」
僕がそう囁いても、わたらいさんは止まらなかった。
「はじめから壊れてるって思ってたら、わたらいさんだって……わざわざそんなこと、しない気がする」
怖いと思った。
同時に、そんな彼女の病を一生、僕だけが抱え込んでいたいと願う自分もいた。
彼女の顔が、近すぎて、見えない。
「少なくとも……わたらいさんは、楽しくて壊してたんじゃないと、僕は思う」
脳裏に、僕を折檻するママの冷徹な表情や、兄ちゃんの最期の笑顔が浮かんでは消える。
「そういう人は、そんな顔しないよ」
街の日陰の中で、さらに薄い僕らの影が重なる。
どこかで鳴いている蝉だけが、けたたましく刹那の魂を叫んでいる。
「それでも私は……“めぐちゃん”だから」
わたらいさんが、そっと身体を離した。
「“めぐちゃん”は、お医者さんにならなくちゃ。みんなの期待に応えなくちゃいけないの」
その言葉は、真夏の湿った風に乗って、僕の耳の奥に泥のように沈み込んだ。
僕らは再び歩き出す。
僕は、手のひらの中で鍵を握り直した。
プリンの帽子を深く被った彼女の横顔は、影になっていてもう見えない。
遠くに、いつかのコンビニの看板が見えていた。
夏の日差しが、相変わらず容赦なく照りつけている。
前回の猫探しの教訓から、僕は野球帽を被ってきた。特段贔屓にしている球団というわけでもない。多分メジャーリーグのロゴマークで、それがなんとなくカッコよく見えた。
手持ち無沙汰で、意味もなく家のポストを開けたりするが、チラシの一枚すら入っていなかった。
集合ポストの下には、不要チラシを捨てるための共用ゴミ箱がある。雑に押し込まれたチラシの一枚が不自然に折れて、どこかの貸し倉庫の写真がちらっと見えた気がした。
それも一瞬のことで、階段を降りてくる軽やかな足音に気づくと、すぐにそちらに意識を持っていかれてしまった。
「お待たせ」
わたらいさんはまたトートバッグを肩に下げていた。洗濯物が減った分、いくらか薄くなっている。
彼女は自宅の鍵を、自分の部屋番号のポストの中に押し込みながら、「おじいちゃんとおばあちゃん、家に入れなくなっちゃうから」と、聞いてもいないのに呟いた。
わたらいさんも帽子を被っている。名前は知らない、変わった形の帽子。
「プリンみたいだね」
僕は思わず口に出していた。
「カラメルソースかける前の、プリン」
彼女は被っていた帽子を脱いで、まじまじと見ている。髪はシュシュでひとつ結びのままだった。
「なんか、薄いベージュ色だし」
僕は、自分が知っている中で、一番近い色に例えた。
「これはね、ベージュじゃなくて生成り」
わたらいさんが帽子を深く被り直す。
「きなり?」
「うん。白に近い布の色」
彼女は帽子のつばを、指で軽くつまんだ。
「形は……確かにプリンみたいだけど」
僕は、心の中でプリンの帽子と呼ぶことを決めた。
「バケットハットって言うんだよ。バケツをひっくり返したみたいな形だから」
「……本当だ」
わたらいさんは、プリンの帽子の本当の名前を教えてくれた。
猫探しと同じルートを、敢えて選んで歩き出す。隣同士並んで歩くけれど、今回は手を繋がなかった。
僕は手のひらの中に鍵を、彼女はトートバッグの持ち手を握り込んでいる。
日陰を探して歩いていても、熱はどんどん籠るように思えた。
「ねえ……」
僕は、手のひらの中で温もる鍵を確かめながら、ずっと彼女に聞こうと思っていた話題に、初めて触れることにした。
「わたらいさんはさ、やっぱり、将来はお医者さんになりたいの?」
なんで今こんなことを聞いたのか、自分でもよく分からなかった。
夏の暑さのせいで、頭がどうにかなったのかもしれない。
わたらいさんの顔を覗き込む。
怯えたような目が見つめ返してきた。
「……お医者さん? やだよ」
そして、彼女はすぐに目を伏せる。
「誰かを助けるなんて、そんな立派なこと……今の私にできるわけないじゃん」
わたらいさんは吐き捨てるようにそう言って、プリンの帽子のつばをさらに深く下げた。
「私ね、本当は、壊す方が得意なんだと思う。……パパやママの期待も、自分の将来も。ぺこの日常も、全部」
彼女の指先が、僕の手の甲に触れ、すぐに離れる。
「ぺこも、全部見てたでしょ?」
「見てたけど……それでも、壊す方が得意とは思わないよ」
僕の言葉を否定するように、わたらいさんは強く首を横に振った。
「お医者さんになって、誰かの病気を治すくらいなら。……私は、一生治らない病気みたいに、誰かに……」
その先は言わなかった。
彼女の顔を覗き込んでいた僕の方へ、彼女はゆっくりと顔を寄せる。
お互い、呼吸が荒い。
「……本当はさ、壊れてないって、確かめたかったんじゃないの?」
僕がそう囁いても、わたらいさんは止まらなかった。
「はじめから壊れてるって思ってたら、わたらいさんだって……わざわざそんなこと、しない気がする」
怖いと思った。
同時に、そんな彼女の病を一生、僕だけが抱え込んでいたいと願う自分もいた。
彼女の顔が、近すぎて、見えない。
「少なくとも……わたらいさんは、楽しくて壊してたんじゃないと、僕は思う」
脳裏に、僕を折檻するママの冷徹な表情や、兄ちゃんの最期の笑顔が浮かんでは消える。
「そういう人は、そんな顔しないよ」
街の日陰の中で、さらに薄い僕らの影が重なる。
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「それでも私は……“めぐちゃん”だから」
わたらいさんが、そっと身体を離した。
「“めぐちゃん”は、お医者さんにならなくちゃ。みんなの期待に応えなくちゃいけないの」
その言葉は、真夏の湿った風に乗って、僕の耳の奥に泥のように沈み込んだ。
僕らは再び歩き出す。
僕は、手のひらの中で鍵を握り直した。
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遠くに、いつかのコンビニの看板が見えていた。
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