【完結】嘘が匂いますね、公爵様〜愛を騙る夫の後悔〜

終日ひもの干す紐

文字の大きさ
26 / 53
第一章

第26話  足りないもの【フィセリオ視点】

しおりを挟む
 王家主催の夜会が終わり、再び政務に追われる日常へと戻っていく。そのはずだった。

 昨日の夕刻のことだった。書類に目を通していると、執務室の扉が叩きつけられるように乱暴に震え、こちらが許可を出すのも待たずに勢いよく開く。

「フィセリオ様っ!!」

 飛び込んできたのは、ウィステルの専属侍女であるジャスミンだった。ここまで走ってきたのか蜂蜜色の髪は乱れて、肩で息をしている。見開かれたオリーブグリーンの瞳が、異常事態を告げていた。

「ウィステル様が──」

 それは、ウィステルが突然意識を失って倒れたという報せだった。すでに寝室へ運ばれ、キャスバート家つきの医師によって診察が始まっているという。

 意識のないウィステル。医師の診察。そして何もできない自分。冷静に考えて、自分が駆けつける意味は薄いとフィセリオは思った。

 だが“愛する妻”が倒れているのに淡々と政務をこなしていては、これまで築いてきた“仲睦まじい夫婦”の印象が揺らぐ。フィセリオは迷うことなく立ち上がると、“模範的な夫”の姿を積み上げるように寝室へと走った。

 寝室へ入ると、いつも二人で使っている寝台の上にウィステルが寝かされていた。血色が悪く、唇まで心なしか白く見える。今にも儚く消えそうなその横顔が亡き兄エオナックのものと重なり──ゾクリと心臓が冷たく震えた。

「アキレイ、ウィステルの容態は?」
「直ちに命に関わることはないですが、過労と心労が重なった結果、限界が身体症状として表れたのでしょう。高熱はしばらく続くと思われますが、安静にしていれば回復なさいます」
「そうか……」

 アキレイは一礼すると、ウィステル用の薬の調合と食事内容の指導のために部屋を出ていった。

 過労と心労……フィセリオには思い当たる節がいくつもあった。昨年末頃からウィステルは催事の立案と計画に奔走し、領地経営を学びたいと合間を縫ってハルシャから指導を受けていた。それだけでなく、年始の夜会では母のヘレニーテを支え、フェアファクス家のロクシーナと正面から戦っていた。これだけ揃っていれば、むしろ納得しかない。

「いきなりフィセリオに求婚されて、心の準備もできずに公爵夫人だもんな。嫁いできてから、絶え間なく働き詰めてたし……」

 執務室からフィセリオと共についてきていたエルウッドが、ぽつりと呟く。気の毒そうな彼の声色が、なぜかフィセリオの胸の奥にズシリと重くのしかかった。

 私はきちんとウィステルを“愛していて”、彼女も信じていたはずだ。公爵夫人としても、無理はしなくていいと再三伝えてきた。それでも、心労をかけていたのか?

 最大限、でき得る限りの配慮をしてきたつもりだった。働き詰めているのも、それはウィステル自身が動いている方が好きだからだと思っていた。

「責任感の強い方でしたから、ご自分でも気づかないうちに無理が蓄積していたのかもしれません。ウィステル様、気づいて差し上げられなくて……申し訳ございませんでした」

 ジャスミンが意識のないウィステルに向けて膝を折り、謝罪している。傍にいて何も気づけなかったのはフィセリオ自身も同じだった。むしろ夫として信頼され、その心労を和らげる役目は自分にあったはずだ。

 最初から、無理をしていたのか? それとも私が、無理をさせたのか?

『フィセリオ様、知っていますか? 不毛の地に生える草は踏まれて枯れても、根が深くてしぶといものなんです』

 夜会の日、ウィステルはそう言って不敵に笑っていた。どこかエオナックと似ていると感じていたウィステルとローワンの、企みが成功したと言わんばかりにほくそ笑む姿に「兄上はこんなに強かな人ではなかったな」と、二人の評価を改めた。

 憧れていた兄のような柔和さ。それでいて兄と違って凛としていて……何も心配いらないと、心のどこかで信頼と安堵を覚えていた。

 根が深くても、しぶとくても、枯れるときは枯れる。どうして、安心なんてしたんだ。私は兄上のようには上手くやれないのだから、油断すべきではなかった。

 あのときの言葉も、単なる強がりだったのかもしれない。決して心は明け渡さないというラティマー家の意地。怯まずにフェアファクス家と対峙した気概。しぶとく耐え忍ぶことを気質と表現したくらいなのだから、あり得る。

 君は、誰も味方だと思えずに……ひとりで耐えていたのか?

