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第18話 うっ血女子と血色わるい王子⑦
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チホの黒い瞳と、世良彌堂の碧い瞳に、岩場の多い海岸線の様子が映し出されていた。
二人は電車の窓から外の景色を眺めていた。
ここは、JR外房線、普通列車の車内である。
チホは進行方向を向いて、差し向かいに座った世良彌堂の話を黙って聞いていた。
「水は巡り、血は滞とどこおる、か……」
世良彌堂が呟いた。
「見ろ。気化したH2Oが、空へ舞い上がっていく」
世良彌堂の目には海面から蒸発する水の分子が見えるらしい。
「この星は水の惑星だ。水の循環という大いなる流れがこの星に存在するすべての生命を貫いている。人間もまた然り。死者の水分は、川の水や海の水やその他の水と共に天に昇り、雲に吸い込まれ、雨となって地上へ還ってくる。水滴は新たな生命の体内へ取り込まれ、空を飛び地を這い回る。海の誕生から向こう、水はさまざまに形を変え、幾千億の生命の飛沫となって地上へと溢れ出してきた」
長野の廃スキー場での危機一髪から三日たっていた。
潮里の電力竜巻で難を逃れた二人は本日、敵の本拠地と思しき「きりこし総合病院」のある千葉県は房総半島南東部、安房鴨川へ旅立った。
「生々流転。千変万化。諸行無常の世において、いつまでも流れ去らずに赤い水が溜まっている場所がある。森の鉄分が染み出して錆果てた赤い沼。食肉処理場の脇に涌いた血みどろの池。ふん。おれたちのことさ。おれたちのことだった、と言うべきか」(注1)
老衰死しない吸血者。
病死しない吸血者。
不慮の死しかない吸血者だが、その死体を見た者はいない。
吸血鬼が眠る棺も映画の中だけの存在だ。
吸血者は死なず、ただ消え去るのみ。
親しい者はある日突然消えて、それっきり戻ってこない。
買い物に行ったまま、帰ってこない。
シャワーを出しっぱなしにして、突然いなくなる。
普通だった。
吸血者同士の関係はそんなもの。
それが世界の日陰に生きる者の作法なのだから。
チホもそのひそみにならい、ルームメイトだった冴が何も告げずに出て行っても探さなかった。
「メグぅミんもおれの前から消え去る準備をしていた。クローゼットの奥にキャリーバッグと熊本行きの航空券を隠していたのだ。理由はわからない。女も吸血者も謎だらけだ。だが、消えるより早くイトマキ症が彼女を捕えた」
チホの目の前で、世良彌堂が、三日前の世良彌堂へと移り変わっていく。
廃スキー場からの帰り、東京駅へ向かう長野新幹線の車内で世良彌堂は自分について語った。
世良彌堂もチホと同じだった。
彼も繭を抱えていたのだ。
────メグぅミんはおれの二十五番目の女。おれは気づかなかった。彼女は吸血者だった。おれは知らずに吸血者の血を啜っていたのだ────
吸血者同士の血のやり取りは禁忌にあたる。
具体的に何がいけないのか、明確な答えはない。
強いて言うなら、未来のなさが露骨だから、だろうか。
────メグぅミんが何故おれに黙って血を吸わせたのか、それはわからない。女は謎だ。これは後にわかったことだが、彼女はかつて被吸血者の男と所帯を持っていた。子供もいた。被吸血者の男の子だ。夫だった男も、子供だった男も、すでに亡くなっている。享年はどちらも八十を越えていた。天寿を全うしたと言っていいだろう。二名いた孫も存命なら還暦をすぎている。当のメグぅミんは、おれの見立てでは四十九歳から五十一歳、本人の申告では三十六歳。永遠のアラウンド・フィフティー、メグぅミんの実年齢はついにわからなかった。おそらく三桁は越えていただろうが────
メグぅミんはキャバレーで働いていた。
指名客は老人ばかりだが、なかなかの売れっ子だったという。
世良彌堂に隠れて、血を飲んでいた。
ブラッドウィル社の血だ。
ある日、口から糸を噴き出して倒れてしまった。
知らずにとはいえ、彼女に禁忌を破らせていた世良彌堂は自分のせいだと思った。
吸血者協会とは没交渉を通してきた世良彌堂は、イトマキ症という名前すら知らなかった。
秘められた過去を吐き出すように、部屋の中へ白い糸を吐き散らすメグぅミんを世良彌堂は震えながら抱き締めるしかなかった。
それもすぐにかなわなくなった。
彼女が作り出す繭の中へ織り込まれそうになったからだ。
世良彌堂は水を掻くように渦巻く糸の嵐から逃げた。
繭の中から差し出された女の手をただ握り締めるしかなかった。
繭はどんどん厚さを増して、白いカプセルに一人の女を閉じ込めてしまった。
糸の放出が落ち着くのを待って、世良彌堂は張り巡らされた糸を掻きわけた。
繭に爪を立て、白い闇を引き裂くとメグミンは繭の奥で眠っていた。
世良彌堂は、ぎょっとした。
これが……おれのメグぅミん?
