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1巻

8. ふと、わからなくなった

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 海賊討伐から帰還したイレーネは、怪我の検査のため二日ほど入院することになった。
 ひどかった肩と太腿の打撲は十日ほどで完治するだろう、というのが医者の見立てだ。全身くまなく診察してもらった結果、骨は折れておらず、大丈夫だとお墨付きをもらった。
 気づかなかったのが膝の裂傷で、知らない間に海賊が振り回した刃物にやられたのだろうか、医者いわくここが一番の重傷らしい。数針縫い、消毒の膏薬こうやくを塗り、包帯を巻かれ、化膿どめの薬草を処方された。
 痛みどめの薬も飲むよう勧められたが、痛みには慣れているからと断った。肩も腕も脚もあざだらけだったが、いつでも全身傷だらけの人生だし、あまり薬には頼りたくない。
「あら、思ったより元気そうじゃない。心配して損しちゃった」
 デボラは明るく言うと、つかつかとやってきて椅子に腰掛けた。馬のしっぽみたく髪を一本に縛り、まくり上げたズボンの裾からふくらはぎが覗き、男みたいな出で立ちだ。
 イレーネはベッドから上半身を起こし、微笑んでみせた。
「見ての通り、元気だよ。打撲と擦り傷ぐらいで大したことない」
「賊にやられたって聞いて、びっくりしちゃった。ま、あなたなら殺しても死ななそうだけど!」
 デボラはカラカラと笑う。
 イレーネが入院しているのは、ハインシュヴァイクの町はずれにある、聖グラール病院だ。
 ハインシュヴァイクはハインスラント辺境伯領最大の都市である。肥沃ひよくな土地に恵まれ、農業が盛んで、商工業も発展している。大きな街道があるため交通の要衝ようしょうでもある。
 病室の窓からはハインスラント辺境伯の居城である、ハイネシュタイン城の尖塔が見えた。
「デボラ、今日は仕事は? 大丈夫なの?」
 イレーネが聞くと、デボラは「全然大丈夫じゃない」と首を横に振った。
「工房は大忙しだけど、あなたが怪我したって聞いてさ。わざわざ抜け出してきたのよ」
「そうなんだ、ありがとう。なんか悪いな」
「いいのいいの。どうせ仕事なんて永遠に終わらないんだから」
 デボラはハインシュヴァイク一の規模を誇る皮革工房の女将さんなのだ。
「けど、大手柄だったわねぇ! 海賊をやっつけたんでしょ? いや~胸がスカッとしたわー! これでしばらくは安心して暮らせるって、集落の人たちは大喜びらしいわよ」
「あぁ、私の手柄ではないんだが。喜んでいるなら、よかった」
「いーのいーの、誰の手柄かなんて関係ないから。平和な暮らしがあれば万事めでたしめでたしよ。で、海賊騒ぎも一段落したし、傷病休暇ってわけ? あなた、ずっと仕事漬けだったからちょうどいいじゃない」
 ニコニコするデボラに、「いやー」と困り顔をしてみせる。
「急に休めと言われても……。どう過ごしていいかわからないよ」
 ランドルフから直々に、「大事を取って、しばらく静養せよ」と命じられた。
 ミンレヒトの治安はひとまず落ち着いたし、隊長に就任して以来ほとんど休んでいないイレーネに対する気遣いだろう。
 逆らう必要もないため、ありがたく休暇を取ることにした。少し身辺整理の時間も欲しい。
 ミンレヒトの住民たちがハインスラント隊を「平和をもたらした英雄」として絶賛し、大いに感謝していることから、隊の騎士たちにも褒美と休暇が与えられた。
 騎士団といえども住民たちの声は無視できないのだ。
 なにはともあれ、集落を荒らしていた海賊は死んだ。いつかまた新たな海賊が海を越えてやってくるだろうが、しばらくは平穏無事に暮らしていける。
「そんなことより、イレーネ……」
 デボラはにじり寄ってきて、小声でささやく。
「賊に襲われたんでしょ? あなた、大丈夫なの? ひどいこと、されなかった?」
 つまり強姦されなかったか? という質問らしい。
「もちろん、無理して言わなくていいよ。あたしはほら寡婦だし、もう二人も子供産んでるしさ、それなりの経験と備えがあるから。もし悩んでいるようだったら、頼って欲しいのよ」
