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1巻

27. 雷に撃たれたように理解した

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 ラファエルに比べると、運命はイレーネに対してより残酷だった。
 なぜなら、ジークハルトはアリーセと出会い、愛し合うようになったから。
 イレーネとラファエルの共通点は叶わぬ片思いをしていることだが、ジークハルトはアリーセと結ばれ、イレーネだけ冷徹な現実に直面しなければならなかった。
 ラファエルにとっては幸いだった、と言わざるを得ない。もし同じことが自分の身に起きていたら……イレーネとジークハルトが愛し合い、結ばれるような事態になれば……あまりにも恐ろしくて想像もつかない。きっと嫉妬に狂い、激しく怒り、すべてを憎悪し、心が壊れてしまい、もう一刻も生きてはいられなかっただろう。
 あるいは刺し違えていたかもしれない。ジークハルトと。
 イレーネには大変申し訳ないが、そんな惨劇にならなくてよかったとつくづく思う。
 たった独りで彼女が恋に破れた哀しみを引き受けてくれた。
 もしかしたら神は耐えられる者だけを選び、試練を与えるのかもしれない。
 王太子と王太子妃は傍目から見てもお似合いのカップルだった。これまで傲慢ごうまんな独裁者だった王太子も、王太子妃と結ばれてから目に見えて態度が軟化し、ごく自然に臣下や国民に感謝するようになり、だからこそ万人に祝福され、王国に幸せがもたらされた。
 平和で豊かな王国の中心には、手を取り合う王太子夫妻がいる。
 誰にも侵すことのできない、完結した二人だけの眩い世界。
 イレーネは思い知っただろう。自分はただの脇役であり、彼らにとっては邪魔者でしかないと。突然、暗い荒野にポーンと独りで放り出されたみたく、自分だけが蚊帳の外なのだ。
 寂しい……。この先、私だけ独りで生きていかなきゃいけないのか? 二人はあんなに幸せそうなのに……
 イレーネの心の声が聞こえてくるようだ。それは自分にとっても非常に馴染み深い感情だ。
 寂しそうに佇むイレーネと、在りし日の自分自身が重なる。
 自分がふさわしくないことなんて最初からわかっていた。だが、制御なんてできなかったのだ。
 なに一つ望んでいないのに、まるで崖から突き落とされたように抗いがたく恋に落とされ、しかもそれを一方的に奪われる、ひどい理不尽さ。
 あきらめられれば楽なのに、それもできない。
 現実を叩きつけられ、自分が何者か思い知る。愛する人に顧みられなかった、魅力のないダメな男。
 恨むべきは神か仏か運命か。怒りの矛先は迷いなくジークハルトに向かっていく。
 ただの逆恨みだとわかっているが、抑えきれない。妬ましすぎてどうにかなりそうだった。
 なぜこんなに不公平なんだ? 同じ人間なのに。同じ血筋なのに。なにが違う?
 許せない。王太子だけ日の当たるところでイレーネから恋い慕われ、俺は日陰で苦しみ続けなければならないなんて……
 どす黒い感情が肚の底で煮え滾り、とぐろを巻く。尽きぬ憎悪と激しい怒りに支配され、どんどん自分が自分でなくなっていく……
 これまでの自分は騎士道を遵守じゅんしゅし、誠実でありたいと願い、他人には優しく接し、そこそこ善良な人間なつもりだった。
 そんな、これまでの自分像が壊れていく。泥人形がボロボロと崩壊していくように。
 やがて優しさも温かさもユーモアも忘れ、まったく別の生き物に変わり果ててしまう。
 ただただ王太子が憎い。俺が手に入れられなかったものを、あっさり手にした男が憎くて憎くてしょうがない。いっそ殺してやりたい。罪人になっても後悔はない……

