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人をバカにする鍵
辿る阿弥陀と流るる涙
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わたらいさんが、自分の帽子に手をやった。
僕も、無意識に頭に触れて、同じことを確認する。ある。
彼女はトートバッグを胸に引き寄せ、ただその重さを確かめていた。開けもしないけど、それで十分だった。
もう、ここにとどまる理由はない。
どちらともなく、外に出るために自動ドアへと歩き出す。
床を汚したままの、あの男の吐瀉物の嫌な匂いさえも、まるで現実味がない。
さっきまで、あれほど耳を塞いでいたのが嘘みたいに、今は何も聞こえない。普段はうるさいくらいの頭の中が、静まり返っていた。
コンビニの自動ドアが閉まる音も、遠くを走る車の音も、妙に輪郭がはっきりしているのに、夢の中にいるみたいにふわふわしていた。
騒ぎが収まった途端に、さっき外に逃げていた客たちが、様子を見るみたいに戻っていく。
入れ違いに外へ出る僕たちだけが、異物みたいに、この世界に馴染めていない感じがした。
パトカーのサイレンが、近づいてくる。
閉まりかけた自動ドアの向こうで、コンビニの中がざわつき始めた。
誰も、僕たちを見ていない。 見ていないはずなのに、背中がひどく落ち着かなかった。
寒い。冷たい。
真夏の空気が、容赦なく肺に入ってくる。 こんなにも熱い空気を吸えているはずなのに、呼吸は浅く、体は凍えそうに冷えたままだ。
わたらいさんは、僕の数歩後ろにいる。 触れそうな距離なのに、触れていない。
手を伸ばせば届く。でも、伸ばせなかった。
繋ぐ理由が、見つからない。 繋いでいいとも、思えなかった。
歩いているのか、歩かされているのか、分からない。 足は勝手に前へ出るのに、身体は遅れてついてきている。心はもっと遠くにあるような気がした。
わたらいさんが、小さく息を吐いた。 それが溜め息なのか、ようやく吐けた息なのか、分からない。
歩調が、少しだけずれ始める。 数歩前に出ていた僕と、その後ろにいたわたらいさんとの間に、誤魔化しようもない距離感がある。
そのことを言及したり、立ち止まる勇気はなかった。
駐車場の端に、タクシーが一台停まっている。 エンジンは切られていて、運転席の横に、運転手が立っていた。
スマホを片手に、画面と店の方を交互に見ている。 通報するべきか、迷っている顔だった。
「……異臭か?」
運転手が、独り言みたいに呟く。
まだ外に出たままの客たちは、ひとりも応答しない。
運転手は、さらに少し声を張った。
「強盗か?」
その問いに、やはり誰も答えない。
運転手の視線が、ふらりとこちらに向いた。
一瞬、顔を顰めた。嫌な顔をしてるわけじゃない。遠くのものを見るために、ピントを合わせるための仕草。
それから、目が、少しだけ見開かれた。
「あれ……」
思い出すみたいに、僕とわたらいさんを見比べる。
「あの時の……?」
名前は呼ばれなかった。教えなかったし、僕たちも運転手の名前を聞かなかった。
それなのに、分かった。
間違いなく、知ってる顔だ。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、一気に崩れた。
以前、僕とわたらいさんを病院まで送ってくれたあの運転手だった。
その、あまりにも平坦で、平和な声。
僕がさっきまで殺意を込めて叫んでいたことなんて微塵も知らない、日常を生きる大人の声。
それを聞いた瞬間、僕の肩からガクンと力が抜けた。
熱かったはずの視界が、急激に潤んで歪んでいく。
「……っ」
声にならない嗚咽が漏れた。
自分が誰かを殺そうとした恐怖。
あんな不快な音を、誰彼構わず響かせてしまった自分への忌まわしさ。
それらすべてが、知っている顔を見た瞬間に、涙となってとめどなく溢れ出した。
息を吸おうとして、喉が詰まる。 視界が滲んで、前が見えなくなる。
