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町の傷跡
前夜
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「魚釣りぃい?」
夕飯の食卓で、ママが素っ頓狂な声を上げた。
無理もない。
今日僕が見てきたこと、聞いたこと。そのあまりに重い話をすべて打ち明けた後で、ママから返ってきたのが、この裏返った声だった。
僕は、少しだけ笑いそうになる。
わたらいさんの飼い猫は川へ消えた。
お父さんとお母さんも、三途の川の向こうへ行ってしまった。
町を離れて、もう会えなくなる。
その最後の思い出が――ずっと約束していたとはいえ、よりによって魚釣りだなんて。
自分でも脈絡がないと思う。
それでも、そんなちぐはぐな計画を立てる僕たちを、ママは普通の親子みたいな顔で驚いてくれている。
「ちゃんと、釣り堀へ行くよ。川じゃないから危なくないでしょ」
僕は、熱々のカレーライスをスプーンで一口すくって頬張った。
一人で抱えていた時は、あんなに冷たくて重かった秘密が、今はカレーの熱さと一緒に、胃のあたりをじんわりと温めている。
ママは複雑そうな顔で、カレー皿のらっきょうをスプーンでころころ転がしていた。
彼女の境遇を思ってか、それとも僕の突飛な約束に呆れているのか。
それでも、食卓を支配していたあの張り詰めた空気は、今はもう、嘘のように薄まっていた。
咀嚼したカレーを飲み込む。
「……それでね、ママ」
らっきょうを転がす、ママの手元を見つめる。一気に、言葉を継いだ。
「わたらいさんのご両親、病院で亡くなったって言ったよね?……直葬なんだって。お別れも、できないまま」
濃厚な死の気配と、その冷たい響きが、平和な食卓の空気を切り裂く。
ママのスプーンが、ぴたりと止まった。
かつて、兄ちゃんの骨を床に這いつくばって集めていたあの時の、剥き出しの死の気配。
ママの脳裏にも、あの日の感情が蘇ったのかもしれない。
「わたらいさん、おじいちゃんたちの家に行くことになったから、苗字も変わって……」
もう、わたらいさんじゃなくなっちゃうんだよ。
僕が言い終える前に、食卓に載せていたママのスマートフォンが小刻みに震えた。
ママは弾かれたようにそれを掴み上げ、通話ボタンを押す。
「はい、あやせでございます……。先日は……いえ、こちらこそ。ええ……はい……」
電話の向こうからは、掠れた、しかし丁寧な老人の声が微かに漏れていた。わたらいさんのおじいさんだろう。
孫のために、どうか最後の日をあの子の望むようにさせてやってほしい。家族とあんな別れ方をした子だから、せめて友達との時間だけは奪いたくない――。
そんな切実な訴えは、いつしか涙声に変わっていた。
受話器を握るママの指が、白く強張っていく。
「……分かっております。……はい。こちらこそ、……颯がお世話になりまして。では、また」
電話を切った後、ママはしばらくスマホに手を置いたまま、僕から顔を背けていた。
いつもの世間体を気にするママなら、きっとこう言い出すはずだ。
「余計なトラブルに巻き込まれたくない」とか、「そんな重い事情がある子と関わるのはやめなさい」とか。
けれど、僕の方を向いたママの瞳は、これまでに見たことがないほど静かだった。
「恵ちゃん……苗字まで、なくなっちゃうのね」
ママはポツリと、独り言のように呟いた。
「……アンタが呼んでた名前なのに」
その声は、どこか遠くを彷徨っているようだった。
名前を失う。
それは、かつて僕を兄ちゃんの名前で呼ぼうとしていたママが、最も避けては通れない傷口だった。
「わたらいさん」でなくなる彼女の姿に、ママは自分の過ちを重ねて、ひどく怯えているようにも見えた。
「……お祖父さま、泣いてらしたわ」
絞り出すような声と共に、ママはスマホをテーブルに置くと、深く、重い溜め息をついた。
いつもの面倒を避けるための溜め息じゃなさそうだった。それは、まるで自分の胸の中に澱んでいた、形のない後悔を吐き出すような――。
「本当は、反対したいわよ。こんな大変な時に遊び歩くなんて、世間様が……」
言いかけて、ママは言葉を飲み込んだ。
チラリと――もうそこにネックレスはない。それでも、僕の首元に視線を走らせる。
「……でも、そんなこと言ってる場合じゃないわね。世間様が、恵ちゃんの家族を生き返らせてくれるわけじゃないもの」
ママは、らっきょうをスプーンで口に運んで、咀嚼し始めた。
「お葬式にも出られないなんて……そんなの、子供が背負っていいことじゃない。……アンタも、そうでしょ?」
ママの瞳が、僕の心の奥を覗き込むように揺れた。
兄ちゃんの死から、一度も逃げられなかった僕とママ。皮肉にも僕たちは、わたらいさんの地獄を知っている唯一の理解者になってしまったのだ。
「明日、ご祖父母さまが車で送迎してくださるそうよ。お言葉に甘えましょう」
僕が頷くと、ママがぎこちなく口角を上げた。
「……魚釣り、頑張ってきなさい。恵ちゃんを……ちゃんと、見送ってあげて」
それは、兄ちゃんの代わりではない、僕自身の役割だった。
