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14 強欲の猫
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「も……もう、充分です、ので」
「まだ片腕しか治っておらぬぞ。これでは沐浴の時にしみて辛かろうに」
「もう慣れております。それより……あの泉についてお伺いしたいのです」
じっと目を見て伝えれば、不服そうな顔をしつつも宇辰様は腕を離してくれた。
再び歩きだすとあの牌坊に至る。
昨夜と変わらない風景のはずだが、太陽のもとで見ると、異様な恐ろしさは和らいでいた。
「これは結界。迷い込んだ者はここで弾かれる」
手を引かれてくぐる。
昨日、翠花の息遣いを感じていた背中には何の気配もない。
代わりに、眼前に皇帝陛下という案内人。
一晩で境遇がぐるりと変わってしまった。
しばらく進むと草むらが一瞬きらめいた。
「あっ!」
「どうした」
「すみません、あの、道を外れることをお許しください!」
私の慌てっぷりに宇辰様もあてられたらしく、言葉少なに許してくれた。
裳の裾をつまんで駆け寄る。
草むらに落ちていたのは、大きな玉が嵌め込まれた櫛だった。
「香麗様の!」
跳ねる兎の意匠も見て取れる。
話に聞いた通りの櫛だった。
翠花の話では失せ物こそが私を困らせるための嘘だったようだが、少なくともここに櫛はある。
丸ごと嘘でもないようだ。とりあえず手巾に包んで懐にしまって歩き出す。
「もう、よいのか」
「はい。お手数をおかけしました」
ふたつめの牌坊に至る。やはりこちらにも文字が彫られていたのだと気づいた。
昨夜は暗くて字のことにすら気づけなかったのだ。
私が目を凝らしていると、宇辰様はその文字を宙でなぞるようにした。
「ここにはいにしえの詞が封じられている。それを口にするのは憚られるので言えぬが……月を尊べ、月の加護の下で我が国の繁栄あり、とでも解釈すると良い」
そう説明を受けて進んだ先には──あの泉がある。
それを目の当たりにした途端、あの猫の鳴き声が頭に響いてきた。
みゃあお。
吸い込まれそうな声。
咄嗟に耳を塞いで宇辰様の背中に身を隠す。
すると力強い腕に抱きかかえられ、隣へと立たされた。
「今は私がここにいる。あの猫の思うままにはされぬ。安心しなさい」
「は、はい」
鳴き声がするたび、金色の目が映った水面が波打つ。
時折跳ねる飛沫がこちらを招いているようで、しっかりと腕に掴まっていなければ今にも泉の底に呼び込まれてしまいそうだ。
「ここは月の加護そのものを象徴する聖域。この場に後宮を建てたのは、下手に神殿を造って猫に察知されるのを避けた先人の知恵だそうだ。太陽は男、月は女。後宮に住まう数多の女人にも祀らせる意図があったのだろうな」
「だから……宇辰様は毎夜後宮にお通いに?」
「ああ。事が起きるとしたら夜だ。帝が通うのだから何もおかしなことはあるまい?」
宇辰様はふと言葉を切って顎を擦る。
「もしや、我が毎夜通う噂を聞いて、なにゆえ自分の元に参らなんだと悩んでいたか?」
「い、いいえ!そんな滅相もない!! もとより数ならぬこの身、陛下のお目に留まるとはちいとも思っておりませんゆえ!」
ぶんぶんとちぎれんばかりに首を左右に振る。
ついでに腕も振って否定すればするほど、宇辰様は何やらにまにまと意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「安心せよ。月狂い色狂いと称されているようだが、色狂いの方は外れだ」
「月狂いは認めるのですね……」
乾いた笑みで流せば宇辰様も軽く頷く。
この方、ご自分の評価に対して頓着が無さすぎるのではないだろうか。
じとりと見上げれば、ゆるく笑っていた表情が引き締まる。
「今までの話で察しているだろうが、私の即位から日を置かずして猫がこの泉を突き止め、再び地上に降り立った。それが月蝕の原因だ。以来、ああして妙薬を誰にも渡さぬと固執している」
「それでは、月は」
はっと空を見上げる。
「もちろん、月そのものが落ちてきたわけではない。ただ、元より光の源を失った抜け殻だ。皮肉なことに、あの猫自体が妙薬を取り込み過ぎて月と一体化している。それが地上に降りたことで、空から月が失われて見える訳だ」
改めて気を引き締め泉を覗き見る。
にわかには信じ難いことばかりだが、こうして目の当たりにしてしまえば信じざるを得ない。
「まだ腑に落ちぬか」
「いいえ、そんなことは」
「そうだな……そなたの耳は持ち主から分かたれたモノの声を聞くことだろう。ならばこう考えてみると良い」
──空から奪われた月の声を聞いた月鈴よ。月を掬い、空に戻すのが護り兎の役目だ。
「そなたが後宮で失せ物探しに励んでいたのは、ある意味で予行演習だったのかもしれぬな」
