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1巻
1-1
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この幸せな結婚生活は、終わりに向かって動き始めている。
それなのに私は未練がましく、今日も夫の瞳と同じ青色のドレスを身にまとってしまった。
鏡に映る私の胸元は、美しい金のネックレスで彩られている。中央で大粒のブルーサファイアが光るこのネックレスは、一年前に結婚した夫、ラッドレン王太子殿下が、私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
(殿下がアールガード辺境伯の領地へ発ってから、もう半月が過ぎたのね……)
愛しい人に会えない寂しさで気分が沈む。ドレッサーチェアに座ったままほんの少しだけ目線を下げると、私の髪を梳かしていた侍女のベルマリーの手が止まった。
「いかがなさいましたか、ミーネ様」
気遣うような声が聞こえてきて視線を正面へ戻すと、私の後ろで櫛を手にして立つベルマリーが鏡越しに心配そうな表情でこちらを見ていた。
色白な私と違って健康的な肌の色のベルマリーは、王太子妃の専属侍女として動きやすいように軽めの素材で作ったダークグリーンのドレスを着ていて、オレンジ色の髪をふたつに分けてきっちりと編みこんでいる。
普段は明るい彼女を少しでも安心させたくて、ベルマリーへ鏡越しに笑みを向けた。
「なんでもないわ」
微笑みを保ったまま、私は鏡に映る自分の姿を見つめた。
胸まで伸びた髪は癖が強いため、梳かしてもらっても巻いたようにうねっているが、だいぶ落ち着いている。わずかな風でさらりとなびくラッドレン殿下の髪と違って手入れが大変だけれど、ベルマリーのおかげで絡むことはないだろう。
「髪を梳かしてくれてありがとう、ベルマリー。ボサボサな髪だったのに別人のようだわ」
「可愛らしいミーネ様をさらに可愛くするのが、私の生きがいですから」
髪も瞳もくすんだ亜麻色で地味な私のことを、同い年のベルマリーは頻繁に可愛いと言ってくれる。彼女はお世辞を言わないため、それが本心だと分かるが、その可愛いは王城の庭へ気まぐれに現れるリスやウサギのような小動物を見つけた時の感想と同じ意味合いだろう。
そう思ってしまうのは、小さい頃に幼馴染のネイブルから「ミーネは目が大きくて髪がふわふわだし、リスみたいだ」と言われたせいだろうか。
改めて鏡に映る自分の姿を見つめた。
童顔なのに胸だけは一般的なサイズよりも大きく育ってしまい、幼い顔と成熟した胸で調和がとれておらず、不格好に見えるのがつらい。
心の中でため息を吐くと、私を励ますようなベルマリーの明るい声が聞こえてきた。
「今日は午前中に公務と語学のレッスンがありますが、午後は何もないのでゆっくり過ごせますよ」
「確か午後は、式典への出席とダンスのレッスンがあったはずだけど……」
先週は先生のご都合で休みになったが、今週は特にそのような話はなかったから、通常通りレッスンがあるものだと思っていた。
「タジェロン様が予定を変更してくださいました」
王立学園時代の同級生で、現在は第一宰相補佐を務めているタジェロン様は、王太子と王太子妃のスケジュール管理を任されている。
今日の予定がほとんど入っていないということは、おそらくタジェロン様も私の妊娠の噂を聞いて体調を気遣ってくださったのだろう。
数日前から、私が妊娠しているという噂が王宮内で囁かれ始めた。
だから明後日の夕方、ラッドレン殿下が視察から帰ってきたら、幸せな結婚生活が終わってしまう。
私が子を授かれば、殿下は側室として、本当に愛する人を迎えることができるのだから――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜。音に気づいて、読んでいた本から顔をあげた。
(雷……?)
くつろげるように配慮された心地よい空間でありながら、宮殿としての上品さと重厚感も備えている寝室内に再び音が響く。天蓋付きの大きなベッドの上で、クッションに寄りかかって本を読んでいた私の所まで雷鳴が聞こえてきた。
(アールガード領のあたりは大丈夫かしら……)
本を閉じ、少し離れた窓のほうへ視線を向け、辺境の地にいる愛しい人へ想いを馳せる。
その時だった。
窓とは違う方向から、ガチャ、と扉の開く音が聞こえた。思わず息を呑む。
こんな夜遅くに寝室へ入ってくる人なんていないはず……恐ろしくて振り返ることができない。
「ミーネが妊娠したと聞いたのだが」
なぜか、ここにいるはずのない人の声が聞こえた。いや、この部屋は夫婦の寝室だから、いてもおかしくない人ではある。
でも彼は一度もこの部屋で寝たことがなく、寝る時はいつも隣にある自分の部屋のベッドを使う。それに帰ってくるのは明後日の夕方頃だと聞いていた。
「どういうことかな、ミーネ?」
確かに彼の声のはずなのに、いつもの穏やかな雰囲気とは違う。少し低く、怒気を含んでいるような聞いたことのない声色で怖い。
おそるおそる声のしたほうへ顔を向ける。
夫婦の寝室と王太子殿下の部屋を直接つなぐ扉が開いた所に、その声の持ち主――フレイツファルジュ王国の王太子、ラッドレン殿下が立っていた。
優秀で穏やかな性格の優しい殿下は国民に慕われており、特に若い女性たちからの絶大な人気を誇っている。美を司る天使たちが輝く太陽と澄み切った青い空を素材にして丁寧に作り上げたかのような美しい金髪碧眼の容貌は、王族に相応しく気品のある顔立ちで非の打ち所がない。
政治的手腕だけでなく剣の腕前にも優れ、外見も内面も素晴らしい殿下は、私と結婚した今もなお無意識に周りの令嬢たちを虜にしてしまう。
そんな普段は柔らかな優しい表情の彼が、痛みに耐えるように黒い外套の胸元をギュッと掴み、苦しげに眉根を寄せていた。
「まさか誰かに、無理やり……? ミーネ、相手は分かるか?」
周囲は皆、私のお腹には殿下の子どもがいると思って疑わないけれど、それは違う。
殿下と結婚して一年、私たちは閨を共にしたことがない。結婚初夜の時でさえも。
だから殿下は、自分の子が私のお腹にいないことを知っている。
