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第3話~空のおと~
彼女の婚約者(10)
しおりを挟む背中を向けたまま、繭子は話し続ける。
「けど、どうしても実感は湧いてこなくて。わたしには、彼と初詣に行ったのも、空港で皆と一緒に見送ったのも、ついこの間にしか思えないの。……おかしいでしょ。自分でもそう思うもの」
そして「彼」の仕事仲間の一人のことを口にした。その人と会う時は絶対に3人でだったのに、「彼」を交えずに一度だけ会った記憶があるのだという。ただし、時期や場所、話した内容は全く覚えていないのだとも。
去年2度目の記憶喪失を起こした時、繭子は「彼」の不在に少しでも関わる記憶を、ほとんどなくしていたと聞いた。……けれど、何もかも忘れてしまったわけではないのだ。
今の話も「彼」が亡くなった後のことなのだろう。そんなふうに、繭子自身も戸惑うような形で残されている記憶は、意外に多いのかも知れない。良行は彼女の口ぶりからそう考えた。
「……だから、桂木くんと会ったことも、ちゃんとは覚えてられないかも知れないの。ごめんなさい、結局はだましてた上に、こんな恩知らずなこと言って」
ようやく振り返った繭子は、泣いてはいなかった。……ただひたすら悲しそうで、そして心底申し訳ないという表情だった。
良行は正直に言うことにした。
「謝らなくていいよ。俺も、なんとなくわかってたから」
「──えっ」
再会してからの2ヶ月近く、週に2回は必ず会っていたのだ。毎回「彼」の話が出たわけではなかったけど、それでも気づいた。いつからか、「彼」のことを持ち出す時に彼女の声に混じるようになった、ほんの少しのためらいに。
けれど、繭子がそうしたいのなら。「彼」が生きているとしばらくの間でも信じていたかったのなら、かまわないと思った。結果的にだまされていたのだとしても。
「それで小野寺が幸せな気分になれるんなら、かまわなかったんだ、俺は」
「桂木くん──」
繭子の声が震えた。うつむき、唇を一度引き結んでから、
「……でも、そう言ってくれたことも、忘れちゃうかも知れないのよ。ひょっとしたら、全部」
わずかにつっかえながら言う。うん、と良行は頷いた。
「だから、また帰ってくるよ。小野寺に、忘れられないように」
顔を上げた繭子の目が、大きく見開かれる。
「できるだけ、たくさん会いに帰ってくる。忘れる暇がないぐらいに。……だから、泣かないで」
涙を拭いながら、長い間の後で、繭子は「ありがとう」と言った。
彼女のその声、泣き笑いの表情、今日の海と空の色──ここで見たものと、聞いた音の全ては、きっと一生忘れないだろうと思った。
- 終 -
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