彼女は若返っていた。
人間は年齢を重ねるごとにその本質が前面に浮き出してくるという。
若さという横溢する生命のエネルギーが引いたあとに残るものが、その人本来の姿なのだという。
メグぅミんは、逆だった。
顔のシミも、頬のたるみも、深く刻まれたほうれい線もリセットされ、ただつやつやぴかぴかした新品のメグぅミんがそこにいたのだ。
────おれはいつもそうするように、彼女の唇にそっと接吻した。女との数多の修羅場をフレンチキスで切り抜けてきたおれだ。このキスで彼女が元通りになる、そんな気もしていた。いつもの枯れ草のような感触が嘘のようにその唇は硬く張り詰めていた。強い弾力に戸惑いながらも、おれは心を込めてキスをした。メグぅミんのつめたく冷えた眠りを口づけで熔かそうと情熱的に貪ったのだ────
世良彌堂はメグぅミんの衣服を剥いだ。
知らない若い女の体があった。
まるで別人の造型だった。
冷めた素肌を直接温めようと、世良彌堂は自分も服を脱いだ。
メグぅミんの胸に抱きつくと人肌の冷たさとはどこか違う、生温かい拒絶が世良彌堂の体を走り抜けた。
世良彌堂は構わずメグぅミんを抱き締めた。
万感の思いを込め彼女を抱いた。
彼女の体が蠢いた。
世良彌堂はメグぅミんが目を覚ましたのかと思った。
だが、彼の腕の中で、彼女は静かに萎んでいった。
何が起きているのか、彼にはわからなかった。
抱き締めれば抱きしめるほど、彼女が痩せ細っていくのだ。
メグぅミんの首の横に裂け目ができて、そこから透明なジェル状の物質が床に漏れていた。
血も骨も内臓も、メグぅミんの中身はすべてその無色透明の内容物と入れ替わっていたのだ。
液体の流出は止めようがなかった。
数分後、世良彌堂の腕の中には使い捨てのラミネートチューブのようなメグぅミんの〝皮〟が残っていた。
────おれにはメグぅミんの心の闇が見えなかった。闇などなかったのかもしれない。彼女はただおれを猫のようにかわいがっていた、どこにでもいる孤独な老人の一人だったのかもしれない。おれは飼い主に先立たれた猫になった。以来、どこへ移動しても、自分が同じ場所に佇んでいるような気がするのだ────
長野新幹線の中で、世良彌堂は碧い炎のような目でチホを見据えて言った。
────おまえはどうだ? それでも、繭の中を確かめてみる気はあるか?────
「おい」
目の前の、現実の世良彌堂が言った。
チホはまだ、三日前の記憶の中の世良彌堂と向き合っていた。
────おまえの双子は、まだこの世にいるのか?────
気がつくと、チホの左手を少年の小さな手が掴んでいる。
「おい。おまえ、この手はどうした?」
チホのロングTシャツの袖がめくれて、赤く腫れた左手の甲が露になっていた。
チホは世良彌堂の手を振りほどき、シャツの袖を引き下げた。
「それは、ただのアトピーではない。窮血性潰瘍だな? おまえ、さては血液を飲んでいないな?」
世良彌堂の目つきが変わった。
チホは目を逸らした。
「何日飲んでない? おい、何日だ?」
「ちょっと、大きな声出さないでよ」
「馬鹿者。飲め」
世良彌堂はステンレスの小さな水筒を差し出した。
「さっさと、飲め」
「わたし、血が嫌いなんだ。おいしいと思ったことなんか、生まれて一度もない」
「そんなことは訊いていない。今すぐ飲むのだ。おれの目の前で、今すぐ」
うむを言わさぬ調子だ。
「何よ。わかったわよ」
チホは周りを見ながらキャップを開けた。
「これ、誰の血?」
「うるさい。いいから飲め」
チホは飲んだ。
鉄と海の味がした。
「ふん。ダイエットのつもりか? 吸血者が血を断つとどうなるのか、知っているのか?」
全身に窮血性潰瘍の瘡蓋が全身に拡がり、最終的には死ぬはずだ。
イトマキ症が現れる前は、病気にならない吸血者が唯一罹る病気がこの潰瘍だった。
「違うな。逆だ。血を断った吸血者は、より生き生きと生血を求めることになる。人をやめて、鬼になる。吸血鬼になるのだ」
「つまらない冗談。吸血者ジョーク」
チホが鼻で笑った。
