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55 大切な宝物 後

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「ラナント……さん」

 小さな声でデイラは繰り返す。〝レイーサ〟は亡き大叔母の名前だが、男性のほうの名前に聞き覚えはなかった。

「年に一度か二度、おふたりは何十年ものあいだ手紙のやり取りを続けていらしたようだね。考えてみれば、大叔母さんが亡くなられる少し前まで」
「えっ……」
「ラナントさんはレイーサさんより十歳近く年下で、どうしても継がなくてはならない家督があったらしい。おふたりはそれぞれの役割を果たすために離れることにしたけど、気持ちはずっと寄り添っていたようだった。必ず『変わらぬ愛を』で結ばれる文面からは、いつも思いやりと愛情が溢れてたよ」

 デイラは呆然としてキアルズを見つめる。

「ぼくには、ラナントという名を持つ年嵩の伯爵に心当たりがあるんだ。白い口髭がよくお似合いの、温厚で寛大な方だよ。独り身を貫いていらっしゃるけど、養子として迎えられたお子さんやお孫さんたちともとても仲がいいんだ」

 ふとデイラは、ほぼ身内だけで営んだ大叔母の葬儀に、見慣れぬ老紳士がひっそりと加わっていたことを思い出す。その白髭をたくわえた男性は、しばらく祖父と静かに話し込んでいた。

「そう……だったんですね」

 遠い昔に年下男性との恋に破れたと言われていた大叔母は、その相手と生涯心を通わせていた。その事実がデイラの胸を温かくする。

「ほら、年の差なんて関係ないでしょう?」

 まっすぐな笑顔を向けられ、デイラもかすかに口角を上げた。

「確かに年齢は変えられるものではないですし、私がキアルズさまのお母さまを見習って努力を重ねていくしか……」
「母からいろいろと教わるのはいいけど、母に似せようなんて思わなくていいからね」

 キアルズは「あなたはあなただ」と力強く言う。

「母とその前の辺境伯夫人にも、それほど共通点はないようだしね」
「そうなんですか?」
「うん。むしろ、ぼくのお祖母ばあさまは……」

 キアルズはなぜか途中で黙ると、一拍置いてデイラに訊ねた。

「――ねえ、エルトウィンの騎士たちが、宴会の場や士気を上げるときに唄う伝承歌があるでしょう?」
「は……はい。ご存じなんですか?」
「もちろん」

  風は冷たいけれど
  風は冷たいけれど
  剣は熱く 心も熱い

 これを気が済むまで繰り返す単純なその歌を、騎士たちは『風は冷たいけれど』と呼んでいる。

「頃合いのいいところで、転調したふしをつけて歌を締めくくるんだよね?」
「そ、そうですけど……」
「その最後の部分の歌詞は……アウラのいただき、ロイナのみずうみ、美しき雪嵐ゆきあらし……。アウラさんとロイナはエルトウィンの名所だけど、この〝美しき雪嵐〟って誰のことか知ってる?」
「誰……?」

 デイラは、豪雪に見舞われることが多いあの土地の風景を表しているのだと思っていた。

「トゥルーヌ・サーヴ。前の前の辺境伯夫人である、ぼくの祖母の二つ名だよ」
「え……」
「ぼくが生まれたときにはもうこの世にはいなかったし、目立つことが苦手で歴史に名を残すのもごめんだと言っていたそうだけど、彼女は自ら剣をふるって戦う一騎当千の英雄だったらしい。あなたのようにね」

 驚きの連続に、デイラは何度も瞬きをする。
 勝手な思い込みが、これまでどれだけ自分を縛ってきたのだろう。

 キアルズは『風は冷たいけれど』の最後の部分を口ずさみ始めた。

  アウラの頂
  ロイナの湖
  美しき雪嵐
  すべてはわれらが誇り
  われらがアイオンマス

 一般的には聞きなじみのない言葉で終わる歌に、デイラの耳朶はうっすらと赤くなる。辺境の地の領主となるべく多くの知識を身につけてきたキアルズには、どうやら気づかれてしまっていたようだ。

「アイオンマス……。国境地帯の古い言葉で〝宝物たからもの〟のことだね」

 キアルズの手が、デイラの頬をそっと撫でる。

「ぼくとの子に、宝物と名づけてくれてありがとう」

 恥じらうようにデイラは視線を下げた。

「私の気持ちなんて、とっくにお見通しだったんですね」

 キアルズは軽く首を横に振る。

「いずれにしても子供はかけがえのない存在だから、それだけではあなたがぼくを想ってくれていると確信は持てなかったよ」
「じゃあ……」

 キアルズはデイラの銀灰色の髪に触れた。そのまま大切そうに指で梳く。

「新年や夏至、アイオンの誕生日……。特別な日にだけ、あなたが髪を結う紐があるそうだね」
「え……」
「その空色の飾り紐は母さまの大事な宝物なんだと、アイオンが教えてくれたよ」

 言葉が出てこなくなったデイラを、キアルズはぎゅっと抱きしめた。

「そんな嬉しいことを聞いたら、もう何も怖くなくなったんだ」

 温もりに包まれ、デイラの胸にも幸せな気持ちがこみ上げてくる。

 キアルズの母は、自分の愛のすべてがエルトウィンにあると言っていた。
 デイラはどうだろう。フォルザやブロール、森の近くの村、故郷のテュアン……大切な人はあちこちにいる。
 しかし、あの北の果てが特別に愛しい場所になることは間違いない。

「――キアルズさま」

 声を掛けたデイラに、キアルズはいたずらっぽい笑みを浮かべてお決まりの言葉を返そうとする。

「ちゃんと呼び捨てにして。敬語も禁――」

 デイラは顎を上げ、初めて自分からキアルズの唇に短い口づけをした。

「……っ」

 不意をつかれた美しい辺境伯は、翠玉色の目を大きく見開く。
 そして、まるで初恋に落ちたばかりの少年のように、頬をばら色に染めた。

                 <了>
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