【完結】嘘が匂いますね、公爵様〜愛を騙る夫の後悔〜

終日ひもの干す紐

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第一章

第27話 冷たくて温かい人

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──夢を見ていた。

 けたたましく雷鳴が轟き、激しく降り続く大粒の雨に打たれていた。白くけぶる視界の向こうに、崩落した土砂が見える。あそこには、確か小さな集落があったはずだ。

 あの下に、お父様が埋まっている。

「申し訳ございませんっ、ローワン様、ウィステル様! 私が、アリュード様の代わりに行けばこんなことには……!」
「馬鹿なことを言うな。お前が無事で良かったよ……」

 兄のローワンと父の執事であるカンパニルの会話を、ウィステルはどこか遠くで聞いていた。今立っているこの場所が現実とは思えなくて。ウィステルは、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「お父様を、助けないと……」

 ぬかるみの中、力の入らない足はよたよたと前に進み始める。あの土砂を風術で除けたら、父を助け出せる。きっと泥だらけの顔で「あぁ、ウィステル。助かったよ、ありがとう」って、いつもみたいに笑ってくれる──

 けれど左肩が急に重くなり、ウィステルはそこから引っかかったように動けなくなった。振り返ると、ローワンの手がウィステルの肩を強く掴んでいた。

「どこへ行くんだウィステル。帰るぞ」
「ローワン兄様……」

 帰る……? お父様が、まだあそこにいるのに?

 ウィステルは再び視線を前へと戻す。父が土砂崩れに巻き込まれたと報告を受けて来たが、目の前の光景は想像していたものとは大きく異なる。山体崩壊とも呼べる大規模の土砂災害は、小さな村を一つ丸々飲み込んでいた。

「この規模では……父様の遺体回収は現実的じゃない。ウィステル……諦めよう。俺たちにはやらなきゃいけないことが山積みだ」

 全村民の避難を終え、父は一人残って最終確認をしていたという。カンパニルや他の者たちは皆、安全確保のために村民たちについていたため難を逃れていた。これほどの規模の土砂災害で、村を飲み込まれながらも父一人で済んだのは奇跡と言える状況だった。

「父様はもう、俺たちを“待っていない”……もし今会話できるなら、ここで立ち止まるなと俺たちに言うに決まってる」

 待っていない……そのたった一言が胸の奥底に落ち、ビシッと音を立ててガラスのようにヒビ割れた。言葉に込められた意味は理解できても、心は拒絶していた。雨を吸って重くなった服が、鎖のように絡みついて重い。気丈に、淡々と言葉を紡ぐローワンに、ウィステルの心はついていけなかった。

 耳を塞ぐような雨の音に混じって、嘆きと悲しみの嗚咽おえつがいくつも混じって聞こえてくる。ウィステルたちの後ろの方で、助け出された村民たちが父の死に涙してくれていた。

「皆が、父様のために泣いてくれている……それでもう、十分じゃないか。俺たちが立ち止まってたら、皆が日常に戻れなくなってしまう」

 ローワンが、視界を遮るようにウィステルの前に立つ。父が埋まったであろう土砂の山が見えなくなり、代わりにローワンの翠の瞳が静かにウィステルを見つめていた。

 ローワン兄様だって、平気なわけじゃない。当主になるしかないから、無理やり覚悟を決めただけなんだ……

 いつもは穏やかな湖面のような眼差しが、雨粒に叩かれる水面のように揺れている。何かを喉の奥に押し込むように引き結ばれた唇は、微かに震えていた。両肩に添えられた手から体温が、雨で冷えた体へ熱く染み込んでくる。生きている人にだけ宿る、命の温度……今はこの温度を守るために、立ち上がらなくては。

「今は一刻も早く復興させよう。捜索するなら、その後だ」

 希望のようであって、それがただの気休めでしかないことにウィステルは気づいていた。土地が痩せていて、裕福とは言えないラティマー領。各地で相次ぐ長雨による災害。それらを復興するのに、一体どれだけの歳月を費やすことになるだろうか。

 途方もなく先の見えない未来……けれどいつかは。そしてそれを実現する力を持っているのは、この地を治めるラティマー家だけなのだ。

「……はい」

 ウィステルは胸の奥から泉のように湧き上がる痛みを、短い返事と共に飲み干した。

 災害復興は難航し、資金はあっという間に底をついた。それでも問題は次から次へと舞い込み、対応に追われる日々。父の遺体が冷たい土砂の下で眠ったままになっている事実は、忙しさに擦り減らされて薄れていく。