 デボラは皮革職人の親方だった夫と五年前に死別し、それ以来工房を継ぎ、大勢の職人と徒弟とていを従え、子供を育てながら女将として立派にやっている。社交術や商才にも長け、工房は今やハインスラント1、2を争う生産量を誇る。騎士団の防具や馬具の多くはデボラの工房で作られていた。
 デボラはやり手経営者ではあるけど、情け深い性格なのは間違いない。今日だって誰よりも早く見舞いに駆けつけてくれた。
 デボラは平民、イレーネは男爵家と身分の差はあるけれど、付き合いは長い。デボラは身分問わず顔が利き、町の治安に関しては騎士団にとっても重要なご意見番であるため、誰からも一目置かれていた。デボラは四歳年上だが、お互い女だてらに仕事に生きている共通点もあり、気の置けない関係なのだ。
「心配ありがとう。けど、そういうのはないんだ。ありがたいことに、怪我だけで……」
 デボラは疑わしそうに「本当に?」と目を細める。
「うん、本当だよ。一応そうなりそうな展開になったんだが、ギリギリのところでラファエルに助けられた」
「きゃー、ラファエル様! 素敵! さすが副隊長様ね! 麗しいお顔立ちだけでなく、抜群に頼りになるわ~」
 デボラは乙女のように両手を組み、うっとりと頬を染めている。ラファエルは身分を問わず、市井の女性たちに人気だ。
「実は海賊の件にも関連して、デボラに改めて相談があるんだが……」
 居住まいを正すと、デボラは警戒するように「なに?」と片眉を上げた。
「前からずっと相談しようと思ってたんだが、なかなか機会がなくて。さすがに弟には言えないし、赤の他人なんて論外だし、やはりデボラに相談するのが一番かなって」
「なによ、奥歯にモノが挟まったような言いかたね。はっきり言いなさいな」
 いざ言う段になると、猛烈な恥ずかしさが込み上げる。
「その……私の今後の身の振りかたについては、これまでも何度か相談したと思うんだけど」
 デボラはじっとこちらを見つめ、片眉を上げたまま答えた。
「……相談と言うより、あなたの決意表明かしら。隊長を辞し、遊歴の騎士になって単身旅に出るって話でしょ?」
 うなずくと、デボラは中空をにらんだ。
「諸国をめぐり、悪を打ち破り、騎士として正義を示す……そういうの、美徳って言うの? あたしにはさっぱりわからないけど。ま、とめはしないわ。ガラじゃないしね」
「実はちょっと違う。名目上は正義のため、ということにするんだが……ちょっと生きかたを見直したいと思っていて」
 こんなことを言うのは情けないけど、頑張って言葉を続けた。
「恥ずかしい話なんだが、この歳になって初めて迷いが生じた。今まではハインスラントのため、王国のため、陛下のためって、喜んで身を犠牲にしてきた。平穏な生活を捨て、女として生きる道をあきらめ、騎士として率先して過酷な戦場に身を投じてきたつもりだ。それが正しいんだって、固く信じていたから……」
 ひと呼吸置き、考えをまとめる。胸の内を正直に打ち明けたい。
「だが……ふと、わからなくなった。本当にそうするのが正しいんだろうかって」
 デボラは引き込まれるように身を乗り出し、熱心に聞き入っている。
「つまり、王国のためにと自分を殺し、欲しいものも望みも全部あきらめ、我慢に我慢を重ね、私はやがて戦場で独り死ぬわけだが……それが本当に誰かのためになるんだろうか? だとしたら、それはどうやって証明されるんだろう? ……と、疑問に思ってしまって」
 王国の誰かのために犠牲になり、その誰かは幸せになり……ならば、私はどうなるんだろう?
 私の幸せはどこにある?
 ……幸せって、なに?
「急に自分の人生や幸せについて、真剣に考えてしまって……。けど、こういうのは騎士としてあるまじき迷いだって自分でもわかってる。だから、隊にはもういられない」
 そこまで話すと突然、ガシッと手を強く握られ、飛び上がるほどびっくりした。
 デボラは鼻息荒く言う。
「よかった! ほんっとうによかったわ! あなたがそのことに気づいてくれて! 私はもう、何年も何年もずぅーっと心配し続けてきたの。一切自分をかえりみず、国のために陛下のためにって、まるで自殺するみたく最前線に行って、ボロッボロになって帰ってくるあなたを見るたび、どんだけ心配したか……」
「そうだな、たしかに……。デボラは随分前から口酸っぱく繰り返してたな。自分の幸せについて考えろ、って」
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