 味方のつもりでいた。こちらの都合で利用される彼女を、“愛されている公爵夫人”という世界を築くことで、不必要に心を乱さないように整えてきた。

 けれど聡明な彼女のことだ、こちらの打算にはある程度気づいていた可能性はある。働き詰めていたのも、自身の有用性を示すことで、キャスバート家からラティマー家への援助を強固なものにしようとしていたのかもしれない。

 つまりウィステルにとってフィセリオやキャスバート家は信頼すべき味方ではなく、警戒すべき協力者。それが、心を開けずに神経を擦り減らしてしまった理由なのかもしれない。真相はわからないが、フィセリオはそう結論づけた。


* * *


 フィセリオはウィステルが回復するまで、仕事を寝室に持ち込むことにした。エルウッドは執務室に残し、必要なときだけ声をかけてもらうようにしている。

 看病などジャスミンに任せれば良い話だが、“妻を愛する夫”らしく献身的に看病し、傍を離れないことを選んだ。けれどそれだけではない。罪悪感とも焦燥ともつかない、得体の知れない感情を拭えなかった。

「ん……うぅ……」

 一日明けた今も、ウィステルは目を覚まさない。深く眠っているかと思えば、熱が上がってくるとうなされる。そのたびにフィセリオは額の汗を拭き、氷嚢ひょうのうを取り替えた。

 氷を入れ替えた氷嚢が額に当たると、眉がピクリと反応する。すると薄く目を開き、彼女の紫を帯びた紅玉のような色が微かに覗いた。その瞳が、寝台の傍らから見下ろすフィセリオを一瞥いちべつする。

「ローワン……兄、様……」

 縋るような、掠れた声。ウィステルは少しだけ表情を和げるとそのまま目を閉じ、落ちるように眠り始めた。ようやく、心の安息地を見つけたように。

──ローワン兄様。

 ウィステルが実兄であるローワンを本来どう呼んでいたのか、フィセリオは今初めて知った。ウィステルとローワンのいる場にフィセリオがいる場合、基本的に二人は『公爵夫人』と『伯爵家当主』として対応することになる。実際、フィセリオの前で二人は、互いを『ローワン様』『ウィステル様』と呼び合っていた。

 それが、ウィステルがフィセリオに心を開いていない何よりの証左だった。

 もし愛されていると実感し、心を開いているのなら、彼女の会話の中でローワンの名前が出るときに、フィセリオへの信頼を伴って『ローワン兄様』という呼称が出たっておかしくはなかった。けれど、そんなことは一度も……たったの一度もなかった。

 ウィステルはフィセリオの前では常に『公爵夫人』であり、『愛されている妻』だと思えていなかったということだ。ウィステルにとってフィセリオは“夫”ではなく“主”だった。監視され、粗相のないようにと気を張る日々は、窮屈で息苦しくてたまらなかっただろう。

穏やかに眠れているなら、それでいい……

 ゆっくりと穏やかな呼吸を繰り返すウィステルに、フィセリオは安堵とも落胆ともつかないため息をついた。眠る間際の表情は、初めて見る、安心と信頼に満ちたものだった。

 たった半年間しか過ごしていない自分が、ずっと一緒にいたローワンよりも信頼されたいなどとは思わない。夫である自分を一番にしろとも思わない。

 ただ、フィセリオ自身は欠片も信じられていない。この半年間ずっと、警戒すべき相手としてしか見られていなかった。その事実が、どうにも胸の奥に暗く深い影を落としていた。

 愛してもいないのに、なぜこんなにも気にかかる? ウィステルは元々想定していた役割を果たしている。それで十分のはずじゃないか。

 考えを巡らしていくと、一つだけ納得できる理由が見つかった。それは自身が演じてきた“妻を愛する夫”が、自分が想定していたように効果を示さなかったことだ。ここが上手くいっていれば、ウィステルはフィセリオに心を開いていただろうし、こんなふうに倒れることもなかったはずなのだ。

