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第5話 ドはドンビのド②
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西暦1996年────────
沼崎六一郎は、十八歳で新潟県佐渡島から上京した。
実家は内海府に古よりつづく旧家であり、家の庭には縄文時代の遺跡まであった。
東京へ来て最初に住んだ部屋が、西機家と棟つづきの風呂なしアパート〈にしはた荘〉だった。
途中、一階から二階へ移ったり、半年ほど留守にしたことはあったが、東京での暮らしのほぼすべてをこのアパートで送ってきたことになる。
窓を開ければ高圧線の鉄塔が沼崎を見下ろしていた。
田舎では田畑の中に点在するそれが住宅街の真ん中に突き刺さっている風景に、都会っぽさを感じていたのかもしれない。
鉄塔がそびえる中庭は、表具屋である西機氏の仕事場の土間と地つづきになっていて、以前は作りかけの戸や襖をかついだ西機氏が咥え煙草で歩き回っていた。
まだ一階の部屋にいた時だった。
天気のいい日に窓を開けていると、作業中の西機氏の影が窓の外をよく横切っていた。
たまに目が合うと、大家は店子に向かって親しげに笑顔を浮かべ、沼崎は目から下だけ笑って忌々しげにカーテンを引いた。
日中は電動工具の音もかなり響いて騒々しかった。
西機氏はドラム缶の焼却炉で作業で出た板切れや大鋸屑を燃やすので、軒先の洗濯物が香ばしくスモークされてしまうのも腹立たしかった。
沼崎が入居した当初、二階建て六部屋のすべてが大学生・専門学校生で埋まっていたのだが、2000年代に入ると、アジア人ばかりになり、薄い壁の向こうから中国語や知らない言語が聞こえてくるようになった。
国際化時代の到来だ。
ついにグローバリズムの波が足元まで押し寄せてきたか、と秘かに色めき立っていたのだが、ある時ふと耳を澄ますと時代が通りすぎたあとだった。
西暦2015年────────
気がつくと〈にしはた荘〉は沼崎の貸し切りになっていた。
他の住人たちは母国の景気がよくなって帰国したのか、風呂ありの部屋へ移ったのか、姿を消した。
西暦2020年────────
今度は電動工具の音まで消えてしまった。
〈にしはた荘〉は気味が悪いほど静かになった。
西機氏はリタイアしたのだろうか。
まだ五十代のはずだった。
入院でもしているのだろうか。
姿が見えなくなるとなったで、気になって仕方がない沼崎であった。
まさか別居か。
夫婦仲はよさそうだったが熟年離婚は流行りだった。
あの奥さん、小柄でたいていニコニコしていて、経年劣化は否めないがかなりの美人だった。
二年おきの更新のたびに
「まだここにいらっしゃいますか?」とニコニコしながら訊くのだが、
「いらっしゃいますよね。全然いていただいて構わないんだけど」と最後は決まって困ったような顔をするのだ。
西暦2021年────────
ある真夏の晩のことである。
安手のバーボンウィスキーを啜りながら、沼崎は禁酒法時代のアメリカに想いを馳せていた。
もちろん、沼崎はアメリカ合衆国本土にもハワイにもグアムにすら行ったことはない。
彼にとってアメリカはファーストフードとハリウッド映画でしか知らない国である。
同様に、ジンを飲めば、ヴィクトリア朝時代のイギリスの工場労働者の辛酸を思い浮かべる。
黒ビールを飲めばアイルランド共和軍の苛烈なる闘争を想像する。
スコッチウィスキーのオールドパーを飲めば、自民党田中派・木曜クラブと明治維新・岩倉使節団の雄姿が、瞼に浮かぶ。
すべて雑学本で仕入れたサブカル知識なのだが、沼崎はこう見えてなかなか風流な男なのである。
バーボンの杯を重ねるごとに、どこかで見たアメリカ禁酒法時代のイメージが沼崎の脳裏に蘇っていた。
マフィアの抗争。
路地裏で火を吹くマシンガン。
港に沈められた裏切り者の水死体……
窓を叩く音がして、振り向くと半開きの磨りガラスの向こうに白い影が立っていた。
(出たァァーッ!!!)
