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22 探偵の訪問

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 蒸気が鼻をくすぐり、ゆっくり意識を取り戻した。
 頬を伝った涙を誰かの指が拭い去る。
 それは夢の続きのようだった。
 意識は混沌としていた。
 喉に流しこまれるのは薬なのか。
 とても苦く、飲み込めない。
 唇の端からこぼれてゆく。
 
 全身に暴れているのは、なんだろう。
 これが快楽というものなら、とても苦しい。
 
 快楽とは縁がない。
 生々しい行為が好きではない。
 しかし、それをはきだすたびに誰かがやさしく頭を触ってくれる。
 そして頭にそっと口づけを落とす。
 誰なのかわからないが、安堵する。

 まるで赤子のように取り扱われて、オリヴィエは微笑んだ。

 ***

 オリヴィエが気がついた場所は、自分の部屋だった。
 視界の中に、心配そうに見つめるアリーナの顔があった。
「オリー、目が覚めた?」
 アリーナがオリヴィエの部屋にいるのは、何年ぶりのことだかわからない。
「姉上、どうしてここに?」
「あなた、ロージィと一緒に遊びに行ったところから、1日経って帰ってきて、ずっと眠ったままだったのよ。気分はどう?」
「よく眠った感じです」
「お母様に伝えてくるわね」
 アリーナが行ってしまうと、交代でジャンパール卿が入ってきた。
「オリヴィエ君、大丈夫か? あそこで何があったんだね?」
 オリヴィエの頭の中はわりとすっきりしているのだが、何があったのかすぐに思い出せない。
「あまりよく覚えていないのです。あそこで眠ってしまったようです」
 ジャンパール卿は、ほっとしたようだった。
「驚いたな。君が気に入ったようならよかったよ」
 オリヴィエは沈黙した。少しずつ記憶が蘇ってくる。ジャンパール卿は善良な人物だ。
 問題のある場所だと知っていたら連れて行かなかっただろう。
「わたしはどのように帰ってきましたか?」
「少年が馬車で君を送ってきたよ」
「少年ですか?」
「女将の小間使いじゃないのかな?」
「……そうですか」
 オリヴィエははしばみ色の瞳を思い出した。
 
 わたしは彼女とどうなったのだ?

 アリーナが早足で入ってきた。
「オリー、あなたに依頼された件で、探偵さんが訪ねてきたそうよ。疲れているならあらためていただくけれど、どうしましょう」
 オリヴィエは訪ねてきた探偵はリシエ・ピエレイドだろうと推測した。アリーナはオリヴィエの返事を待っている。そこに扉を叩く音が聞こえた。ジョールだった。
「オリヴィエ様、奥様が探偵と名乗る人物と対峙されています……」
「は?」
「お母様が?」
「はい。わたしはオリヴィエ様のお仕事上、いろいろなタイプの人物と関わりがあると思いまして、探偵を玄関ホールで待たせていたのでございますが、奥様がそこを通りかかってしまい、その方に出て行くようにと仰っています」
 ジョールは困ったようにオリヴィエを見つめた。追い返してよいのか、オリヴィエに命じてほしいのだ。オリヴィエはため息をついて、訪ねてきた人物を書斎で待たせておくようにと伝えた。
 しかし、着替えを済ませて書斎に入ると、見知らぬ男が立っていた。
「失礼ですが……」
 彼は大股でオリヴィエの前にやって来て、オリヴィエの右手をとった。
「ルヴェラン警部、体調は大丈夫ですか?」
 驚いて見上げたその顔は、ひげで覆われていた。眉毛も長く下にたれている。髪は白髪が混じっており肩の上で跳ねている。薄汚い上着とズボンは清潔とは言いがたい。
 しかし、まっすぐ見下ろしてくる視線は、とてもなじみ深いものだった。
「……君か」
「ええ。俺です」
 オリヴィエは椅子に腰をかけた。
「母が追い返そうとした理由がわかったぞ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。勝手口で待たせていただきたかったのですが。もう少しまともな姿にしたらよかったですね」
 そこにジョールが茶器を持って現れ、ちらりと視線を落とした。薄汚い探偵がオリヴィエの手を握っているのを見つめている。オリヴィエは手を振り払った。
「下がっていいぞ」
 オリヴィエがそう言っても、ジョールは茶器を持ったまま動かない。お茶を出さないで下がるか、無理矢理でも置いていくか決めかねているようだ。リシエは言った。
「俺がやりましょう」
 そう言って、ジョールからお盆を奪い机の上に置くと、手袋を外して慣れた手つきでお茶を入れ始めた。オリヴィエは何も言わなかった。ジョールはその様子を不思議そうに見つめた後、下がっていった。
 お茶が注がれた器は、ちょうどいい温度でオリヴィエの手のひらに収まった。
 リシエの風変わりな見た目のおかげで、最近感じた気まずい感情は少し薄まっている。
 少しほっとして気持ちが緩んだところで、オリヴィエは口を開いた。
「今日はどうしたんだ?」
 リシエは向かいの椅子に腰をかけた。
「レイベにあなたを送らせたので、無事に帰れたのか心配で見に来ました」
「君がわたしを送らせたのか……」
 リシエは頷いた。
「わたしがあの店にいたとき、君もいたのだろう?」
「はい。警部はどうして《ミスティ》にいたのですか?」
「あの店は《ミスティ》と言うのか。義兄のジャンパール卿が、たまには羽目を外したほうがいいと遊びに連れて行ってくれたのだ」
 その瞬間、不気味な音が部屋に響いた。
「……すみません、少し手に力が入ってしまっただけです」
 オリヴィエが視線を動かすと、飴色の木製の杖がリシエの手元で半分に折れていた。
 オリヴィエはようやく彼がいつもと違う様子なのに気がついた。
 風変わりな男の表情はひげで覆われて見えにくいが、いつもの明朗さがない。
 オリヴィエは言い訳のようにつけ足した。
「わたしはその義兄の誘いを利用して、状況を確認しに行ったのだ」
「……どうしてそんなことを思いついたんですか」
「どのようなところなのか確認する必要があるだろう」
「あなたが行かなくてもよかったでしょう。あなたが行ったのは娼館ですよ。ジャンパール卿もどうかしています」
「義兄はわたしのことを少し心配しただけだ。状況を確認したら、すぐに帰ろうと思っていたんだ。あんな風にならなければ」
 オリヴィエは視線を落としたまま尋ねる。
「君がわたしを連れ出してくれたのだな?」
「記憶にありますか?」
「ないから聞いている。気がついたら自分の部屋にいた」
 リシエは安心したように息を吐いた。
「あなたを連れ出したのは俺です。あの夜、あの店を調べるために潜入させていたレイベから、上等の客から予約が入ったと連絡があり、張り込みに行きました。するとジャンパール卿とあなたが現れました。理由がわかりませんでしたが、レイベにあなたが入った部屋の鍵を開けてもらうよう頼みました。扉を開けると、あなたは少女と寝台の上にいて、いまから楽しもうってところに見えました」
 そう言われて、オリヴィエは咳払いをした。
「まさか飲み物に薬が仕込まれているなんて思わなかったんだ」
「俺が現れなかったら、警部は彼女と楽しんでいましたか?」
「わからない」
「わからないんですか?」
「何もなくて良かったと思う。姉はわたしが1日行方がわからなかったと言っていた」
「……あの場所からあなたを連れ出した後、俺の家に運びました。あなたは薬物を飲んで意識が朦朧としていたので、すぐにこちらへ連れて帰ることはできなかったのです」
「君の家……」
 オリヴィエは言葉を詰まらせた。
「すまない。覚えていないんだ」
「あなたに薬を飲ませましたので、あなたは眠っていました」
「申し訳なかった。ありがとう」
 オリヴィエは礼を言うためリシエを見上げた。しかし、目を合わせた途端、彼は視線を逸らした。
 オリヴィエは首をかしげた。