声が出る前に、涙が落ちた。
理由は分からない。 でも、もう止まらなかった。
運転手が、慌ててスマホを下ろす。
「お、おい……大丈夫か?」
近づいてくる気配がして、僕は反射的に一歩下がった。 ぶつかりそうになって、わたらいさんの肩が、かすかに揺れる。
それでも、手は触れなかった。
「おい、どうした。何があったんだ」
運転手が慌てて駆け寄ってくる。
そして彼は、片方の手で僕の肩に触れた。
もう一方の手でわたらいさんの肩を支えようと、そっと手を伸ばす。
その指先が、彼女の首に近づいた瞬間――。
「……っ、あ!」
わたらいさんの身体が、弾かれたように大きく跳ねた。
怯えた小動物のような、鋭く明確な拒絶。
彼女自身も、自分のその過剰な反応に驚いたように目を見開いた。
身体が、覚えているんだ。
味方の手さえも暴力と受け取ってしまうほど、彼女の心はズタズタにされていた。
わたらいさんは俯き、唇を震わせたまま、大粒の涙をこぼしていた。
いつものように、反射的な謝罪の言葉を紡ぐ余裕もないようだ。
運転手は伸ばしかけた手をピタリと止め、その場の空気と彼女の震えを、一瞬で悟ったようだった。
「……怖かったよな。悪かった」
彼はそれ以上触れようとはせず、すぐに身を引いて、運転席に乗り込んだ。後部座席のドアを大きく開いてくれる。
「一人で乗れるか?ゆっくりでいい」
指で、自分のタクシーの後部座席を示す。
追及もしない。慰めの言葉も重ねない。
ただ、守られるべき個室を用意して、彼は自ら運転席へと戻った。
「冷房、入ってる。何も話さなくていい」
僕は、何も答えられなかった。 涙を拭こうとしているのに、うまくいかない。
僕は泣きじゃくりながら、彼女の顔を振り返る。
わたらいさんも、ほんの一瞬だけ僕を見た。 それから、小さく、頷く。
それで十分だった。
タクシーの薄暗い車内へと滑り込んだ。
重厚なドアが閉まると、外の喧騒が遠のく。
それだけで、張り詰めていたものが、少しだけ、ほどけた気がした。
隣同士で座るのに、まだ、手は繋がれないままだった。
僕も、無意識に頭に触れて、同じことを確認する。ある。
彼女はトートバッグを胸に引き寄せ、ただその重さを確かめていた。開けもしないけど、それで十分だった。
もう、ここにとどまる理由はない。
どちらともなく、外に出るために自動ドアへと歩き出す。
床を汚したままの、あの男の吐瀉物の嫌な匂いさえも、まるで現実味がない。
さっきまで、あれほど耳を塞いでいたのが嘘みたいに、今は何も聞こえない。普段はうるさいくらいの頭の中が、静まり返っていた。
コンビニの自動ドアが閉まる音も、遠くを走る車の音も、妙に輪郭がはっきりしているのに、夢の中にいるみたいにふわふわしていた。
騒ぎが収まった途端に、さっき外に逃げていた客たちが、様子を見るみたいに戻っていく。
入れ違いに外へ出る僕たちだけが、異物みたいに、この世界に馴染めていない感じがした。
パトカーのサイレンが、近づいてくる。
閉まりかけた自動ドアの向こうで、コンビニの中がざわつき始めた。
誰も、僕たちを見ていない。 見ていないはずなのに、背中がひどく落ち着かなかった。
寒い。冷たい。
真夏の空気が、容赦なく肺に入ってくる。 こんなにも熱い空気を吸えているはずなのに、呼吸は浅く、体は凍えそうに冷えたままだ。
わたらいさんは、僕の数歩後ろにいる。 触れそうな距離なのに、触れていない。
手を伸ばせば届く。でも、伸ばせなかった。
繋ぐ理由が、見つからない。 繋いでいいとも、思えなかった。
歩いているのか、歩かされているのか、分からない。 足は勝手に前へ出るのに、身体は遅れてついてきている。心はもっと遠くにあるような気がした。
わたらいさんが、小さく息を吐いた。 それが溜め息なのか、ようやく吐けた息なのか、分からない。
歩調が、少しだけずれ始める。 数歩前に出ていた僕と、その後ろにいたわたらいさんとの間に、誤魔化しようもない距離感がある。