「……うん、ありがとう。ママ」
僕らは冷めかけたカレーを一口、ゆっくりと口に運んだ。
夕飯の食卓で、ママが素っ頓狂な声を上げた。
無理もない。
今日僕が見てきたこと、聞いたこと。そのあまりに重い話をすべて打ち明けた後で、ママから返ってきたのが、この裏返った声だった。
僕は、少しだけ笑いそうになる。
わたらいさんの飼い猫は川へ消えた。
お父さんとお母さんも、三途の川の向こうへ行ってしまった。
町を離れて、もう会えなくなる。
その最後の思い出が――ずっと約束していたとはいえ、よりによって魚釣りだなんて。
自分でも脈絡がないと思う。
それでも、そんなちぐはぐな計画を立てる僕たちを、ママは普通の親子みたいな顔で驚いてくれている。
「ちゃんと、釣り堀へ行くよ。川じゃないから危なくないでしょ」
僕は、熱々のカレーライスをスプーンで一口すくって頬張った。
一人で抱えていた時は、あんなに冷たくて重かった秘密が、今はカレーの熱さと一緒に、胃のあたりをじんわりと温めている。
ママは複雑そうな顔で、カレー皿のらっきょうをスプーンでころころ転がしていた。
彼女の境遇を思ってか、それとも僕の突飛な約束に呆れているのか。
それでも、食卓を支配していたあの張り詰めた空気は、今はもう、嘘のように薄まっていた。
咀嚼したカレーを飲み込む。
「……それでね、ママ」
らっきょうを転がす、ママの手元を見つめる。一気に、言葉を継いだ。
「わたらいさんのご両親、病院で亡くなったって言ったよね?……直葬なんだって。お別れも、できないまま」
濃厚な死の気配と、その冷たい響きが、平和な食卓の空気を切り裂く。
ママのスプーンが、ぴたりと止まった。
かつて、兄ちゃんの骨を床に這いつくばって集めていたあの時の、剥き出しの死の気配。
ママの脳裏にも、あの日の感情が蘇ったのかもしれない。
「わたらいさん、おじいちゃんたちの家に行くことになったから、苗字も変わって……」
もう、わたらいさんじゃなくなっちゃうんだよ。
僕が言い終える前に、食卓に載せていたママのスマートフォンが小刻みに震えた。
ママは弾かれたようにそれを掴み上げ、通話ボタンを押す。
「はい、あやせでございます……。先日は……いえ、こちらこそ。ええ……はい……」
電話の向こうからは、掠れた、しかし丁寧な老人の声が微かに漏れていた。わたらいさんのおじいさんだろう。
孫のために、どうか最後の日をあの子の望むようにさせてやってほしい。家族とあんな別れ方をした子だから、せめて友達との時間だけは奪いたくない――。
そんな切実な訴えは、いつしか涙声に変わっていた。
受話器を握るママの指が、白く強張っていく。
「……分かっております。……はい。こちらこそ、……颯がお世話になりまして。では、また」
電話を切った後、ママはしばらくスマホに手を置いたまま、僕から顔を背けていた。
いつもの世間体を気にするママなら、きっとこう言い出すはずだ。
「余計なトラブルに巻き込まれたくない」とか、「そんな重い事情がある子と関わるのはやめなさい」とか。
けれど、僕の方を向いたママの瞳は、これまでに見たことがないほど静かだった。
「恵ちゃん……苗字まで、なくなっちゃうのね」
ママはポツリと、独り言のように呟いた。
「……アンタが呼んでた名前なのに」
その声は、どこか遠くを彷徨っているようだった。
名前を失う。
それは、かつて僕を兄ちゃんの名前で呼ぼうとしていたママが、最も避けては通れない傷口だった。
「わたらいさん」でなくなる彼女の姿に、ママは自分の過ちを重ねて、ひどく怯えているようにも見えた。
「……お祖父さま、泣いてらしたわ」
絞り出すような声と共に、ママはスマホをテーブルに置くと、深く、重い溜め息をついた。
いつもの面倒を避けるための溜め息じゃなさそうだった。それは、まるで自分の胸の中に澱んでいた、形のない後悔を吐き出すような――。
「本当は、反対したいわよ。こんな大変な時に遊び歩くなんて、世間様が……」
言いかけて、ママは言葉を飲み込んだ。
チラリと――もうそこにネックレスはない。それでも、僕の首元に視線を走らせる。
「……でも、そんなこと言ってる場合じゃないわね。世間様が、恵ちゃんの家族を生き返らせてくれるわけじゃないもの」
ママは、らっきょうをスプーンで口に運んで、咀嚼し始めた。
「お葬式にも出られないなんて……そんなの、子供が背負っていいことじゃない。……アンタも、そうでしょ?」
ママの瞳が、僕の心の奥を覗き込むように揺れた。
兄ちゃんの死から、一度も逃げられなかった僕とママ。皮肉にも僕たちは、わたらいさんの地獄を知っている唯一の理解者になってしまったのだ。
「明日、ご祖父母さまが車で送迎してくださるそうよ。お言葉に甘えましょう」
僕が頷くと、ママがぎこちなく口角を上げた。
「……魚釣り、頑張ってきなさい。恵ちゃんを……ちゃんと、見送ってあげて」
それは、兄ちゃんの代わりではない、僕自身の役割だった。
「……うん、ありがとう。ママ」
僕らは冷めかけたカレーを一口、ゆっくりと口に運んだ。
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