5 / 51
第1話~波のうた~
誠広さん(5)
しおりを挟む
なんてことを考えていると、ますます頬が赤くなってくるような気がした。幸いというか、男の人は今は手元のスケッチブックに顔を向けているので、たぶん今度は気づかれていない。
頬を手で押さえて、ある程度熱が引いたかなと思うぐらいの時間を置いてから、もう少し相手に近づいてみた。スケッチブックの、一心に鉛筆を走らせている面が見えるぐらいにまで。
思った通り、目の前に広がる海が描かれていた。波が穏やかで静かな海──そして、砂浜に立つ二人の人物。
鉛筆が描いているのは今は右側、背の高い人物の肩のあたりだ。描かれている方向に目を向けてみたけど、誰もいない。
「あの、……ええと」
なんて呼びかけたらいいのか悩んで、口ごもってしまう。そういえば名前をまだ知らない。
相手は再びこちらを向き、首を傾げた。しばらくして察したように、
「僕の名前? 誠広だよ」
それからまた微笑んで、
「君は、夏実くんだったよね」
こちらが名乗る前にそう言った。
あの時、姉ちゃんが1回か2回しか口にしていなかった名前を、この人──誠広さんは覚えていてくれたのだ。なんだか嬉しくなって、笑顔でうなずく。
あらためて質問してみた。
「この人たちは、誰なんですか?」
絵の中の二人を指差すと、誠広さんが一瞬、妙な表情を浮かべたように見えた。「?」と思っているうちに消えたので、気のせいかと思ったぐらいの短い時間だったけど……
「ああ、これはね、こっちが僕で」
と誠広さんは背の高い人物を示す。鉛筆の先がその隣の人物に移動した。
「こっちは、奥さん」
びっくりした。
「え、結婚してるの──じゃなくて、してるんですか」
「うん、こっちに越してくる少し前にね」
言われて見てみると、左手の薬指には確かに指輪がある。誠広さんがスケッチブックを持ち直した拍子に、日差しを反射して一瞬光った。
「それに、そんなに丁寧でなくても、普通の喋り方でいいよ」
「……じゃあ、えっと、奥さんは絵に興味ないの」
「どうして?」
「だって、一緒に来てないから」
と言うと、誠広さんは少し黙った。……あ、まただ。さっきと同じ表情。
やっぱり短い間だったけど──どうしてそんな、今にも泣きそうな目をするんだろう。
視線をそらしてうつむいて、ぽつりと言った。
「……彼女は、体が丈夫でなくてね。あんまり外に出られないんだ」
一人言みたいに誠広さんが口にしたその言葉に、少しショックを受けた。聞いちゃいけないことを聞いてしまったような気がした。
「ごめんなさい」
反射的に謝ると、誠広さんはこちらの存在を思い出したようにはっと顔を上げ、振り向いた。そして首を振る。
「いや、いいんだよ。……僕の方こそごめんね」
逆に謝られたのが、不思議だった。何が「ごめんね」なのかピンと来ない。奥さんが体が弱いことを聞かせて嫌な思いをさせたと、そんなふうに思ったんだろうか。
そう考えてもまだ、引っかかりを感じてはいたけど、それ以上は気にしないことにした。元気をなくしたように見えた誠広さんが、今はまた笑ってくれて、ほっとしたから。
頬を手で押さえて、ある程度熱が引いたかなと思うぐらいの時間を置いてから、もう少し相手に近づいてみた。スケッチブックの、一心に鉛筆を走らせている面が見えるぐらいにまで。
思った通り、目の前に広がる海が描かれていた。波が穏やかで静かな海──そして、砂浜に立つ二人の人物。
鉛筆が描いているのは今は右側、背の高い人物の肩のあたりだ。描かれている方向に目を向けてみたけど、誰もいない。
「あの、……ええと」
なんて呼びかけたらいいのか悩んで、口ごもってしまう。そういえば名前をまだ知らない。
相手は再びこちらを向き、首を傾げた。しばらくして察したように、
「僕の名前? 誠広だよ」
それからまた微笑んで、
「君は、夏実くんだったよね」
こちらが名乗る前にそう言った。
あの時、姉ちゃんが1回か2回しか口にしていなかった名前を、この人──誠広さんは覚えていてくれたのだ。なんだか嬉しくなって、笑顔でうなずく。
あらためて質問してみた。
「この人たちは、誰なんですか?」
絵の中の二人を指差すと、誠広さんが一瞬、妙な表情を浮かべたように見えた。「?」と思っているうちに消えたので、気のせいかと思ったぐらいの短い時間だったけど……
「ああ、これはね、こっちが僕で」
と誠広さんは背の高い人物を示す。鉛筆の先がその隣の人物に移動した。
「こっちは、奥さん」
びっくりした。
「え、結婚してるの──じゃなくて、してるんですか」
「うん、こっちに越してくる少し前にね」
言われて見てみると、左手の薬指には確かに指輪がある。誠広さんがスケッチブックを持ち直した拍子に、日差しを反射して一瞬光った。
「それに、そんなに丁寧でなくても、普通の喋り方でいいよ」
「……じゃあ、えっと、奥さんは絵に興味ないの」
「どうして?」
「だって、一緒に来てないから」
と言うと、誠広さんは少し黙った。……あ、まただ。さっきと同じ表情。
やっぱり短い間だったけど──どうしてそんな、今にも泣きそうな目をするんだろう。
視線をそらしてうつむいて、ぽつりと言った。
「……彼女は、体が丈夫でなくてね。あんまり外に出られないんだ」
一人言みたいに誠広さんが口にしたその言葉に、少しショックを受けた。聞いちゃいけないことを聞いてしまったような気がした。
「ごめんなさい」
反射的に謝ると、誠広さんはこちらの存在を思い出したようにはっと顔を上げ、振り向いた。そして首を振る。
「いや、いいんだよ。……僕の方こそごめんね」
逆に謝られたのが、不思議だった。何が「ごめんね」なのかピンと来ない。奥さんが体が弱いことを聞かせて嫌な思いをさせたと、そんなふうに思ったんだろうか。
そう考えてもまだ、引っかかりを感じてはいたけど、それ以上は気にしないことにした。元気をなくしたように見えた誠広さんが、今はまた笑ってくれて、ほっとしたから。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる