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正直な気持ち

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彼の姿を目にした瞬間、口から安堵の息が零れ落ち、私はその場にへたり込みそうになりました。
強張っていた体から力が抜け、早鐘を打ちっぱなしだった心臓が少し落ち着きを取り戻していきます。
カーテンもガラス扉もきっちりと閉められていましたが、よく見ると扉の鍵がかっていませんでした。
呼吸を落ち着けて扉を開け、ゆっくりと彼に歩み寄ります。
人の気配に気が付いたのか、私が声をかける前に彼は振り返り、私の姿を見止めて目を丸くしました。

「リタ…?」
「……」
「どうしてこんなところに…眠れなかったのか?」

彼はすぐさま私の傍までやってくると、私の顔を心配そうに覗き込みます。
小一時間前と変わらない優しい彼の声にほっとしたら、今まで堪えていた涙が零れ落ちてしまいました。
慌てて顔を背けましたが、目の前にいた彼にはばっちり見られてしまいました。

「リタ?!どうしたんだ…?怖い夢でも見た…?」
「…お嬢様はルーイン様をお探しになっていたんです。どうしても今すぐにお話されたいことがあったみたいで…」

私が答えられない代わりにプリネが状況を説明すると、彼は納得顔をして私に微笑みかけます。

「ああ…それでか。急に家の周りが騒がしくなったから何かあったのかと思っていたところだよ。探させてすまなかったね…」
「ずっとこちらにいらっしゃったのですか?少し前にお嬢様が来られた時にはいらっしゃらなかったようですが…」
「そうだったのか?全然気が付かなかったな…」

ルーンがいたのはベランダに突き出した外壁の影にある狭い空間でした。
大人一人が入れるくらいの広さしかなく、すぐ傍まで近付かなければ人がいるかどうかわからないそうです。
使用人にも秘密にしていたらしく、時折ここへ来ては考え事をしていたと彼は話します。

「それでは私はルーイン様が見つかったことを報告して参ります」
「ああ、よろしく頼むよ」

プリネが一礼をして去って、私はルーンとまたふたりきりになりました。
少しずつ気持ちは落ち着いてきましたが、私の心の中ではまたしても不安の雲が広がりつつありました。

「リタ。とにかく一度寝室へ戻ろう。ここは少し寒いから…」

ルーンが私に移動するように促しますが、先程から彼は私に触れようとはしません。
半時前までは抱きしめようとしたり頬に触れたりしてくださっていたのに、なぜ今はそうしてくださらないのでしょうか。
過去を振り返るうちに私の身勝手さに嫌気が差して、今度こそ本当に気持ちが冷めてしまったのでしょうか…。
彼の行動の意図をあれこれと勝手に想像して気持ちが沈みそうになりましたが、こうなった原因はまさしく今のような感情なのです。
不安なことがあるとすぐに悲観的な方向に物事をとらえて、頭の中で思い描いたことが現実に起きていることのように思い込んでしまうのは、私の悪い癖です。
癖とは怖いもので、一度痛い目を見たというのになかなか抜け出すことができません。
けれどもそのことに気が付いた私は、気が付かなかった少し前の自分とは違います。
彼の気持ちを自分の心の中だけで決めつけてしまうことはもう絶対にしません。
腕を伸ばしてルーンの胸に抱きつくと、彼は驚いたように私の名前を呼びました。