「邪悪なモンスターとでも呼べそうなモノに、変貌したんだな」

 突然イレーネに図星を指され、びっくりして振り向いた。彼女は真後ろに立ち、同じように壁に掛けられた絵画を見上げている。
 この日、ハインスラント隊の騎士たちはハイネシュタイン城に集結していた。ランドルフに頼まれ、城の美術品の整理に駆り出されたのだ。
 今、ラファエルはイレーネと城の宝物庫にいる。そこにはロンと呼ばれる怪物の絵画がある。有名な宮廷画家によって描かれたもので、神秘的で怪異な画風が特徴である。
 ロンはチャリス教の神話に登場する。兄に恋人を奪われ、兄を憎むあまり炎を吹く怪物となった、憐れな弟のなれの果てである。ロンは恋人もろとも兄を焼き殺し、自身も焼死した。
 ラファエルは作業の手をとめ、物思いに耽りながらロンを眺めていたところだ。
 イレーネはこともなげに言う。
「ロンは架空の生き物ではない。きっと心のあり様を表現してるんだ。誰かが羨ましくて妬ましくて仕方なくなるとさ、心がこんな風になると思わないか? ラファエル」
 この瞬間、雷に撃たれたように理解した。
 幼い頃から読み続けてきた神話に登場する、怪物の正体を。ロンの正体を。
 ……そうか。これは俺自身の姿なのか……
 心がシン、と静まり返った。
 こいつはおとぎ話でもなんでもない。他ならぬ、今の俺の心の状態を表しているのか……
 さながら水が干潟に沁み込むように、しみじみと腹の底から納得した。怪物なんて本の中で何度も目にしていたのに、どこか自分とは関係ない存在だと思い込んでいた。
 まさか、俺の心のあり様だったなんて。
 急に悪魔や怪物に対し、憐れみが湧いてきた。望んだわけでもないのに、異形になれ果てた生き物に自分自身を重ねてしまう。
 ……気の毒に。なりたくてなったわけじゃないのに。きっと本来なら、優しくて善良な人間だったんだろうな……
「おーい、ラファ。これはどこに置けばいい?」
 大きな壺を抱えたアーベルがやってきた。
「あぁ、これは地下の倉庫に運んでくれ」
「了解」
 アーベルはハインスラント隊の衛生兵で、ラファエルより一年先輩だ。薬草学、医学の知識が豊富で戦場では頼れる男なのだが、女好きなのが玉に瑕だ。
 アーベルは壁の絵画を見上げると、忌々しそうに吐き捨てる。
「まったく、汚らわしい化け物だ。おぞましい画だな」
 無性にムカッときてしまった。
 汚らわしい? おぞましいだと? よくそんなことが言えるな。憐れな怪物たちに対し、慈悲はないのか?
 文句を言うより先に、イレーネが小首を傾げ、無邪気に言った。
「おぞましいか? 可哀そうに見えるけどな。望んで怪物になったわけじゃなかろうに」
 その言葉に、はっと胸を衝かれた。
 怪物に対するイレーネが優しくて、ぐっと涙が込み上げる。
 ……ちゃんと知ってるんだ。怪物の正体を知っていて、同情してくれている……
 そのことがうれしくて、まるで自分まで救われた気持ちになった。
 そんな彼女が好きすぎて、どうしようもなく切なくなる。
「どうした? ラファ。目にゴミでも入ったか?」
 アーベルに覗き込まれ、慌てて目を拭った。
「なんでもない。ほこりでも入ったんだろう。ほら、さっさと運べ」
 この年、アリーセ王妃が第一王子ハインリヒを無事出産した。今から四年前の話だ。
 この日以来、怪物や悪魔が描かれた芸術品に興味を持つようになった。
 絵画があると聞けば足を運び、悪魔像があれば見にいき、古文書を貪るように読み、怪物を描く画家を惜しみなく支援した。
 悪魔や怪物に魅せられた……のとは、少し違う。己の中に巣食う、この狂気じみた嫉妬をどうにか克服したかった。
 自分自身を救う方法を模索していた。
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