 私はどうすれば良かったんだ……兄上……

 エオナックは人望が厚く、皆から慕われていた。ここにいるのが自分ではなくエオナックなら、ウィステルにも信頼されていただろう。

 エオナックがしているように振る舞っているはずなのに、エオナックのようにはいかない。どれだけ表面を似せたところで、中身はフィセリオのまま。それがどうしたって滲み出るせいか、フィセリオは大抵警戒されるし、寄ってくる者も大半は信頼ではなく打算だった。

 エオナックなら信頼されたのなら、エオナックにより近づければいい。もっとフィセリオ自身の打算や冷たさを隠し、エオナックの持っていた明るさと温かさで目をくらませる。足りないのは、警戒心が強く聡明なウィステルさえも疑うことなく信じられるだけの……演技の精度だ。

「ウィステル、すまなかった」

 ウィステルの目が覚めたら、もっと上手くやれるだろうか。今度こそ信頼され、心を開いてもらえる“完璧な夫”を演じられるだろうか。

 余すことなく打算で利用しているからこそ、その代価として彼女の立場を保証する。今度こそ、彼女がきちんと穏やかに暮らせるように。そんな思いだけが、静かに静かに空回っていた。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

【完結】旦那に愛人がいると知ってから

よどら文鳥
恋愛
 私(ジュリアーナ)は旦那のことをヒーローだと思っている。だからこそどんなに性格が変わってしまっても、いつの日か優しかった旦那に戻ることを願って今もなお愛している。  だが、私の気持ちなどお構いなく、旦那からの容赦ない暴言は絶えない。当然だが、私のことを愛してはくれていないのだろう。  それでも好きでいられる思い出があったから耐えてきた。  だが、偶然にも旦那が他の女と腕を組んでいる姿を目撃してしまった。 「……あの女、誰……!?」  この事件がきっかけで、私の大事にしていた思い出までもが崩れていく。  だが、今までの苦しい日々から解放される試練でもあった。 ※前半が暗すぎるので、明るくなってくるところまで一気に更新しました。

【完結】婚約破棄に祝砲を。あら、殿下ったらもうご結婚なさるのね? では、祝辞代わりに花嫁ごと吹き飛ばしに伺いますわ。

猫屋敷むぎ
恋愛
王都最古の大聖堂。 ついに幸せいっぱいの結婚式を迎えた、公女リシェル・クレイモア。 しかし、一年前。同じ場所での結婚式では―― 見知らぬ女を連れて現れたセドリック王子が、高らかに宣言した。 「俺は――愛を選ぶ! お前との婚約は……破棄だ!」 確かに愛のない政略結婚だったけれど。 ――やがて、仮面の執事クラウスと共に踏み込む、想像もできなかった真実。 「お嬢様、祝砲は芝居の終幕でと、相場は決まっております――」 仮面が落ちるとき、空を裂いて祝砲が鳴り響く。 シリアスもラブも笑いもまとめて撃ち抜く、“婚約破棄から始まる、公女と執事の逆転ロマンス劇場”、ここに開幕! ――ミステリ仕立ての愛と逆転の物語です。スッキリ逆転、ハピエン保証。 ※「小説家になろう」にも掲載。 ※ アルファポリス完結恋愛13位。応援ありがとうございます。

【完結】優しいあなたに、さようなら。二人目の婚約者は、私を殺そうとしている冷血公爵様でした

ゆきのひ
恋愛
伯爵令嬢であるディアの婚約者は、整った容姿と優しい性格で評判だった。だが、いつからか彼は、婚約者であるディアを差し置き、最近知り合った男爵令嬢を優先するようになっていく。 彼と男爵令嬢の一線を越えた振る舞いに耐え切れなくなったディアは、婚約破棄を申し出る。 そして婚約破棄が成った後、新たな婚約者として紹介されたのは、魔物を残酷に狩ることで知られる冷血公爵。その名に恐れをなして何人もの令嬢が婚約を断ったと聞いたディアだが、ある理由からその婚約を承諾する。 しかし、公爵にもディアにも秘密があった。 その秘密のせいで、ディアは命の危機を感じることになったのだ……。 ※本作は「小説家になろう」さん、カクヨムさんにも投稿しています ※表紙画像はAIで作成したものです

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

私たちの離婚幸福論

桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

処理中です...