「リタ?!どう…」
「ルーン…私は貴方に謝りに来たのです。どうかこのままお話を聞いてください…」
「……」

彼は私のお願いを拒否しませんでしたが、抱きしめ返してはくださいませんでした。

「貴方が私のことをそれほど大切に想ってくださっていたなんて知りませんでした。私は貴方が好きです…貴方が大好きだったから、お手紙をいただけなくて悲しかったのです。どうしてなのかと悩んでいたら貴方が他の女性を好きになったというお話を聞いて…それでお手紙をくださらないんだと思いました。帰省する日を事前にお知らせしてもお会いしてくださらなくて、やっぱり彼女のお話は本当だったのだと…よく確かめもせずに信じ込んでしまいました。貴方に裏切られたのだと思ったら、ショックで……本当にごめんなさい…」
「そうだったんだね…辛い思いをさせてしまって本当に申し訳なかった。君は何も悪くないから、謝らなくていい。悪いのは僕だ。僕が至らなかったから、君が傷ついた」
「ルーンだけの所為ではありません…そんなふうにご自分ばかりを責めるのは止めてください。記憶もないほど幼い頃から貴方と一緒に過ごしてきたのに、私は出会って間もない彼女の言い分を信じました。私が貴方を傷つけたんです…」
「それは違うよ。さっき過去を振り返って改めて感じたことだけれど、僕は君にとっていい婚約者ではなかった。一度もデートをしたことがなかったし、素っ気なくしてしまったこともあったしね…。元々何かしら不満を持っていた中で手紙の返事も来ないとなったら、不信感を抱くのは当然の感情だ。君が彼女の話を信じてしまうのも無理はない状況だった。だから気に病む必要はないんだよ」
「それだって貴方の所為ではないでしょう?そうせざるを得ない状況でした。貴方にあんな命令を下した父が…貴方が苦しんでいることに気が付けなかった、私がいけないのです…!」
「リタ、誤解しないで。これまでのことは全部、僕が自分で選んでしてきたことだ。だから誰の所為でもないよ。僕がただ上手く立ち回れなかっただけのことなんだ」

何を言っても私を擁護してばかりのルーンに、私はだんだん苛立ってきてしまいました。
「君にも悪いところがあった」と叱ってくださったなら、「君の謝罪を受け入れる」と言ってくださったなら、私の気持ちもいくらか晴れるのに…こうも許されてばかりいてはもどかしくなってしまいます。
愚かな私はまた自分に都合の良い要求を彼に押し付けようとしていることに気が付かず、つい感情に任せて詰るような言い方をしてしまいます。

「どうして貴方はそうやって私を甘やかすのですか?!どうして責めてくださらないのです?!私だって3年間貴方に一度もお手紙を送れていませんでした!それなのに私は自分だけが被害者ぶりをして、貴方の想いを踏みにじるような行いをたくさんしました!私も気になっていたのなら、待ってばかりいるのではなく私から貴方に会いに行けばよかったのです!貴方のお母様やグレーテに、貴方から手紙が来ないのだと相談することだってできました!できることはたくさんあったはずですのに、私は最初から貴方が浮気をしたのだと決めつけて、修道院に入る方法ばかりを調べて、貴方をやり込めることばかり考えて…!どうしてそれを怒ってくださらないのですか?!」
「リタ…泣かないで…」

こんなふうに泣いてしまうのは涙に訴えるようで嫌だと思うのに、止めようとすればするほど複雑な感情が込み上げて抑えることができません。
一方的に不満をぶつけるばかりだった今までの行いが心苦しく、それでも匙を投げずに向き合おうとしてくれた愛情が嬉しくて、アリアンナ嬢から助言を受けなければ気が付けなかった自分が情けなくもありました。
私が顔を埋めているせいで、ルーンの白いシャツがしっとりと濡れていきます。
しゃくり上げる私の背中を宥める手つきはとても優しく、彼の体温を感じただけで大きな安心感に包まれていきます。
たったそれだけでこれほど愛情を感じるのに、私はいったい今まで彼の何を見てきたのでしょうか…。

「君の気持ちはわかったよ。だけど僕は君を怒ることなんてできない」
「それは…怒りも湧かないほど私に呆れてしまわれたからですか?愛想が尽きてしまわれたからですか…?そうならそうと正直におっしゃってください…」
「安心して…僕がリタに愛想を尽かすなんてことは一生ないよ。君が何をしても、どんなことがあろうと、僕が君を愛する気持ちが変わることはない」
「ほんとうですか…?」
「本当だよ。僕は君が生きてくれているだけで嬉しいんだ。君が僕と同じ時代に生まれてきてくれたことに、心の底から感謝している。ありがとう、リタ…僕と出逢ってくれて。君の婚約者として過ごしたこの10年間、僕はいつでも幸せだったよ」
「……!」