手酌でボトルから注がれていた酒が、コップから溢れ出し、胡坐を掻く沼崎の膝を濡らしていた。
「沼崎さん、ちょっといいですか?」
びっくりした。
何のことはない。
西機夫人だ。
棟つづきだが西機家の玄関と〈にしはた荘〉のドアは背中合わせになっているため、中庭に出て窓からのほうが手っ取り早いのだった。
「あの、折り入ってご相談があるんですけど」
夫人は窓の外から、いかにもすまなさそうな顔で言った。
「な、何ですか?」
今度は別の意味でビクッとする沼崎。
「うちの都合で申し訳ないんだけど、二階の部屋に移っていただけないかしら」
西機夫人はそう言うと、すぐに打ち消すように
「まだいらっしゃいますよね? 別に出ていってほしいわけじゃないのよ。全然いていただいて構わないんだけど」と、顔の前で両手を激しく振った。
何度も聞いた話だが、台詞と表情が初めてマッチしたように思えた。
立ち退きのお願いではなく、引越しの相談だった。
入院中の夫がもうすぐ戻ってくるのだが、たぶん一階だとご迷惑をおかけすることになるだろうとの話だ。
ご迷惑の意味がよくわからなかったが、西機氏はやはり入院していたようだ。
沼崎は二階の角部屋〈203〉へ移った。
間取りは同じで部屋はきれいになった。
ほかの部屋は入居者が入れ替わる度に、西機氏自らがリフォームしていたのだ。
入れ替わらない自分の部屋だけ年々古びていたようだ。
眺めもよくなった。
毎朝鉄塔の同じ位置に止まり糞を落としながらピィイィピィイィやかましく鳴くヒヨドリ以外、特に不満もなく過ごしていると西機氏が帰ってきた。
西機氏は前と同じように仕事場のほうから中庭へ出てきた。
上から見る限りいつもと変わらない西機氏だった。
何の病気だったのだろうか。
沼崎がそっと開けた窓の隅から覗き込んでいると、西機氏がゆったりとした足取りでアパートのほうへ寄ってきた。
沼崎が入っていた一階の〈101〉の窓に両手をつき中を見ている。
大家の不審な行動を怪訝に思いながら、なおも凝視していると、どん、どん、どんと西機氏が窓ガラスに頭を打ちつけ始めた。
これ以上打ったら割れる!
沼崎は口に手を当てて見守っていた。
「お父さん、はいこれ」
不意に一階の窓が開いて、西機夫人が何か手渡した。
沼崎が食い入るように見つめていると、夫人から受け取ったものにかぶりついていた西機氏がふと動きを止め、顔を上げた。
西機氏の両目は瞬きもせずに見開かれ、二つの瞳は顔の左側に寄ったまま動かない。
ぐらぐら頼りなく揺れていた首が右へぱたんと倒れると、二つの瞳が目の中を転がるように今度は右端へずれてきた。
沼崎と目が合うと、西機氏は赤黒いペースト状の物質がだらだらと垂れ落ちている口元をゆっくりと引きつらせた。
笑っているようだ。
(つつつ、土を食ってる……)
沼崎は窓から離れ、息を潜めて数分待った後、もう一度見下ろすと西機氏はまだそこにいた。
同じ顔だった。
(ドドド、ドンビだ……)
以来、今日まで、沼崎は中庭に面した窓のカーテンを開けたことがない。
敵地を探るように自作の潜望鏡で覗くようになったのだ。
* * *
今夜、満を持して沼崎は敵地へ潜入する。
ある実験のためである。
深夜二時……
アパートの二階〈203〉の窓が開き、縄梯子が垂れ下がった。
25センチ幅に切り分けたアルミニウムのパイプを15本、細引きのロープで結んだ手製の梯子だ。
梯子の強度を確かめるように慎重に降りてくる黒い影は、もちろん沼崎六一郎。
今年で、四十七歳になる。
手足は短くずんぐりとしていて、およそ運動とは縁のなさそうな中年男性だが、日にスクワットを200回、ルームウォーキング45分間を欠かさない、なかなかの自宅スポーツマンであった。