そう結ばれて、空いた口が塞がらない。
私の耳は、とんでもないものを聞いてしまったようだった。
「まだ片腕しか治っておらぬぞ。これでは沐浴の時にしみて辛かろうに」
「もう慣れております。それより……あの泉についてお伺いしたいのです」
じっと目を見て伝えれば、不服そうな顔をしつつも宇辰様は腕を離してくれた。
再び歩きだすとあの牌坊に至る。
昨夜と変わらない風景のはずだが、太陽のもとで見ると、異様な恐ろしさは和らいでいた。
「これは結界。迷い込んだ者はここで弾かれる」
手を引かれてくぐる。
昨日、翠花の息遣いを感じていた背中には何の気配もない。
代わりに、眼前に皇帝陛下という案内人。
一晩で境遇がぐるりと変わってしまった。
しばらく進むと草むらが一瞬きらめいた。
「あっ!」
「どうした」
「すみません、あの、道を外れることをお許しください!」
私の慌てっぷりに宇辰様もあてられたらしく、言葉少なに許してくれた。
裳の裾をつまんで駆け寄る。
草むらに落ちていたのは、大きな玉が嵌め込まれた櫛だった。
「香麗様の!」
跳ねる兎の意匠も見て取れる。
話に聞いた通りの櫛だった。
翠花の話では失せ物こそが私を困らせるための嘘だったようだが、少なくともここに櫛はある。
丸ごと嘘でもないようだ。とりあえず手巾に包んで懐にしまって歩き出す。
「もう、よいのか」
「はい。お手数をおかけしました」
ふたつめの牌坊に至る。やはりこちらにも文字が彫られていたのだと気づいた。
昨夜は暗くて字のことにすら気づけなかったのだ。
私が目を凝らしていると、宇辰様はその文字を宙でなぞるようにした。
「ここにはいにしえの詞が封じられている。それを口にするのは憚られるので言えぬが……月を尊べ、月の加護の下で我が国の繁栄あり、とでも解釈すると良い」
そう説明を受けて進んだ先には──あの泉がある。
それを目の当たりにした途端、あの猫の鳴き声が頭に響いてきた。
みゃあお。
吸い込まれそうな声。
咄嗟に耳を塞いで宇辰様の背中に身を隠す。
すると力強い腕に抱きかかえられ、隣へと立たされた。
「今は私がここにいる。あの猫の思うままにはされぬ。安心しなさい」
「は、はい」
鳴き声がするたび、金色の目が映った水面が波打つ。
時折跳ねる飛沫がこちらを招いているようで、しっかりと腕に掴まっていなければ今にも泉の底に呼び込まれてしまいそうだ。
「ここは月の加護そのものを象徴する聖域。この場に後宮を建てたのは、下手に神殿を造って猫に察知されるのを避けた先人の知恵だそうだ。太陽は男、月は女。後宮に住まう数多の女人にも祀らせる意図があったのだろうな」
「だから……宇辰様は毎夜後宮にお通いに?」
「ああ。事が起きるとしたら夜だ。帝が通うのだから何もおかしなことはあるまい?」
宇辰様はふと言葉を切って顎を擦る。
「もしや、我が毎夜通う噂を聞いて、なにゆえ自分の元に参らなんだと悩んでいたか?」
「い、いいえ!そんな滅相もない!! もとより数ならぬこの身、陛下のお目に留まるとはちいとも思っておりませんゆえ!」
ぶんぶんとちぎれんばかりに首を左右に振る。
ついでに腕も振って否定すればするほど、宇辰様は何やらにまにまと意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「安心せよ。月狂い色狂いと称されているようだが、色狂いの方は外れだ」
「月狂いは認めるのですね……」
乾いた笑みで流せば宇辰様も軽く頷く。
この方、ご自分の評価に対して頓着が無さすぎるのではないだろうか。
じとりと見上げれば、ゆるく笑っていた表情が引き締まる。
「今までの話で察しているだろうが、私の即位から日を置かずして猫がこの泉を突き止め、再び地上に降り立った。それが月蝕の原因だ。以来、ああして妙薬を誰にも渡さぬと固執している」
「それでは、月は」
はっと空を見上げる。
「もちろん、月そのものが落ちてきたわけではない。ただ、元より光の源を失った抜け殻だ。皮肉なことに、あの猫自体が妙薬を取り込み過ぎて月と一体化している。それが地上に降りたことで、空から月が失われて見える訳だ」
改めて気を引き締め泉を覗き見る。
にわかには信じ難いことばかりだが、こうして目の当たりにしてしまえば信じざるを得ない。
「まだ腑に落ちぬか」
「いいえ、そんなことは」
「そうだな……そなたの耳は持ち主から分かたれたモノの声を聞くことだろう。ならばこう考えてみると良い」
──空から奪われた月の声を聞いた月鈴よ。月を掬い、空に戻すのが護り兎の役目だ。
「そなたが後宮で失せ物探しに励んでいたのは、ある意味で予行演習だったのかもしれぬな」
そう結ばれて、空いた口が塞がらない。
私の耳は、とんでもないものを聞いてしまったようだった。
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