 手向けの涙の一粒すら流すことを忘れ、無情にも二年という歳月が過ぎ去っていった。


* * *


 過労と心労が原因で倒れてから半月、ウィステルはすっかり元の通りに元気になっていた。無理をしている自覚は全くなかったが、無意識のところで「頑張らなければ」と必死だったのかもしれない。

 安静にしている間は、寝室に仕事を持ち込んだフィセリオが献身的に看病してくれていた。それはきっと“妻を愛する夫”としての嘘を貫くためなのだろう。

 だとしても、政務を理由にすれば誰も“愛がない”とは思わない。ウィステルの看病など、侍女と医師がいれば十分すぎるほどに間に合う。それでも自ら看病を買って出たのは、単なる嘘の強化だけでなくフィセリオの奥底に沈んだ本質の一欠片なのだろうとウィステルは受け取っていた。

「ウィステル、熱は出ていないか? 無理はしていないな?」

 フィセリオの温度の低い手のひらが、ひやりとウィステルの額に触れる。じっとのぞき込む銀灰の瞳に、ウィステルの髪の藤色がじわりと灯り、居心地の悪さから反射的に視線を逸らした。

「心配しすぎですよ。あれから気をつけてますから」
「そうは言うが、無理をしてるのに気づけなかったんだろう?」
「それは確かにそうなのですが……」

 元通り元気になった今でも、夜寝る前にこうしてフィセリオが尋ねてくる。何度も繰り返される嘘の匂わない純粋な心配は過保護にすら感じるほどで、正直戸惑っていた。

 倒れた直後のことは意識が混濁していてよく覚えていないが、目が覚めてからの彼は以前とは何かが違うような気がする。それが何かは、掴めていない。ただただ“妻を愛する夫”の所作が、以前より先鋭化したことだけは確かだった。

「はは、そんな顔をしないでくれ。少し……意地の悪いことを言ってみたくなっただけだ」
「えっ、からかっていたのですか?」
「やり過ぎだったか? 加減がわからず、すまなかった」
「それは、大丈夫、です……」

 フィセリオは気まずそうに眉を下げながら、弱々しく笑う。元々の甘く丁寧に整えられた“妻を愛する夫”の演技に、温度感や柔らかい空気感までごく自然体に盛られるようになっていた。

 わたくしが倒れてから、フィセリオ様がずっと変です……!

 あまり人をからかうようなことをしたことがないのか、明らかに「慣れないことをしてしまった」という空気が漂う。以前のままで十分に周りを欺けていたはずなのに、二人きりのときにこんなことまでして嘘を強化しようとするのは一体なぜなのか。

 心労が原因だったせいで、夫婦関係を疑われた? それならあり得る、かも……?

「ジャスミンから、きちんと休憩を取っていることは聞いている。君の心がけは伝わっているから、心配しないでくれ。それから……これを君に」

 フィセリオは寝台の隣にあるサイドテーブルに置かれていた封筒を手にすると、あれこれと頭の中で考えを巡らせるウィステルの前に差し出した。封蝋にはラティマー家の紋章が押されており、差出人がローワンだとわかる。

 フィセリオ宛の手紙はすでに封が切られており、中を読むように促されてウィステルは便箋を開いた。そこには丁寧に書かれた、見慣れた筆跡の文字が並んでいる。

【かねてより捜索してきた先代当主アリュードの遺体ですが、骨の一部と遺留品が発見されたことをご報告させていただきます。発見時の状況から、これ以上の捜索は厳しいという専門家のご意見を伺い、捜索はここで終了することにいたしました。

 これほど早く父を見つけることができたのは、フィセリオ様のご厚意があってこそです。本来であれば最も後回しにすべき事案にご支援賜りましたこと、心より深くお礼申し上げます。

 つきましては我が妹ウィステルにも、このことをお伝えいただけますでしょうか。父の遺体は葬儀を行ったのち埋葬いたしますが、ウィステルの帰郷をお許しいただけるのであれば、埋葬だけでも立ち会わせていただけましたら幸いでございます。何卒、よろしくお願い申し上げます。】

 紙の上をなぞる指が、文字を追うごとに震えてくる。土砂災害に巻き込まれ、捜索も叶わずにそのままになっていた父。二年が経ち、ウィステルはもう、父を連れ戻すことをほとんど諦めてしまっていた。

「どうして、父の捜索を支援してくださったのですか? 限りある資金の中で……わたくしも兄も、それができるのは民の生活が全てが戻った後だと心得ていました」

 フィセリオは実利主義の公爵とも言われている。多くの民が犠牲になっているのならともかく、犠牲者は領主たった一人。ウィステルやローワンと同じく、捜索は最も後回しにすべき事項だとわかっているはずなのに、だ。

「早く見つけて、弔って差し上げるべきというのはそんなにおかしな話だろうか。それとも私なら“土砂に埋もれたなら埋葬する手間も省けた”とでも考える冷酷な人間に見えたか?」

 予想もしていない、どこか自嘲めいた返答に、ウィステルは思わず目を見開いた。そんなふうには思っていない。フィセリオは、ウィステルが幸せな妻でいられるように優しい嘘をつくような人なのだから。

 心根には、ちゃんと温もりを持っていると信じてきた。だからこそ、胸の奥が小さく軋んだ。

 つまりこれは……フィセリオ様自身は、自分を冷酷な人間だと思っているということ……

「冗談だ」

 ふっと軽く笑った吐息に、微かな甘く熟れた匂いが乗る。それが、“冷酷”がただの冗談ではなく、“本気でそう思っている”のだと静かに語りかけてきた。

「ラティマーの民から、先代の捜索を願う声が上がった。ここで一つ願いを聞いて、安心を買っただけだ。キャスバート家はかなり援助しているが、それが逆にラティマー家を乗っ取るつもりなのではと、民を不安にするかもしれない。先代を大切にすれば、そんな意などないとわかりやすく伝わる。利があってのことだ。君は私に感謝などしなくていい」

 そして、何一つ匂わなくなった。実利主義の公爵とも呼ばれるフィセリオが、利もないのに資金を出すことはないというのもまた事実ということだ。けれどそれは冷酷ではなく、公爵家の当主としては当たり前のことでもある。

 資金は元を辿れば血税も含まれる。今キャスバート領の民の労力が、無関係のラティマー領へと注がれている状態なのだ。無駄な部分には使えないと言われても納得しかなく、フィセリオ自身も無駄なところへは支出しない。

「そこにどんな考えや思いがあるかは関係ありません。わたくしは……いえ、ラティマー家は、ただ……亡き父に手を差し伸べてくださったあなたと、キャスバート領に住む全ての方に感謝いたします」

 利益があるからだとしても、願いを聞き届けてくれたフィセリオへ。税を収める形で本意不本意関係なく、間接的に協力してくれたキャスバート領の民たちへ。そして父の捜索を願ってくれた、ラティマー領の民たちへ。ウィステルはその善意の全てを、感謝として胸に刻み込む。

「……そうだな。私がラティマー領を援助できるのも、民の支えがあってこそだ。その気持ちが本当なら、これまで通りキャスバート領も大切にしてくれるとありがたい」
「もちろんです。これまで以上に、できることを尽くして参ります」

 ウィステルにとって、キャスバート領はもう第二の故郷だ。たった半年間と割り切れないほどに、多くの縁を結び、尊い時間を過ごしてきた。フィセリオが自身を犠牲にしてでも守りたいと願うこの場所を、彼の妻として守りたい。きちんと恩を返したい。ずっと抱いてきたその思いは、彼を知り、キャスバート領を知るごとに強くなっていた。

「あぁ。だがその前に、一度帰郷するといい」
「……帰っても、いいのですか?」
「病み上がりではあるが、逃せない機会というものはあるからな。体調と相談して、君がしたいようにするのがいいだろう。帰るのであれば手配しておく」
「ありがとうございます……! お言葉に甘えて、父を弔いに一度帰郷します」
「そうか。ゆっくり見送ってくるといい」

 本当に冷酷な人なら、帰郷なんて許してくれなかっただろう。静かに見守ってくれるような柔らかな眼差しに、心が熱く痺れている。それはやがてゆっくりと込み上げ、じんわりとウィステルの目頭を熱くした。
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