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閑話 水底から見た夜明け

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 薄汚れた監獄のような場所が、世界だった。

 居場所といえば、冷たい石造りの塔の螺旋階段を登った先の、小さな部屋だ。

 下に降りれば閉ざされた扉がある。
 途中の部屋には水しか出ないシャワーとトイレ。

 作りの荒い通路には、明かりの魔法も設置されていない。

「ゲホッゲホッ……ふっ、ぐ……ぅ……」

 塔の唯一の住人である勇者──シャルは、湿ったシャワールームの床に倒れ込み、激しく咳き込んで胃液を吐き出す。

 左腕には酷い切り傷があった。

 幾らかはこびりついて止まっているが、流れる血は排水の悪い石畳に溢れ落ちて、ぬかるむ。

 今日の暗殺のターゲットと揉み合った際に負った傷だ。剣に毒が仕込んであった。

 ガクガクと笑う足を叱咤しふらつきながらどうにか帰ってきた頃には、すっかり身体は毒に蝕まれていたらしい。

 猛烈な吐き気と共に、胃の中がひっくりがえりそうな程嘔吐した。

 まるで打ち上げられた魚のように、体がうねりながら跳ねる。
 真っ直ぐ佇めない。

 骨が折れるかと思うぐらい激しく痙攣して、石畳に何度と頭をぶつけ、頭から血が滲んでいる。

 意識が朦朧として感覚が麻痺した。
 どうにか咳き込む程度に落ち着くまで、随分な時間がかかっただろう。

 今は、草木も眠る丑三つ時だ。

 シャルが塔へ入ってから鍵を閉め、居眠りをしている見張りは、シャルの異常に気がついていない。

 そんなこと、慣れたものだった。
 いつものこと。

 冷や汗と涙と、閉じ切らない唇から零れた胃液が気持ち悪くて、袖口で拭う。

 汚れた上着は脱ぎ、その場に放置して、シャルは壁を頼りに危なげな足取りで部屋を目指す。

 ギィ、と軋んだ音を立てて扉を開け、部屋の中に入り、また立て付けの悪い扉をバタンと閉めた。

 ふらつきながらどうにか歩み、隅の木箱からくすんだ瓶に入ったポーションを取り出し、バシャバシャと傷にかける。

 ポーションは人間国の回復薬。

 人間が自分の治癒能力を高めてジワリジワリと傷を治す薬だが、王が用意するのはいつも粗悪で余り物だ。

 だがシャルには治癒魔法が使えない。
 できることはせいぜい、強化魔法をかけて悪化を防ぐくらいだった。

(ないよりマシだ。ないより恵まれている。だから、大丈夫。俺はまだ大丈夫)

 いつもどおりに暗示をかける。
 鍛えた体は事実丈夫で、死んだことはない。

 僅かずつ回復し始めた傷に包帯を巻いて未だに脂汗を滲ませながら、シャルは硬いベッドに倒れ込んだ。

 ガンッ、と硬質な音がする。
 少し痛い。構わないが。

 木でできたベッドに薄い布を敷いただけのものでは、当然疲れた体を優しく受け止めてはくれない。

「明日は……朝から、訓練……それから、会談のために外出する王の護衛として同行し……帰りに、その相手を……」

 ピクリとも動かない体をそのままに、明日の予定を口ずさむ。

 傷から熱が出てきているのか、極度に疲労していても眠りに落ちることができない。

 だから予習をしておくのだ。
 そのうち瞬きと共に朝がやってくるだろう。

 そんな毎日の繰り返し。

 今日も一人だった。
 明日もきっと、一人。

 瞼を閉じると、見たくないものが消えてなくなる気がした。
 それはおそらく、気のせいだ。

 いつか……いつか一人ではなくなるように、祈りを込めて、まどろむ。

「ん……」

 だが、意識が消えるか消えないかの狭間を彷徨っている時──不意に誰かに頭をなでられた。

 温かな手の感触の訪れに、声が漏れる。

 大事になでられていた。
 これは、気持ちいい。

 久しぶりにこうも優しく触れられ、そっと目を開くと、自分を覗き込む人影があった。

 ──夜色の髪の男が、愛おしそうに自分を見つめている。

「……ふふ……」

 誰だ、と言う前に、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。

 男が包帯が巻かれたシャルの左腕に触れると、眠ることもままならなかった痛みが、嘘のように消えていく。

 心が凪いだシャルが胎児のように丸くなると、男は隣で横になり、そっとシャルを抱き寄せた。

 ベッドを軋ませることもない無音の存在が、確かな熱を持って汚れや血、体液を纏わせた汚い自分を優しく抱きしめる。

 そこには、恋い焦がれた温かさがあった。

 不思議と抵抗する気は起こらない。
 男が敵の間者で、そのまま殺されたってかまわないとさえ思えた。

 丁寧に、しっかりと抱きしめられ髪をなでられると、悪寒を齎す熱と痛みが引き、トロリと眠気がやってくる。

 夢の世界へ旅立つ直前に見た、優しい瞳。
 深い夜の闇に似た、愛おしい瞳。

 きっと、今夜見る夢は、いつもの悪夢ではないだろう。



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