S級サバイバリストを自称しているのだから、これくらいの体力を維持するのは当然の務めではある。
沼崎は大地に下り立った。
沼崎の全身は灰色のボディースーツに包まれていた。
〈ザ・シャークスーツ〉である。(注1)
家々の明かりは消えていた。
沼崎はハンズフリーの暗視スコープゴーグルであたりを探った。
さすがにこれは自作は無理でアメリカからの並行輸入品だった。
(いた……)
米国3Mスリーエム社の防塵マスクの下で沼崎は呟く。
目標は仕事場に立てかけられた作りかけの引戸に寄りかかるように座っていた。
職人がその引戸を完成させることはもうないだろう。
暗視スコープが映し出す緑がかった薄闇を沼崎は歩き出す。
膝まで茂った雑草を地下足袋で踏みしめ目標へと近寄っていく。
日がな一日踏み固められていてもこれだけの草が生えてしまう。
ドンビの体を通過した土は、粘液や壊死した細胞も混じるため植物はよく繁茂するという。
畑を肥やすミミズと同じ原理だ。
沼崎は土間の手前で立ち止ると、ナップサックからタッパーを取り出した。
中には直径三センチほどの泥団子〈節子DⅩセツコデラックス〉が詰め込まれている。(注2)
沼崎は深緑色に淀んだ土間の中へ団子を転がした。
闇が動いた。
団子を一個左手に載せたまま、沼崎はドンビが近寄るのを待った。
暗視スコープで見るドンビは一段と精気が感じられず、本物のゾンビのようだった。
這い寄ってきたドンビが、頭上に掲げられた泥団子に気づいた。
口元から土塊を零しながら、立ち上がったドンビは沼崎より二十センチは上背があった。
沼崎は団子へ伸ばしたドンビの手をかわした。
フェイントに懲りずに何度も手を伸ばすドンビ。
沼崎はゆっくりとうしろへ下がりながら、ドンビの目の前から団子を自分の背後へ放った。
団子を求めて、ドンビは両手を前に伸ばして向かってきた。
沼崎は右手で背中のナップサックを探り、取り出した器具をドンビの喉元に突きつけた。
ドンビの動きが止まった。
(うまくいった!)
マスクの下で沼崎の鼻孔が広がり、口元は弛んだ。
ドンビの喉にがっちりと食い込んでいるのは、〈六一式串刺銃〉だった。(注3)
銃床につづくアルミニウムのパイプの先にU字型のマジックハンドがついていて、ドンビはそれに喉を押さえられ前に進むことができない。
ドンビは伸ばした手をしばらくゆらゆらぱたぱたさせていたが、やがてマジックハンドの存在に気づいて掴もうとし始めた。
(ところが、掴めないんだな……)
マジックハンドと柄のパイプにはグリースがたっぷり塗られていてずるずるに滑るのだ。
あとは、引金トリガーを引くのみ。
強力なゴムの弾力で直径3・5ミリの鋼鉄の鉄串がパイプの先から飛び出し、ドンビの喉笛を直撃。
延髄まで突き抜けてジ・エンドだ。
鉄串にリードを結べば何度も使い回しが可能。
マジックハンドと水中銃ニードルガンの組み合わせは抜群だ。
(これで勝てる。生き延のびられる……)
実験が成功し、思わずほくそ笑む沼崎。
沼崎は引き金から指を外した。
ドンビのゾンビ化はあくまで近未来のお話。
これは実戦を想定した実験で、おまけに実験台は大家さん。
銃の威力まで試したいのはやまやまだが、今宵はここまでにしておこう。
背後で物音が聞こえた。
(えっ)
自分と同じくらいの背格好のメガネをかけた中年男性がこちらへ向かってくるではないか。
(誰?)
メガネの下の目は、斜め下を見たまま動かない。
男は草に足を取られながらも、のろのろと歩いてくる。
(こ、こいつも、ドンビだ!)
沼崎には思い当たることがあった。
二、三日前、西機家の一階で町内会の寄合のような会合が催されていたのだ。
沼崎は何事かと聞き耳を立てた。
サバイバルガジェット〈デビルイヤー〉を二階の窓から垂らして、西機家の居間の会話を釣り上げようとしたのだが、会の参加者の声がやけに小さく沈んでいて内容までは掴めなかった。(注4)
大方、町内の誰かが死んで通夜か葬儀の相談だろうと見当をつけたのだったが、当たらずとも遠からずだ。
おそらく、こいつは最近発病したご近所の誰かなのだろう。
(抜かったわ……)
顔を顰める沼崎。
しかし慌てることはない。
沼崎は左手を背中のナップサックに伸ばし、もう一丁の銃を抜いた。
ドンビ特有の両腕を伸ばした前傾姿勢で近寄ってくるドンビ2号。
右腕でドンビ1号を受け止めつつ、沼崎は2号の猪首に左腕でマジックハンドを捻じ込んだ。
ドンビ2号を捕えた〈六一式カチ割銃〉は、はっきりいって失敗作なのだが、これを持ってきたのは正解だったようだ。(注5)
ドンビ西機氏 )───沼崎───( メガネのドンビ
奇妙な均衡状態がつづいた。
しかし────
沼崎の腕力がそろそろ限界に近づいてきた。
上腕の筋肉が軋み始めていた。
(もうだめだ。ここまでか……)
銃把を握る手首がグラついた。
左右からドンビが倒れ込んできた。
沼崎もうしろへ倒れ、尻もちをついた。
腰が抜けたように座り込む沼崎の前で、ドンビ西機氏とメガネのドンビが抱き合っていた。
ドンビとドンビは、絡み合わない視線で見つめ合った。
抱き合ったまま、二人同時に沼崎のほうを向いた。
(これは何の冗談だ……)
三人の間に穏やかな時間が流れていた。
(つづく)
(注1)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その2〈ザ・シャークスーツ〉
ダイバー用のサメ避けスーツ。タイガーシャークに咬まれても平気、というふれこみの市販品を参考に沼崎が自作したもので、買えば一着四十万円以上するものが、材料費のみでたったの一万九千円。ユニクロのヒートテックの上下を二枚重ねにして、間にステンレスの鎖を縦横に編み込んだ現代版鎖帷子。肘と膝にはケブラー繊維のあてものも縫いつけられている。
(注2)〈節子DⅩ〉
ダイソーで買った鹿沼土に大塚製薬のオロナミンCをかけて丸めた泥団子。「節子」はアニメ『火垂るの墓』より。
(注3)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その3〈六一式串刺銃〉
沼崎が肉食ドンビ迎撃用に開発した秘密兵器。
(注4)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その4〈デビルイヤー〉
釣り竿に吊るした小型盗聴器。ガジェット名はアニメ『デビルマン』より。
(注5)〈六一式カチ割銃〉
マジックハンド部分は〈串刺銃〉と一緒だが、こちらは引金を引くと、セットしてある山刀が、強力なスプリングで百八十度撥ね返り、ドンビの脳天を真っ二つにカチ割る、はずだった。問題点はバランスの悪さ。重量がありすぎて反動も大きすぎた。片腕では銃に振り回されてしまい、スイカを使った実験も失敗していた。
沼崎六一郎は、十八歳で新潟県佐渡島から上京した。
実家は内海府に古よりつづく旧家であり、家の庭には縄文時代の遺跡まであった。
東京へ来て最初に住んだ部屋が、西機家と棟つづきの風呂なしアパート〈にしはた荘〉だった。
途中、一階から二階へ移ったり、半年ほど留守にしたことはあったが、東京での暮らしのほぼすべてをこのアパートで送ってきたことになる。
窓を開ければ高圧線の鉄塔が沼崎を見下ろしていた。
田舎では田畑の中に点在するそれが住宅街の真ん中に突き刺さっている風景に、都会っぽさを感じていたのかもしれない。
鉄塔がそびえる中庭は、表具屋である西機氏の仕事場の土間と地つづきになっていて、以前は作りかけの戸や襖をかついだ西機氏が咥え煙草で歩き回っていた。
まだ一階の部屋にいた時だった。
天気のいい日に窓を開けていると、作業中の西機氏の影が窓の外をよく横切っていた。
たまに目が合うと、大家は店子に向かって親しげに笑顔を浮かべ、沼崎は目から下だけ笑って忌々しげにカーテンを引いた。
日中は電動工具の音もかなり響いて騒々しかった。
西機氏はドラム缶の焼却炉で作業で出た板切れや大鋸屑を燃やすので、軒先の洗濯物が香ばしくスモークされてしまうのも腹立たしかった。
沼崎が入居した当初、二階建て六部屋のすべてが大学生・専門学校生で埋まっていたのだが、2000年代に入ると、アジア人ばかりになり、薄い壁の向こうから中国語や知らない言語が聞こえてくるようになった。
国際化時代の到来だ。
ついにグローバリズムの波が足元まで押し寄せてきたか、と秘かに色めき立っていたのだが、ある時ふと耳を澄ますと時代が通りすぎたあとだった。
西暦2015年────────
気がつくと〈にしはた荘〉は沼崎の貸し切りになっていた。
他の住人たちは母国の景気がよくなって帰国したのか、風呂ありの部屋へ移ったのか、姿を消した。
西暦2020年────────
今度は電動工具の音まで消えてしまった。
〈にしはた荘〉は気味が悪いほど静かになった。
西機氏はリタイアしたのだろうか。
まだ五十代のはずだった。
入院でもしているのだろうか。
姿が見えなくなるとなったで、気になって仕方がない沼崎であった。
まさか別居か。
夫婦仲はよさそうだったが熟年離婚は流行りだった。
あの奥さん、小柄でたいていニコニコしていて、経年劣化は否めないがかなりの美人だった。
二年おきの更新のたびに
「まだここにいらっしゃいますか?」とニコニコしながら訊くのだが、
「いらっしゃいますよね。全然いていただいて構わないんだけど」と最後は決まって困ったような顔をするのだ。
西暦2021年────────
ある真夏の晩のことである。
安手のバーボンウィスキーを啜りながら、沼崎は禁酒法時代のアメリカに想いを馳せていた。
もちろん、沼崎はアメリカ合衆国本土にもハワイにもグアムにすら行ったことはない。
彼にとってアメリカはファーストフードとハリウッド映画でしか知らない国である。
同様に、ジンを飲めば、ヴィクトリア朝時代のイギリスの工場労働者の辛酸を思い浮かべる。
黒ビールを飲めばアイルランド共和軍の苛烈なる闘争を想像する。
スコッチウィスキーのオールドパーを飲めば、自民党田中派・木曜クラブと明治維新・岩倉使節団の雄姿が、瞼に浮かぶ。
すべて雑学本で仕入れたサブカル知識なのだが、沼崎はこう見えてなかなか風流な男なのである。
バーボンの杯を重ねるごとに、どこかで見たアメリカ禁酒法時代のイメージが沼崎の脳裏に蘇っていた。
マフィアの抗争。
路地裏で火を吹くマシンガン。
港に沈められた裏切り者の水死体……
窓を叩く音がして、振り向くと半開きの磨りガラスの向こうに白い影が立っていた。
(出たァァーッ!!!)
手酌でボトルから注がれていた酒が、コップから溢れ出し、胡坐を掻く沼崎の膝を濡らしていた。
「沼崎さん、ちょっといいですか?」
びっくりした。
何のことはない。
西機夫人だ。
棟つづきだが西機家の玄関と〈にしはた荘〉のドアは背中合わせになっているため、中庭に出て窓からのほうが手っ取り早いのだった。
「あの、折り入ってご相談があるんですけど」
夫人は窓の外から、いかにもすまなさそうな顔で言った。
「な、何ですか?」
今度は別の意味でビクッとする沼崎。
「うちの都合で申し訳ないんだけど、二階の部屋に移っていただけないかしら」
西機夫人はそう言うと、すぐに打ち消すように
「まだいらっしゃいますよね? 別に出ていってほしいわけじゃないのよ。全然いていただいて構わないんだけど」と、顔の前で両手を激しく振った。
何度も聞いた話だが、台詞と表情が初めてマッチしたように思えた。
立ち退きのお願いではなく、引越しの相談だった。
入院中の夫がもうすぐ戻ってくるのだが、たぶん一階だとご迷惑をおかけすることになるだろうとの話だ。
ご迷惑の意味がよくわからなかったが、西機氏はやはり入院していたようだ。
沼崎は二階の角部屋〈203〉へ移った。
間取りは同じで部屋はきれいになった。
ほかの部屋は入居者が入れ替わる度に、西機氏自らがリフォームしていたのだ。
入れ替わらない自分の部屋だけ年々古びていたようだ。
眺めもよくなった。
毎朝鉄塔の同じ位置に止まり糞を落としながらピィイィピィイィやかましく鳴くヒヨドリ以外、特に不満もなく過ごしていると西機氏が帰ってきた。
西機氏は前と同じように仕事場のほうから中庭へ出てきた。
上から見る限りいつもと変わらない西機氏だった。
何の病気だったのだろうか。
沼崎がそっと開けた窓の隅から覗き込んでいると、西機氏がゆったりとした足取りでアパートのほうへ寄ってきた。
沼崎が入っていた一階の〈101〉の窓に両手をつき中を見ている。
大家の不審な行動を怪訝に思いながら、なおも凝視していると、どん、どん、どんと西機氏が窓ガラスに頭を打ちつけ始めた。
これ以上打ったら割れる!
沼崎は口に手を当てて見守っていた。
「お父さん、はいこれ」
不意に一階の窓が開いて、西機夫人が何か手渡した。
沼崎が食い入るように見つめていると、夫人から受け取ったものにかぶりついていた西機氏がふと動きを止め、顔を上げた。
西機氏の両目は瞬きもせずに見開かれ、二つの瞳は顔の左側に寄ったまま動かない。
ぐらぐら頼りなく揺れていた首が右へぱたんと倒れると、二つの瞳が目の中を転がるように今度は右端へずれてきた。
沼崎と目が合うと、西機氏は赤黒いペースト状の物質がだらだらと垂れ落ちている口元をゆっくりと引きつらせた。
笑っているようだ。
(つつつ、土を食ってる……)
沼崎は窓から離れ、息を潜めて数分待った後、もう一度見下ろすと西機氏はまだそこにいた。
同じ顔だった。
(ドドド、ドンビだ……)
以来、今日まで、沼崎は中庭に面した窓のカーテンを開けたことがない。
敵地を探るように自作の潜望鏡で覗くようになったのだ。
* * *
今夜、満を持して沼崎は敵地へ潜入する。
ある実験のためである。
深夜二時……
アパートの二階〈203〉の窓が開き、縄梯子が垂れ下がった。
25センチ幅に切り分けたアルミニウムのパイプを15本、細引きのロープで結んだ手製の梯子だ。
梯子の強度を確かめるように慎重に降りてくる黒い影は、もちろん沼崎六一郎。
今年で、四十七歳になる。
手足は短くずんぐりとしていて、およそ運動とは縁のなさそうな中年男性だが、日にスクワットを200回、ルームウォーキング45分間を欠かさない、なかなかの自宅スポーツマンであった。
S級サバイバリストを自称しているのだから、これくらいの体力を維持するのは当然の務めではある。
沼崎は大地に下り立った。
沼崎の全身は灰色のボディースーツに包まれていた。
〈ザ・シャークスーツ〉である。(注1)
家々の明かりは消えていた。
沼崎はハンズフリーの暗視スコープゴーグルであたりを探った。
さすがにこれは自作は無理でアメリカからの並行輸入品だった。
(いた……)
米国3Mスリーエム社の防塵マスクの下で沼崎は呟く。
目標は仕事場に立てかけられた作りかけの引戸に寄りかかるように座っていた。
職人がその引戸を完成させることはもうないだろう。
暗視スコープが映し出す緑がかった薄闇を沼崎は歩き出す。
膝まで茂った雑草を地下足袋で踏みしめ目標へと近寄っていく。
日がな一日踏み固められていてもこれだけの草が生えてしまう。
ドンビの体を通過した土は、粘液や壊死した細胞も混じるため植物はよく繁茂するという。
畑を肥やすミミズと同じ原理だ。
沼崎は土間の手前で立ち止ると、ナップサックからタッパーを取り出した。
中には直径三センチほどの泥団子〈節子DⅩセツコデラックス〉が詰め込まれている。(注2)
沼崎は深緑色に淀んだ土間の中へ団子を転がした。
闇が動いた。
団子を一個左手に載せたまま、沼崎はドンビが近寄るのを待った。
暗視スコープで見るドンビは一段と精気が感じられず、本物のゾンビのようだった。
這い寄ってきたドンビが、頭上に掲げられた泥団子に気づいた。
口元から土塊を零しながら、立ち上がったドンビは沼崎より二十センチは上背があった。
沼崎は団子へ伸ばしたドンビの手をかわした。
フェイントに懲りずに何度も手を伸ばすドンビ。
沼崎はゆっくりとうしろへ下がりながら、ドンビの目の前から団子を自分の背後へ放った。
団子を求めて、ドンビは両手を前に伸ばして向かってきた。
沼崎は右手で背中のナップサックを探り、取り出した器具をドンビの喉元に突きつけた。
ドンビの動きが止まった。
(うまくいった!)