私たちに身体の関係がないのは仕方のないことだと思う。
この国の王太子である殿下と公爵令嬢の私は、政略で結ばれた仲にすぎない。殿下は私のことを妻として愛せないから、私の身体に触れようとしないのだ。この事態が夫婦にとって危機的な状況だということは、自分でも分かっている。
貴族が十二歳から通う王立学園へ入学する前の年に、殿下と私の婚約が決まった。殿下は学園で一緒だった頃から親切にしてくださり、十八歳で学園を卒業した翌月に結婚したあとも、その優しさは変わらない。殿下のおかげで毎日幸せに過ごせていたため、殿下が心から愛する人について考えが及ぶのに丸一年かかってしまった。
「……ああ、すまない。思い出させるように嫌なことを聞いて。答えなくていい」
彼はそう言うが、思い出すような嫌なことは何もないから、答えることができない。そもそも妊娠に至るような行為をしたこともない。
そんな私の妊娠の噂が、なぜ広がったのか。
話は半月前に遡る。
結婚したあとも手を出されず思い悩んでいた私は、ようやく思い至った。
結婚して三年経っても妻が妊娠しなければ、王家の血を残すために王太子は側室を持つことができる。殿下は愛する人のためにその時を待っているのだ、と。
想いを寄せる女性と結ばれないという我慢を強いられながら、政略結婚の相手である私へ優しくしてくださる殿下に、あと二年も待たせるなんて申し訳ない。
この国では性行為による母体の負担を減らすため、妃に妊娠の兆候がある場合でも特例で側室を持つことが許可されている。フレイツファルジュ王国十四代目ビラヴィッド王の治世に制定されたこの特例は、今も有効だった。
ゆえに、妃の私に妊娠の兆しがあれば、殿下は堂々と愛する人を側室に迎えることができる。
だから私は、殿下がアールガード辺境伯の領地へ視察に行っている半月の間、専属侍女のベルマリーに協力してもらって妊娠したフリを始めた。
みんなが信じてくれるか分からず、側室を持てるとぬか喜びさせたくなくて、殿下には事前に説明をしていない。うまく噂が広まったら、殿下が視察から戻った時に事情を話そうと思っていた。
「俺のほうで調べるよ。ミーネにつらい思いをさせた奴には必ずそれ相応の罰を与えるから、安心して」
学園に通っていた頃から、殿下はいついかなる時も正義感に満ちていた。このままでは私を孕ませた犯人を捜し続けてしまうに違いない。
絶対に捜せないのに。
まさかこんな寝る直前に、殿下とこの話をすることになるとは思わなかったけれど、明後日の夜に話そうと考えていたことだから、少し早くなったに過ぎない。
「ち、違います、殿下。無理やりではありません!」
私がそう言うと、殿下の眉が片方ほんのかすかにピク、と動いたような気がした。
「無理やり、では、ない……?」
後ろ手に扉を閉めた殿下の様子に、違和感を覚える。
いつもの爽やかな雰囲気ではなく、黒いオーラをまとっているように見えるのは気のせいだろうか。
「ではミーネ、お腹の子は誰の子だ?」
外套と上着を脱ぎ捨て、首に結んでいた亜麻色のスカーフを片手で緩めながら、殿下が私のいるベッドのほうへ近づいてきた。
先ほどまでは聞こえなかった雨音が聞こえてくる。
いつの間にか、雷鳴だけではなく、窓を打つ雨の音も激しくなっていた。
「相手は誰なんだ、ミーネ」
「言え、ません……」
相手なんていない、存在しない人の名は言えない。
「そいつを庇うのか?」
ギシ、と音を立てて殿下がベッドに膝をのせた。突然のことに驚いて、私は持っていた本を落としてしまった。
獣のように獰猛な視線を向けながらベッドへ上がってきた殿下が、すぐそこにいる。
夫婦だからひとつのベッドにふたりでいるのは普通のことかもしれない。だけど私たち夫婦にとっては、初めての出来事。
殿下の指先が、ブランケットの上から私のつま先に触れた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げなきゃ、と思った。
どうしてかは分からないけど、本能が危険だと知らせてくる。
ベッドから降りようと身を翻すと、殿下に後ろから抱きしめられた。
夜会でダンスを踊る時などに、お互いの距離がゆっくりと正面から近づいて触れ合ったことは今までに何度もある。でもこんな風に、背後から抱きしめられて殿下の体温を背中に感じたのは初めてで、どうすればいいのか分からない。何か言おうと口を開いても言葉が見つからなかった。
「随分とその男に惚れているんだな」
いつもより低い声でそう告げた殿下がベッドの中央で腰をおろす。鍛え上げた逞しい腕に捕らえられている私は、彼の脚の間に閉じこめられてしまった。
後ろから抱きしめられたままだから背中がとても熱い。それに心臓が大きな音を立て始めた。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに息ができない。自分の身体なのにどうすることもできずに困惑している私の耳元で、殿下は息を吹きこむようにして、そっと囁いた。
「……ミーネ」
いきなり与えられた甘い声の刺激に驚いて、反射的にヒュッと息を吸う。すると柑橘系の爽やかな匂いがふわりと鼻をくすぐった。
これは王室御用達のフォトウェル商会で扱う品の中から、殿下と一緒に選んだ香水の香りだ。私の香水よりも甘さを抑えているけれど、ベースは私と同じものを使っている。
お揃いだね、と殿下に甘い微笑みを向けられて胸が切なくなった日のことを不意に思い出した。
これ以上こうしていたら殿下のことばかり考えて、好きだという気持ちが言葉になってあふれ出てしまいそう。そんな私の身勝手な想いをさらけ出したら殿下を困らせてしまう。
「で、殿下、放してくださいっ」
殿下の息にくすぐられている右耳から意識を逸らすために視線を左へ向けると、寝室に飾られたアマリリスの鉢植えが見えた。いつも美しい姿で目を楽しませてくれる赤い花が、なぜか今は滲んで見える。漏れないように抑えている想いが、なんとしても外へ出たいと涙になり、私の瞳を潤ませているように思えた。
「俺にこうされるのは嫌? 前にネイブルにはさせていたのに……そうか、相手はネイブル?」
前に、ネイブルにはさせていた……?
もしかしたら殿下は、護身術を習っていた時のことを言っているのだろうか。
殿下と同い年で十一歳の時に婚約が決まった私は、いざという時に自分が盾となって殿下を守ることができるようになりたくて、騎士団長の息子で幼馴染のネイブルに護身術を習ったことがある。
貴族が十二歳から通う王立学園へ入学してすぐの頃、たった一度だけ。
偶然その場を通りかかった殿下に、「いざという時は婚約者の俺がミーネを守る。ネイブルが教える必要はない」と言われた。殿下は責任感が強いから、何かあったら自分が婚約者を守らなければならないと思ったのだろう。その言葉に甘えてしまうのは心苦しかったけれど、それ以降、私はネイブルに護身術を習っていない。
そしてその日から、殿下は騎士団の訓練へ参加するようになり、学園を卒業する十八歳になる頃には、将来の騎士団長候補と噂されているネイブルに引けを取らないくらいの腕前になっていた。共に鍛錬に励んでいた殿下とネイブルは、今も良きライバルで親友でもある。
殿下にとって大切な友人のネイブルが王太子妃に手を出したなんて思われたら、殿下にもネイブルにも申し訳ない。
「それは違……ん」
違います、と否定しようとしたのに、クイッと顔の向きが変わり、殿下の唇に口を塞がれていた。
「ん……」
殿下とキスをしたのは、これが二度目。
一度目は結婚式の時で、それ以来ずっとキスなんてしていない。
結婚式の時は向かい合わせに立った殿下がそっと私の肩に触れ、唇同士がチュッと軽く重なるだけの口づけだった。
幸せすぎてドキドキしたから長く感じたけど、実際にはほんの一瞬の出来事だったはず。
でも今しているキスは、違う。
殿下に後ろから抱きしめられ、私は殿下のほうへ顔を向かされて唇を奪われている。
お互いの口が触れてから、どのくらい時間が過ぎているのか分からない。唇の感触を教えこまれるように長いキスが続き、脳へ次々と刺激的な情報が届けられるのを、何も理解できないまま混乱した。
空気を求めて顔を動かそうとしたが、私の後頭部に殿下の手が回り、動きを封じられてしまう。
頭の中が蕩けそうなくらい熱く、口はずっと塞がれたままで苦しい。
息ができなくて、もう、限界……。そう思った時に、ようやく殿下の唇が離れた。
ぷはっ、と息をして新鮮な空気を取りこむ。翻弄されて他へ注意を払う余裕がなかったせいか、窓を叩いていた雨音が今は聞こえなくなっていた。
「ミーネ……」
私の左頬を優しく撫でながら、殿下が切なそうに眉根を寄せている。愁いを帯びた殿下の表情は心をかき乱すくらい猛烈な色気を醸し出していて、私は返事もできずに見入ってしまった。
「本当は、幼馴染のネイブルと結婚したかったのか?」
「そ、ん……」
そんなことはありません、と言おうとした私の唇に殿下の右手が触れて、告げようとしていた言葉をとっさに呑みこむ。何も言えなくなった私へ向けられた殿下の声は、心なしか少し掠れていた。
「その返事は、今は聞きたくない。だが今後のために、ふたりでいる時のネイブルがどんな感じでミーネに接していたのか教えてくれ。俺が知らなくてミーネだけが知っているネイブルの一面があるだろう?」
どんな、感じ……?
幼馴染だったネイブルと、小さな頃はよく一緒に遊んでたびたび喧嘩もした。室内で私が遊びたい時も、外で遊ぼうと強引に連れ回されることが多かったと思う。
さすがに大きくなってからは一緒に遊ぶこともなくなり、喧嘩なんて一度もしていないけれど、小さな頃の印象は強く記憶に残っている。
「正直に答えて、ミーネ」
「……ネイブルは……少し強引なところがありました……」
「ふぅん……少し強引な、ね……」
私の左頬を撫でながら殿下がにっこりと微笑んだ。見惚れてしまうくらい麗しい笑顔だけど、なぜか笑っているように見えない。
「では俺も、そんな男になろうか」
左頬から離れた手で後頭部を支えるのと同時に与えられた殿下の唇の感触に、思わず目を瞑る。まさか今日だけで、二回もキスをすることになるなんて思わなかった。
「んッ!」
口内にヌルリと侵入してきた存在に驚愕して、反射的に目を見開く。
すると目の前に瞼を閉じた殿下の長い睫毛があった。その近さに心臓が飛び出そうになり、慌てて目を閉じる。
「んン!?」
湿っていて生温かい不思議な感触が私の舌に絡まってきた。口の中で舌を擦られているけれど、触れられていないはずの背中が、柔らかな羽根で撫でられているみたいにくすぐったい。
「……むぅ……ん……んンッ」
舌を吸われた途端、身体の内側に手を入れられて背骨までくすぐられたのかと思うくらいゾクゾクした。寒くないのに震えが止まらない。
未知の感覚ばかりで不安になり、おそるおそる瞼を開けてみたら殿下と目が合った。口づけをしているのだと改めて自覚し、私を甘く刺激し続けているのは殿下の舌だったと気づく。
瞳しか見えなくても、殿下がわずかに目を細めて嬉しそうに微笑んだのが分かった。人を魅了する笑みを至近距離で向けられて、危険を感じた私はすぐに目を瞑る。蠱惑的すぎる刺激に耐えきれず、心臓が壊れてしまいそうで怖かった。
でも目を閉じたのは失敗だったかもしれない。口内を這う殿下の舌の動きを、余すところなく感じとってしまったから。
(キスって、こんなに、すごいものなの……?)
口から遠いはずの下腹部が、なぜかズクリと疼く。その感覚に戸惑い、逃れたいと身体を動かすと、放さないと言わんばかりに強く抱きしめられた。より深く挿しこまれた殿下の舌先が舌の根元を擦ったかと思えば、舌を何度も絡めてきて解放してもらえない。時間をかけて私の舌を存分に舐ると満足したのか、殿下の舌はようやく遠ざかっていった。
「ミーネはこんな風に強引にされるのが好きなのか、ネイブルがするみたいに」
「ネイブルと……キスなんて、したこと……ありません……」
激しく動いたわけではないのに身体が熱くて呼吸も乱れている。正しく息をするにはどうすればよいのか分からず、浅い呼吸しかできない。
「……では今ミーネが付き合っている男は、いったい誰なんだ?」
私を見つめたまま殿下は眉根をグッと寄せ、「教えてくれ」と低い声で呟いた。
「っ、いない、です……」
「いない……? そうか……今はもう、いない……」
殿下の大きな手がゆっくりと私の頭に触れ、慈しむように撫で始めた。
そんな風にされたら、厳しい王太子妃教育がつらくて落ちこんでいた時に、殿下が私の頭を優しく撫でながら慰めてくれた日のことを思い出してしまう。涙が出そうになり、鼻の奥がツンと痛くなった。
「ミーネは……子どもを産みたいと思っているのか?」
「……産みたい、です」
殿下との子ども……いつか授かることができるのならば、もちろん産みたい。
「それなら……ミーネと子どもは俺が全力で守るから……産まれてくる子は俺たちの子として育てさせてくれ」
意外な言葉に驚いて目を大きく見開いてしまった。
殿下は私のお腹にそっと手のひらをあてている。そして落ち着いた声で私に告げた。
「別れたあとも心を奪われたままで、その男の子どもを産みたいと思っているんだろう? でも、お腹の子に罪はないから」
その言葉を聞いて、殿下が第三宰相のキラエイ公爵を諫めていた時のことを思い出す。
あの時、宰相会議でキラエイ公爵は、罪を犯して収監されている親から生まれた子どもが多く暮らしている孤児院への寄付を減らすように主張し、それに対して殿下は子どもたちに罪はないから寄付を減らす必要はないと述べていた。
キラエイ公爵は平民への教育予算なんて不要だとたびたび訴えている。それに対して第二宰相のケンバート公爵――私の父は、貴族の子どもが通う学園と同じくらい平民の子どもが教育を受けるための学び舎が大切だと考えていて、キラエイ公爵とは意見が対立することが多かった。
昔は平民の子どもが学べる場所はなかったらしい。教育関連部門の統括を第二宰相の父が担当するようになり、身分にかかわらず教育の門戸が開かれるように改革したのだと第一宰相のチェスター公爵……タジェロン様のお父様から聞いている。
一年前に『ある事件』が起こり、父が教育関連部門の役職を外れてからは、キラエイ公爵を支持する者が増えて少し状況が変わってきてしまったけれど……
私の父と同じように、殿下は今も変わらず身分に関係なく教育を受けられることの大切さを日頃から提言している。そんな殿下は、私の子にも平等に教育の機会を与え、もしその子に才があれば適した道へ進めるように力を尽くすに違いない。
「ミーネと子どもが好奇の目で見られないように、生まれてくる子が相手ではなくミーネに似ていてくれるといいのだが……」
「……お腹に子どもは、いません……」
私の言葉を聞いた殿下が、小さく息を呑んだ。
「お腹に子はいない……?」
「……はい……」
殿下は私のお腹のほうへ、ゆっくりと視線を落としていく。
「そうか……」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「妊娠が残念なことになったのだから、身体だけでなく心もつらかっただろう。そんな時に一緒にいられなくて、すまなかった」
殿下はお腹に子どもがいないのは私が流産したからだと考えたようで、何よりもまず真っ先に私のことを気遣ってくれた。罪悪感で胸が痛い。
「ち、違います、殿下。最初から、お腹に子どもはいません」
「最初、から……?」
私の肩に手を置いた殿下が訝しむような表情をしている。
後ろめたくて殿下の視線から逃れるように顔を背けると、再びアマリリスの鉢植えが視界に入った。良心の呵責に苛まれているせいか、まっすぐに伸びた茎の先端で貴婦人みたいに凛と咲く立派な赤い花から、ありのままに告げなさいと言われているように思えてくる。
「私は……妊娠するための行為をしたことがありませんので……」
「したことが……ない……」
ゴクリ、と殿下の喉が鳴ったような気がした。
そっと顎に手を添えられ、上を向かされる。
どういうことだ、と問い詰めるような視線で、殿下の青い瞳にじっと見つめられた。
「では妊娠したという話は、どこから……?」
「妊娠したフリを……しました……」
私の言葉を聞いた殿下が怪訝そうに私の顔を覗きこむ。
それなのに私は未練がましく、今日も夫の瞳と同じ青色のドレスを身にまとってしまった。
鏡に映る私の胸元は、美しい金のネックレスで彩られている。中央で大粒のブルーサファイアが光るこのネックレスは、一年前に結婚した夫、ラッドレン王太子殿下が、私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
(殿下がアールガード辺境伯の領地へ発ってから、もう半月が過ぎたのね……)
愛しい人に会えない寂しさで気分が沈む。ドレッサーチェアに座ったままほんの少しだけ目線を下げると、私の髪を梳かしていた侍女のベルマリーの手が止まった。
「いかがなさいましたか、ミーネ様」
気遣うような声が聞こえてきて視線を正面へ戻すと、私の後ろで櫛を手にして立つベルマリーが鏡越しに心配そうな表情でこちらを見ていた。
色白な私と違って健康的な肌の色のベルマリーは、王太子妃の専属侍女として動きやすいように軽めの素材で作ったダークグリーンのドレスを着ていて、オレンジ色の髪をふたつに分けてきっちりと編みこんでいる。
普段は明るい彼女を少しでも安心させたくて、ベルマリーへ鏡越しに笑みを向けた。
「なんでもないわ」
微笑みを保ったまま、私は鏡に映る自分の姿を見つめた。
胸まで伸びた髪は癖が強いため、梳かしてもらっても巻いたようにうねっているが、だいぶ落ち着いている。わずかな風でさらりとなびくラッドレン殿下の髪と違って手入れが大変だけれど、ベルマリーのおかげで絡むことはないだろう。
「髪を梳かしてくれてありがとう、ベルマリー。ボサボサな髪だったのに別人のようだわ」
「可愛らしいミーネ様をさらに可愛くするのが、私の生きがいですから」
髪も瞳もくすんだ亜麻色で地味な私のことを、同い年のベルマリーは頻繁に可愛いと言ってくれる。彼女はお世辞を言わないため、それが本心だと分かるが、その可愛いは王城の庭へ気まぐれに現れるリスやウサギのような小動物を見つけた時の感想と同じ意味合いだろう。
そう思ってしまうのは、小さい頃に幼馴染のネイブルから「ミーネは目が大きくて髪がふわふわだし、リスみたいだ」と言われたせいだろうか。
改めて鏡に映る自分の姿を見つめた。
童顔なのに胸だけは一般的なサイズよりも大きく育ってしまい、幼い顔と成熟した胸で調和がとれておらず、不格好に見えるのがつらい。
心の中でため息を吐くと、私を励ますようなベルマリーの明るい声が聞こえてきた。
「今日は午前中に公務と語学のレッスンがありますが、午後は何もないのでゆっくり過ごせますよ」
「確か午後は、式典への出席とダンスのレッスンがあったはずだけど……」
先週は先生のご都合で休みになったが、今週は特にそのような話はなかったから、通常通りレッスンがあるものだと思っていた。
「タジェロン様が予定を変更してくださいました」
王立学園時代の同級生で、現在は第一宰相補佐を務めているタジェロン様は、王太子と王太子妃のスケジュール管理を任されている。
今日の予定がほとんど入っていないということは、おそらくタジェロン様も私の妊娠の噂を聞いて体調を気遣ってくださったのだろう。
数日前から、私が妊娠しているという噂が王宮内で囁かれ始めた。
だから明後日の夕方、ラッドレン殿下が視察から帰ってきたら、幸せな結婚生活が終わってしまう。
私が子を授かれば、殿下は側室として、本当に愛する人を迎えることができるのだから――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜。音に気づいて、読んでいた本から顔をあげた。
(雷……?)
くつろげるように配慮された心地よい空間でありながら、宮殿としての上品さと重厚感も備えている寝室内に再び音が響く。天蓋付きの大きなベッドの上で、クッションに寄りかかって本を読んでいた私の所まで雷鳴が聞こえてきた。
(アールガード領のあたりは大丈夫かしら……)
本を閉じ、少し離れた窓のほうへ視線を向け、辺境の地にいる愛しい人へ想いを馳せる。
その時だった。
窓とは違う方向から、ガチャ、と扉の開く音が聞こえた。思わず息を呑む。
こんな夜遅くに寝室へ入ってくる人なんていないはず……恐ろしくて振り返ることができない。
「ミーネが妊娠したと聞いたのだが」
なぜか、ここにいるはずのない人の声が聞こえた。いや、この部屋は夫婦の寝室だから、いてもおかしくない人ではある。
でも彼は一度もこの部屋で寝たことがなく、寝る時はいつも隣にある自分の部屋のベッドを使う。それに帰ってくるのは明後日の夕方頃だと聞いていた。
「どういうことかな、ミーネ?」
確かに彼の声のはずなのに、いつもの穏やかな雰囲気とは違う。少し低く、怒気を含んでいるような聞いたことのない声色で怖い。
おそるおそる声のしたほうへ顔を向ける。
夫婦の寝室と王太子殿下の部屋を直接つなぐ扉が開いた所に、その声の持ち主――フレイツファルジュ王国の王太子、ラッドレン殿下が立っていた。
優秀で穏やかな性格の優しい殿下は国民に慕われており、特に若い女性たちからの絶大な人気を誇っている。美を司る天使たちが輝く太陽と澄み切った青い空を素材にして丁寧に作り上げたかのような美しい金髪碧眼の容貌は、王族に相応しく気品のある顔立ちで非の打ち所がない。
政治的手腕だけでなく剣の腕前にも優れ、外見も内面も素晴らしい殿下は、私と結婚した今もなお無意識に周りの令嬢たちを虜にしてしまう。
そんな普段は柔らかな優しい表情の彼が、痛みに耐えるように黒い外套の胸元をギュッと掴み、苦しげに眉根を寄せていた。
「まさか誰かに、無理やり……? ミーネ、相手は分かるか?」
周囲は皆、私のお腹には殿下の子どもがいると思って疑わないけれど、それは違う。
殿下と結婚して一年、私たちは閨を共にしたことがない。結婚初夜の時でさえも。
だから殿下は、自分の子が私のお腹にいないことを知っている。
私たちに身体の関係がないのは仕方のないことだと思う。
この国の王太子である殿下と公爵令嬢の私は、政略で結ばれた仲にすぎない。殿下は私のことを妻として愛せないから、私の身体に触れようとしないのだ。この事態が夫婦にとって危機的な状況だということは、自分でも分かっている。
貴族が十二歳から通う王立学園へ入学する前の年に、殿下と私の婚約が決まった。殿下は学園で一緒だった頃から親切にしてくださり、十八歳で学園を卒業した翌月に結婚したあとも、その優しさは変わらない。殿下のおかげで毎日幸せに過ごせていたため、殿下が心から愛する人について考えが及ぶのに丸一年かかってしまった。
「……ああ、すまない。思い出させるように嫌なことを聞いて。答えなくていい」
彼はそう言うが、思い出すような嫌なことは何もないから、答えることができない。そもそも妊娠に至るような行為をしたこともない。
そんな私の妊娠の噂が、なぜ広がったのか。
話は半月前に遡る。
結婚したあとも手を出されず思い悩んでいた私は、ようやく思い至った。
結婚して三年経っても妻が妊娠しなければ、王家の血を残すために王太子は側室を持つことができる。殿下は愛する人のためにその時を待っているのだ、と。
想いを寄せる女性と結ばれないという我慢を強いられながら、政略結婚の相手である私へ優しくしてくださる殿下に、あと二年も待たせるなんて申し訳ない。
この国では性行為による母体の負担を減らすため、妃に妊娠の兆候がある場合でも特例で側室を持つことが許可されている。フレイツファルジュ王国十四代目ビラヴィッド王の治世に制定されたこの特例は、今も有効だった。
ゆえに、妃の私に妊娠の兆しがあれば、殿下は堂々と愛する人を側室に迎えることができる。
だから私は、殿下がアールガード辺境伯の領地へ視察に行っている半月の間、専属侍女のベルマリーに協力してもらって妊娠したフリを始めた。
みんなが信じてくれるか分からず、側室を持てるとぬか喜びさせたくなくて、殿下には事前に説明をしていない。うまく噂が広まったら、殿下が視察から戻った時に事情を話そうと思っていた。
「俺のほうで調べるよ。ミーネにつらい思いをさせた奴には必ずそれ相応の罰を与えるから、安心して」
学園に通っていた頃から、殿下はいついかなる時も正義感に満ちていた。このままでは私を孕ませた犯人を捜し続けてしまうに違いない。
絶対に捜せないのに。
まさかこんな寝る直前に、殿下とこの話をすることになるとは思わなかったけれど、明後日の夜に話そうと考えていたことだから、少し早くなったに過ぎない。
「ち、違います、殿下。無理やりではありません!」
私がそう言うと、殿下の眉が片方ほんのかすかにピク、と動いたような気がした。
「無理やり、では、ない……?」
後ろ手に扉を閉めた殿下の様子に、違和感を覚える。
いつもの爽やかな雰囲気ではなく、黒いオーラをまとっているように見えるのは気のせいだろうか。
「ではミーネ、お腹の子は誰の子だ?」
外套と上着を脱ぎ捨て、首に結んでいた亜麻色のスカーフを片手で緩めながら、殿下が私のいるベッドのほうへ近づいてきた。
先ほどまでは聞こえなかった雨音が聞こえてくる。
いつの間にか、雷鳴だけではなく、窓を打つ雨の音も激しくなっていた。
「相手は誰なんだ、ミーネ」
「言え、ません……」
相手なんていない、存在しない人の名は言えない。
「そいつを庇うのか?」
ギシ、と音を立てて殿下がベッドに膝をのせた。突然のことに驚いて、私は持っていた本を落としてしまった。
獣のように獰猛な視線を向けながらベッドへ上がってきた殿下が、すぐそこにいる。
夫婦だからひとつのベッドにふたりでいるのは普通のことかもしれない。だけど私たち夫婦にとっては、初めての出来事。
殿下の指先が、ブランケットの上から私のつま先に触れた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げなきゃ、と思った。
どうしてかは分からないけど、本能が危険だと知らせてくる。
ベッドから降りようと身を翻すと、殿下に後ろから抱きしめられた。
夜会でダンスを踊る時などに、お互いの距離がゆっくりと正面から近づいて触れ合ったことは今までに何度もある。でもこんな風に、背後から抱きしめられて殿下の体温を背中に感じたのは初めてで、どうすればいいのか分からない。何か言おうと口を開いても言葉が見つからなかった。
「随分とその男に惚れているんだな」
いつもより低い声でそう告げた殿下がベッドの中央で腰をおろす。鍛え上げた逞しい腕に捕らえられている私は、彼の脚の間に閉じこめられてしまった。
後ろから抱きしめられたままだから背中がとても熱い。それに心臓が大きな音を立て始めた。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに息ができない。自分の身体なのにどうすることもできずに困惑している私の耳元で、殿下は息を吹きこむようにして、そっと囁いた。
「……ミーネ」
いきなり与えられた甘い声の刺激に驚いて、反射的にヒュッと息を吸う。すると柑橘系の爽やかな匂いがふわりと鼻をくすぐった。
これは王室御用達のフォトウェル商会で扱う品の中から、殿下と一緒に選んだ香水の香りだ。私の香水よりも甘さを抑えているけれど、ベースは私と同じものを使っている。
お揃いだね、と殿下に甘い微笑みを向けられて胸が切なくなった日のことを不意に思い出した。
これ以上こうしていたら殿下のことばかり考えて、好きだという気持ちが言葉になってあふれ出てしまいそう。そんな私の身勝手な想いをさらけ出したら殿下を困らせてしまう。
「で、殿下、放してくださいっ」
殿下の息にくすぐられている右耳から意識を逸らすために視線を左へ向けると、寝室に飾られたアマリリスの鉢植えが見えた。いつも美しい姿で目を楽しませてくれる赤い花が、なぜか今は滲んで見える。漏れないように抑えている想いが、なんとしても外へ出たいと涙になり、私の瞳を潤ませているように思えた。
「俺にこうされるのは嫌? 前にネイブルにはさせていたのに……そうか、相手はネイブル?」
前に、ネイブルにはさせていた……?