そのことを言及したり、立ち止まる勇気はなかった。
駐車場の端に、タクシーが一台停まっている。 エンジンは切られていて、運転席の横に、運転手が立っていた。
スマホを片手に、画面と店の方を交互に見ている。 通報するべきか、迷っている顔だった。
「……異臭か?」
運転手が、独り言みたいに呟く。
まだ外に出たままの客たちは、ひとりも応答しない。
運転手は、さらに少し声を張った。
「強盗か?」
その問いに、やはり誰も答えない。
運転手の視線が、ふらりとこちらに向いた。
一瞬、顔を顰めた。嫌な顔をしてるわけじゃない。遠くのものを見るために、ピントを合わせるための仕草。
それから、目が、少しだけ見開かれた。
「あれ……」
思い出すみたいに、僕とわたらいさんを見比べる。
「あの時の……?」
名前は呼ばれなかった。教えなかったし、僕たちも運転手の名前を聞かなかった。
それなのに、分かった。
間違いなく、知ってる顔だ。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、一気に崩れた。
以前、僕とわたらいさんを病院まで送ってくれたあの運転手だった。
その、あまりにも平坦で、平和な声。
僕がさっきまで殺意を込めて叫んでいたことなんて微塵も知らない、日常を生きる大人の声。
それを聞いた瞬間、僕の肩からガクンと力が抜けた。
熱かったはずの視界が、急激に潤んで歪んでいく。
「……っ」
声にならない嗚咽が漏れた。
自分が誰かを殺そうとした恐怖。
あんな不快な音を、誰彼構わず響かせてしまった自分への忌まわしさ。
それらすべてが、知っている顔を見た瞬間に、涙となってとめどなく溢れ出した。
息を吸おうとして、喉が詰まる。 視界が滲んで、前が見えなくなる。
声が出る前に、涙が落ちた。
理由は分からない。 でも、もう止まらなかった。
運転手が、慌ててスマホを下ろす。
「お、おい……大丈夫か?」
近づいてくる気配がして、僕は反射的に一歩下がった。 ぶつかりそうになって、わたらいさんの肩が、かすかに揺れる。
それでも、手は触れなかった。
「おい、どうした。何があったんだ」
運転手が慌てて駆け寄ってくる。
そして彼は、片方の手で僕の肩に触れた。
もう一方の手でわたらいさんの肩を支えようと、そっと手を伸ばす。
その指先が、彼女の首に近づいた瞬間――。
「……っ、あ!」
わたらいさんの身体が、弾かれたように大きく跳ねた。
怯えた小動物のような、鋭く明確な拒絶。
彼女自身も、自分のその過剰な反応に驚いたように目を見開いた。
身体が、覚えているんだ。
味方の手さえも暴力と受け取ってしまうほど、彼女の心はズタズタにされていた。
わたらいさんは俯き、唇を震わせたまま、大粒の涙をこぼしていた。
いつものように、反射的な謝罪の言葉を紡ぐ余裕もないようだ。
運転手は伸ばしかけた手をピタリと止め、その場の空気と彼女の震えを、一瞬で悟ったようだった。
「……怖かったよな。悪かった」
彼はそれ以上触れようとはせず、すぐに身を引いて、運転席に乗り込んだ。後部座席のドアを大きく開いてくれる。
「一人で乗れるか?ゆっくりでいい」
指で、自分のタクシーの後部座席を示す。
追及もしない。慰めの言葉も重ねない。
ただ、守られるべき個室を用意して、彼は自ら運転席へと戻った。
「冷房、入ってる。何も話さなくていい」
僕は、何も答えられなかった。 涙を拭こうとしているのに、うまくいかない。
僕は泣きじゃくりながら、彼女の顔を振り返る。
わたらいさんも、ほんの一瞬だけ僕を見た。 それから、小さく、頷く。
それで十分だった。
タクシーの薄暗い車内へと滑り込んだ。
重厚なドアが閉まると、外の喧騒が遠のく。
それだけで、張り詰めていたものが、少しだけ、ほどけた気がした。
隣同士で座るのに、まだ、手は繋がれないままだった。
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