マスクの下で沼崎の鼻孔が広がり、口元は弛んだ。
ドンビの喉にがっちりと食い込んでいるのは、〈六一式串刺銃〉だった。(注3)
銃床につづくアルミニウムのパイプの先にU字型のマジックハンドがついていて、ドンビはそれに喉を押さえられ前に進むことができない。
ドンビは伸ばした手をしばらくゆらゆらぱたぱたさせていたが、やがてマジックハンドの存在に気づいて掴もうとし始めた。
(ところが、掴めないんだな……)
マジックハンドと柄のパイプにはグリースがたっぷり塗られていてずるずるに滑るのだ。
あとは、引金トリガーを引くのみ。
強力なゴムの弾力で直径3・5ミリの鋼鉄の鉄串がパイプの先から飛び出し、ドンビの喉笛を直撃。
延髄まで突き抜けてジ・エンドだ。
鉄串にリードを結べば何度も使い回しが可能。
マジックハンドと水中銃ニードルガンの組み合わせは抜群だ。
(これで勝てる。生き延のびられる……)
実験が成功し、思わずほくそ笑む沼崎。
沼崎は引き金から指を外した。
ドンビのゾンビ化はあくまで近未来のお話。
これは実戦を想定した実験で、おまけに実験台は大家さん。
銃の威力まで試したいのはやまやまだが、今宵はここまでにしておこう。
背後で物音が聞こえた。
(えっ)
自分と同じくらいの背格好のメガネをかけた中年男性がこちらへ向かってくるではないか。
(誰?)
メガネの下の目は、斜め下を見たまま動かない。
男は草に足を取られながらも、のろのろと歩いてくる。
(こ、こいつも、ドンビだ!)
沼崎には思い当たることがあった。
二、三日前、西機家の一階で町内会の寄合のような会合が催されていたのだ。
沼崎は何事かと聞き耳を立てた。
サバイバルガジェット〈デビルイヤー〉を二階の窓から垂らして、西機家の居間の会話を釣り上げようとしたのだが、会の参加者の声がやけに小さく沈んでいて内容までは掴めなかった。(注4)
大方、町内の誰かが死んで通夜か葬儀の相談だろうと見当をつけたのだったが、当たらずとも遠からずだ。
おそらく、こいつは最近発病したご近所の誰かなのだろう。
(抜かったわ……)
顔を顰める沼崎。
しかし慌てることはない。
沼崎は左手を背中のナップサックに伸ばし、もう一丁の銃を抜いた。
ドンビ特有の両腕を伸ばした前傾姿勢で近寄ってくるドンビ2号。
右腕でドンビ1号を受け止めつつ、沼崎は2号の猪首に左腕でマジックハンドを捻じ込んだ。
ドンビ2号を捕えた〈六一式カチ割銃〉は、はっきりいって失敗作なのだが、これを持ってきたのは正解だったようだ。(注5)
ドンビ西機氏 )───沼崎───( メガネのドンビ
奇妙な均衡状態がつづいた。
しかし────
沼崎の腕力がそろそろ限界に近づいてきた。
上腕の筋肉が軋み始めていた。
(もうだめだ。ここまでか……)
銃把を握る手首がグラついた。
左右からドンビが倒れ込んできた。
沼崎もうしろへ倒れ、尻もちをついた。
腰が抜けたように座り込む沼崎の前で、ドンビ西機氏とメガネのドンビが抱き合っていた。
ドンビとドンビは、絡み合わない視線で見つめ合った。
抱き合ったまま、二人同時に沼崎のほうを向いた。
(これは何の冗談だ……)
三人の間に穏やかな時間が流れていた。
(つづく)
(注1)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その2〈ザ・シャークスーツ〉
ダイバー用のサメ避けスーツ。タイガーシャークに咬まれても平気、というふれこみの市販品を参考に沼崎が自作したもので、買えば一着四十万円以上するものが、材料費のみでたったの一万九千円。ユニクロのヒートテックの上下を二枚重ねにして、間にステンレスの鎖を縦横に編み込んだ現代版鎖帷子。肘と膝にはケブラー繊維のあてものも縫いつけられている。
(注2)〈節子DⅩ〉
ダイソーで買った鹿沼土に大塚製薬のオロナミンCをかけて丸めた泥団子。「節子」はアニメ『火垂るの墓』より。
(注3)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その3〈六一式串刺銃〉
沼崎が肉食ドンビ迎撃用に開発した秘密兵器。
(注4)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その4〈デビルイヤー〉
釣り竿に吊るした小型盗聴器。ガジェット名はアニメ『デビルマン』より。
(注5)〈六一式カチ割銃〉
マジックハンド部分は〈串刺銃〉と一緒だが、こちらは引金を引くと、セットしてある山刀が、強力なスプリングで百八十度撥ね返り、ドンビの脳天を真っ二つにカチ割る、はずだった。問題点はバランスの悪さ。重量がありすぎて反動も大きすぎた。片腕では銃に振り回されてしまい、スイカを使った実験も失敗していた。
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