もしかしたら殿下は、護身術を習っていた時のことを言っているのだろうか。
殿下と同い年で十一歳の時に婚約が決まった私は、いざという時に自分が盾となって殿下を守ることができるようになりたくて、騎士団長の息子で幼馴染のネイブルに護身術を習ったことがある。
貴族が十二歳から通う王立学園へ入学してすぐの頃、たった一度だけ。
偶然その場を通りかかった殿下に、「いざという時は婚約者の俺がミーネを守る。ネイブルが教える必要はない」と言われた。殿下は責任感が強いから、何かあったら自分が婚約者を守らなければならないと思ったのだろう。その言葉に甘えてしまうのは心苦しかったけれど、それ以降、私はネイブルに護身術を習っていない。
そしてその日から、殿下は騎士団の訓練へ参加するようになり、学園を卒業する十八歳になる頃には、将来の騎士団長候補と噂されているネイブルに引けを取らないくらいの腕前になっていた。共に鍛錬に励んでいた殿下とネイブルは、今も良きライバルで親友でもある。
殿下にとって大切な友人のネイブルが王太子妃に手を出したなんて思われたら、殿下にもネイブルにも申し訳ない。
「それは違……ん」
違います、と否定しようとしたのに、クイッと顔の向きが変わり、殿下の唇に口を塞がれていた。
「ん……」
殿下とキスをしたのは、これが二度目。
一度目は結婚式の時で、それ以来ずっとキスなんてしていない。
結婚式の時は向かい合わせに立った殿下がそっと私の肩に触れ、唇同士がチュッと軽く重なるだけの口づけだった。
幸せすぎてドキドキしたから長く感じたけど、実際にはほんの一瞬の出来事だったはず。
でも今しているキスは、違う。
殿下に後ろから抱きしめられ、私は殿下のほうへ顔を向かされて唇を奪われている。
お互いの口が触れてから、どのくらい時間が過ぎているのか分からない。唇の感触を教えこまれるように長いキスが続き、脳へ次々と刺激的な情報が届けられるのを、何も理解できないまま混乱した。
空気を求めて顔を動かそうとしたが、私の後頭部に殿下の手が回り、動きを封じられてしまう。
頭の中が蕩けそうなくらい熱く、口はずっと塞がれたままで苦しい。
息ができなくて、もう、限界……。そう思った時に、ようやく殿下の唇が離れた。
ぷはっ、と息をして新鮮な空気を取りこむ。翻弄されて他へ注意を払う余裕がなかったせいか、窓を叩いていた雨音が今は聞こえなくなっていた。
「ミーネ……」
私の左頬を優しく撫でながら、殿下が切なそうに眉根を寄せている。愁いを帯びた殿下の表情は心をかき乱すくらい猛烈な色気を醸し出していて、私は返事もできずに見入ってしまった。
「本当は、幼馴染のネイブルと結婚したかったのか?」
「そ、ん……」
そんなことはありません、と言おうとした私の唇に殿下の右手が触れて、告げようとしていた言葉をとっさに呑みこむ。何も言えなくなった私へ向けられた殿下の声は、心なしか少し掠れていた。
「その返事は、今は聞きたくない。だが今後のために、ふたりでいる時のネイブルがどんな感じでミーネに接していたのか教えてくれ。俺が知らなくてミーネだけが知っているネイブルの一面があるだろう?」
どんな、感じ……?
幼馴染だったネイブルと、小さな頃はよく一緒に遊んでたびたび喧嘩もした。室内で私が遊びたい時も、外で遊ぼうと強引に連れ回されることが多かったと思う。
さすがに大きくなってからは一緒に遊ぶこともなくなり、喧嘩なんて一度もしていないけれど、小さな頃の印象は強く記憶に残っている。
「正直に答えて、ミーネ」
「……ネイブルは……少し強引なところがありました……」
「ふぅん……少し強引な、ね……」
私の左頬を撫でながら殿下がにっこりと微笑んだ。見惚れてしまうくらい麗しい笑顔だけど、なぜか笑っているように見えない。
「では俺も、そんな男になろうか」
左頬から離れた手で後頭部を支えるのと同時に与えられた殿下の唇の感触に、思わず目を瞑る。まさか今日だけで、二回もキスをすることになるなんて思わなかった。
「んッ!」
口内にヌルリと侵入してきた存在に驚愕して、反射的に目を見開く。
すると目の前に瞼を閉じた殿下の長い睫毛があった。その近さに心臓が飛び出そうになり、慌てて目を閉じる。
「んン!?」
湿っていて生温かい不思議な感触が私の舌に絡まってきた。口の中で舌を擦られているけれど、触れられていないはずの背中が、柔らかな羽根で撫でられているみたいにくすぐったい。
「……むぅ……ん……んンッ」
舌を吸われた途端、身体の内側に手を入れられて背骨までくすぐられたのかと思うくらいゾクゾクした。寒くないのに震えが止まらない。
未知の感覚ばかりで不安になり、おそるおそる瞼を開けてみたら殿下と目が合った。口づけをしているのだと改めて自覚し、私を甘く刺激し続けているのは殿下の舌だったと気づく。
瞳しか見えなくても、殿下がわずかに目を細めて嬉しそうに微笑んだのが分かった。人を魅了する笑みを至近距離で向けられて、危険を感じた私はすぐに目を瞑る。蠱惑的すぎる刺激に耐えきれず、心臓が壊れてしまいそうで怖かった。
でも目を閉じたのは失敗だったかもしれない。口内を這う殿下の舌の動きを、余すところなく感じとってしまったから。
(キスって、こんなに、すごいものなの……?)