彼の穏やかな告白を聞いて、私は涙を止めました。
とても嬉しいはずなのに…婚約解消が確定しているかのように聞こえて、茫然としてしまいます。
もう戻れないのかと絶望しそうになりましたが、その一歩手前で踏み止まります。
彼は先程、このまま結婚をするかどうか忖度せずに選ぶようにと言いました。
恐らくこれは彼なりの優しさです。
私が同情心に流されて決断してしまわないように、気持ちの整理がついていることを伝えようとしているのでしょう。
そうと気が付いても、私への気持ちがもう過去のことのように話されてしまうと悲しくなってしまいます…。
――けれど私もあのパーティーの場で彼に同じようなことをしているのです。
嫌悪を剥き出しにして一方的に切り捨てるような言い方をした分、そのダメージはかなりのものだったと思います。
諦めたくないと頑張る一方で、彼は心血を注いだ14年間の想いに幕を下ろす準備を始めました。
にこにこと私に笑顔を向けながら、秘かに後片付けを進めていたのです。
夜会で離れがたいと言ってダンスを2回踊ったのは…もしかしたらこれが最初で最後になると覚悟していたからかも知れません。
何故あんなことを言ってしまったのか…今となっては後悔しかありませんが、落ち込んでいても何も変わりません。
いま私ができることは、彼に私の正直な気持ちを伝えて、あのお願いを撤回することです。

「わ、私も、ルーンに出逢えてよかったと思っています。貴方の婚約者になれて良かったと…!」
「ありがとう。君にそう言ってもらえて嬉しいよ」
「……」

誠意を込めて伝えた言葉は、彼の心まで届きませんでした。
爽やかに微笑む彼の反応を見る限り、私の本心ではないと思われたようです。
今日までひどい態度ばかりしてきましたから…社交辞令と受け取られてしまっても仕方のないことです。
けれど気持ちが伝わらないというのは、こんなにももどかしいものなのですね…。
いま私が抱いたような感情を彼はこの半年間、毎日感じていたのかと思うと…罪深さに心が折れそうになります。
ですがここで諦めるつもりはありません。
私には挽回の機会も時間もまだ残っているのですから。

「本当に…そう思っているのです。貴方が私を婚約者に選んでくださったことに、心から感謝しています…」
「リタ……?」
「ルーン。私は、貴方のことが好きです。貴方と同じくらい…とは、とても言えませんけれど…」
「……」
「私は貴方を信じきれなかったのに、今度は貴方に信じてもらいたいだなんて…虫が良すぎるとわかっています。けれどこれが私の…、今の本当の気持ちなんです」
「……」
「私も今日から毎日、毎晩、同じことを伝えます。貴方に信じていただけるまで、何度でも…」
「リタ。僕は君を信じるよ」

ルーンの声には一瞬の迷いもありませんでした。
凛とした青い瞳が真っ直ぐに私を見下ろしています。

「君は純粋で素直だから、駆け引きなんてできないことはわかっている。僕は君のそういうところも可愛いと思っているし、好きなんだ。ありきたりな言葉だけど、そのままの君が好きなんだよ。だから僕が君を嫌いになることも、疑うこともない。いつだって君を信じるし、味方になる。君がどんな選択をしたとしてもね」
「ルーン…」

私はもう涙を堪えることができませんでした。
こんなに私を愛してくれている人を、私はどうして疑ってしまったのでしょうか…。
滲んだ視界の向こうでルーンが微笑んでいるのが見えます。
今の私は化粧もしていませんし、泣いているせいで目も鼻も赤くなってきっとひどい顔になっていると思います。
けれど彼は私が着飾った時と変わらず、愛おしげに目を細めて、ほろほろと頬を転がり落ちていく雫を指先で拭い取っては優しく撫でてくださいます。
私以外の女性にこんなことをしている彼の姿を眺める側にはなりたくありません。

「貴方に婚約を破談にしたいと言ったことを…取り消したいです…」
「リタ……これは確認だけど、本当にそれでいいのか?このまま結婚をしたら僕はきっと何があっても君を手放さない。後になってやっぱり嫌だと思っても、逃がしてあげられないかも知れない。だからもう一度よく考えてみて。まだ1年の期限まで時間はあるから、焦らなくていい。落ち着いてゆっくり考えて、答えを出して」
「どんなに考えても答えは同じです…!私は貴方の妻になりたい。それに貴方がもし私を嫌だといっても、私だって貴方を逃しませんから…!」
「リタ…その言葉、本気にするよ。いいんだね?」

ルーンの最終確認に頷くと、彼はほっと眉を開いて、花が綻ぶような笑みを浮かべました。

「君のことを思うなら諦めなければならないと…この半年間ずっと考えていたんだ。だけど君が撤回してくれるなんて、こんなに嬉しいことはないよ…。ありがとう…リタ…」

その時の彼の笑顔は今まで見てきたどんな笑顔よりも晴れやかで、歓喜に満ち溢れていました。

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