 何かやましいことでもあるのか?

「あの界隈を調べに行こうなどと、二度と考えないでください」
「なぜだ?」
「あなたが心配だからです」
「心配すべきは、あそこで接客している少女のほうではないか?」
「あなたを襲おうとして媚薬を盛った小獣ですよ。俺が許すとでも?」
 オリヴィエは額を手で押さえた。
「ところで君はどうしてあの店を調べているんだ? ヴェントゥーラとは何者か知っているのか? 彼女は警察に味方がいると言っていた」
「依頼があり調べています。ラザール侯爵の土地を購入した人物は、ヴェントゥーラです。正体はまだわかっていません。警察に関係者がいるということなら、おそらく管理官以上でしょう」
 それを聞いて、オリヴィエは驚かなかった。
「誰だか見当がつきますか?」
「いや。新しい管理官が来てから、わたしの仕事は減ってしまったんだ。バーリーが動けない間に、あらたな歓楽街の土台を固めようとしているのなら、わたしが邪魔だろう」
「メデルタイン侯爵ですか?」
「そうだ。わたしを接客した少女は、貴族の娘だと思う」
「会ったことは?」
「覚えていない。もうすぐ成人すると言っていたから、17歳だろう。夜に自由がきくなら社交界へデビューしているのかもしれない」
「それはないと思います。デビューしていたら噂になります。あの店を偵察した限りでは、彼女以外、数人貴族の娘と思われる少女がいます。皆十八歳以下のようです。ただし、他にも館があります。レイベの話では、他の館はエリガレーテとあまり変わらないそうです。客を選別しているのかもしれません」
「他の館か……」
「もう一度言いますが、警部は何もしないでください。俺が調べて王宮に報告します」
「…………」
 オリヴィエは正直、偵察に二度と行く気にはなれなかったので、リシエに任せられるのならそれでよかった。王宮が動いてくれたら、一緒に叩けばいい。
「どうやって調べるのだ?」
「レイベを入り込ませているので、心配は無用です」
「君は羽目を外したりはしないのか?」
 リシエは立ち上がり、オリヴィエを見つめた。
「俺は好きな人以外とはしません」
 オリヴィエは飲んでいたお茶を吹きこぼしそうになった。
「明日、また会っていただけますか?」
「明日は帰ってくるのが何時になるのかわからない」
「フェイ氏が隠していた黒い革表紙の冊子について、話したいのです」
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