口から遠いはずの下腹部が、なぜかズクリと疼く。その感覚に戸惑い、逃れたいと身体を動かすと、放さないと言わんばかりに強く抱きしめられた。より深く挿しこまれた殿下の舌先が舌の根元を擦ったかと思えば、舌を何度も絡めてきて解放してもらえない。時間をかけて私の舌を存分に舐ると満足したのか、殿下の舌はようやく遠ざかっていった。
「ミーネはこんな風に強引にされるのが好きなのか、ネイブルがするみたいに」
「ネイブルと……キスなんて、したこと……ありません……」
激しく動いたわけではないのに身体が熱くて呼吸も乱れている。正しく息をするにはどうすればよいのか分からず、浅い呼吸しかできない。
「……では今ミーネが付き合っている男は、いったい誰なんだ?」
私を見つめたまま殿下は眉根をグッと寄せ、「教えてくれ」と低い声で呟いた。
「っ、いない、です……」
「いない……? そうか……今はもう、いない……」
殿下の大きな手がゆっくりと私の頭に触れ、慈しむように撫で始めた。
そんな風にされたら、厳しい王太子妃教育がつらくて落ちこんでいた時に、殿下が私の頭を優しく撫でながら慰めてくれた日のことを思い出してしまう。涙が出そうになり、鼻の奥がツンと痛くなった。
「ミーネは……子どもを産みたいと思っているのか?」
「……産みたい、です」
殿下との子ども……いつか授かることができるのならば、もちろん産みたい。
「それなら……ミーネと子どもは俺が全力で守るから……産まれてくる子は俺たちの子として育てさせてくれ」
意外な言葉に驚いて目を大きく見開いてしまった。
殿下は私のお腹にそっと手のひらをあてている。そして落ち着いた声で私に告げた。
「別れたあとも心を奪われたままで、その男の子どもを産みたいと思っているんだろう? でも、お腹の子に罪はないから」
その言葉を聞いて、殿下が第三宰相のキラエイ公爵を諫めていた時のことを思い出す。
あの時、宰相会議でキラエイ公爵は、罪を犯して収監されている親から生まれた子どもが多く暮らしている孤児院への寄付を減らすように主張し、それに対して殿下は子どもたちに罪はないから寄付を減らす必要はないと述べていた。
キラエイ公爵は平民への教育予算なんて不要だとたびたび訴えている。それに対して第二宰相のケンバート公爵――私の父は、貴族の子どもが通う学園と同じくらい平民の子どもが教育を受けるための学び舎が大切だと考えていて、キラエイ公爵とは意見が対立することが多かった。
昔は平民の子どもが学べる場所はなかったらしい。教育関連部門の統括を第二宰相の父が担当するようになり、身分にかかわらず教育の門戸が開かれるように改革したのだと第一宰相のチェスター公爵……タジェロン様のお父様から聞いている。
一年前に『ある事件』が起こり、父が教育関連部門の役職を外れてからは、キラエイ公爵を支持する者が増えて少し状況が変わってきてしまったけれど……
私の父と同じように、殿下は今も変わらず身分に関係なく教育を受けられることの大切さを日頃から提言している。そんな殿下は、私の子にも平等に教育の機会を与え、もしその子に才があれば適した道へ進めるように力を尽くすに違いない。
「ミーネと子どもが好奇の目で見られないように、生まれてくる子が相手ではなくミーネに似ていてくれるといいのだが……」
「……お腹に子どもは、いません……」
私の言葉を聞いた殿下が、小さく息を呑んだ。
「お腹に子はいない……?」
「……はい……」
殿下は私のお腹のほうへ、ゆっくりと視線を落としていく。
「そうか……」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「妊娠が残念なことになったのだから、身体だけでなく心もつらかっただろう。そんな時に一緒にいられなくて、すまなかった」
殿下はお腹に子どもがいないのは私が流産したからだと考えたようで、何よりもまず真っ先に私のことを気遣ってくれた。罪悪感で胸が痛い。
「ち、違います、殿下。最初から、お腹に子どもはいません」
「最初、から……?」
私の肩に手を置いた殿下が訝しむような表情をしている。
後ろめたくて殿下の視線から逃れるように顔を背けると、再びアマリリスの鉢植えが視界に入った。良心の呵責に苛まれているせいか、まっすぐに伸びた茎の先端で貴婦人みたいに凛と咲く立派な赤い花から、ありのままに告げなさいと言われているように思えてくる。
「私は……妊娠するための行為をしたことがありませんので……」
「したことが……ない……」
ゴクリ、と殿下の喉が鳴ったような気がした。
そっと顎に手を添えられ、上を向かされる。
どういうことだ、と問い詰めるような視線で、殿下の青い瞳にじっと見つめられた。
「では妊娠したという話は、どこから……?」
「妊娠したフリを……しました……」
私の言葉を聞いた殿下が怪訝そうに私の顔を覗きこむ。
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