「おまえは何も知らない。冗談では済まないさ。おれがこの体で知った真実だからな」
世良彌堂は試したことがあるという。
吸血者と判明した小学六年の時のことだ。
協会から送られてきた血液を飲まなくなった。
自分の中から吸血者の「毒」が抜けるまでひたすら待つのだ。
二つの説があった。
一つは、血を飲まないと窮血性潰瘍が全身に回って息ができずに死ぬ。
今一つは、全身に回った潰瘍はやがて消え、まっさらな肌が現れる。
そこまで行き着けば、もう血を飲まなくて済む、というもの。
世良彌堂は、後者に賭けた。
「父も母もただ見守っていたさ。おれは言い出したら聞かないし、これは彼らの力ではどうにもならない事態だ。周囲は瘡蓋だらけになっていくおれを腫物に触るように扱った。しばらくの間、おれに代わってガーゼに包まったおれのミイラが学校へ通った。四十日がすぎた。おれは血の誘惑に打ち勝った。瘡蓋がすべて剥がれ落ちると、おれは元の白皙に戻っていた。以前より光を帯びた黄金の少年が蘇った。母は喜んださ。父もホッとしていた。何しろおれを悪魔の子じゃないかと疑っていたからな。これで安心して本国へ連れて行ける。そう思っただろう。父は教会傘下の幼稚園の園長だった」
「呪われた運命を克服したおれを母は抱き締めた。おれも強く抱き返した。母の白い首筋が目の前にあった。開眼したばかりの〈万物を丸裸にする目〉が、普通の人間なら到底見えない小さなホクロ、毛穴の一つ一つ、産毛の一本一本まで見逃さなかった。何も考えてなどいないさ。おれもただ嬉しかったのだから。バースディのキスをするようにおれは噛みついていた。父がおれを母から引き剥がし壁に投げつけた。母の頸動脈を喰いちぎらなかったのは不幸中の幸いだ。父だった男が今どこにいるかはわからない。母だった女は健在なら山形のどこかにいるはずだ。庄内平野に年中首にスカーフを巻いた美しい女がいたら、たぶんおれの母だった女だろう」
己の核心部分を吐き出して、安堵しているのか虚脱しているのか、長い沈黙へ入ってしまった世良彌堂に、チホは訊いてみた。
「実の親とメグミンさん、どっちが大事? どっちが大切?」
世良彌堂は黙って窓の外を見ていた。
答える気はないようだ。
つまらないことを訊いてしまった。
チホも窓の外を眺めていた。
被吸血者の親と吸血者の子供は多かれ少なかれ軋轢を生じることになる。
チホは協会を頼り、世良彌堂は独立独歩を選んだ。
吸血者の親と吸血者の子供がどんな親子関係になるのか、チホは知らない。
吸血は家族間で遺伝するのかどうかも不明だった。
長いトンネルの中で、窓に映る世良彌堂と目が合った。
チホが何気なく見詰めると、窓に映った黒い肖像画のような世良彌堂が睨み返してきた。
「メグミンじゃない。メグぅミん、だ」
トンネルを抜けてから、世良彌堂が言った。
「え?」
「吸血者なら答は一つ。血を分けた女より、血を分けてくれる女だ」
それが質問の答だとチホが気づいたのは、次のトンネルに入ってからだった。
(つづく)
(注1)生々流転 千変万化 諸行無常
全部だいたい同じ意味。万物が常に変わりゆくこと。
二人は電車の窓から外の景色を眺めていた。
ここは、JR外房線、普通列車の車内である。
チホは進行方向を向いて、差し向かいに座った世良彌堂の話を黙って聞いていた。
「水は巡り、血は滞とどこおる、か……」
世良彌堂が呟いた。
「見ろ。気化したH2Oが、空へ舞い上がっていく」
世良彌堂の目には海面から蒸発する水の分子が見えるらしい。
「この星は水の惑星だ。水の循環という大いなる流れがこの星に存在するすべての生命を貫いている。人間もまた然り。死者の水分は、川の水や海の水やその他の水と共に天に昇り、雲に吸い込まれ、雨となって地上へ還ってくる。水滴は新たな生命の体内へ取り込まれ、空を飛び地を這い回る。海の誕生から向こう、水はさまざまに形を変え、幾千億の生命の飛沫となって地上へと溢れ出してきた」
長野の廃スキー場での危機一髪から三日たっていた。
潮里の電力竜巻で難を逃れた二人は本日、敵の本拠地と思しき「きりこし総合病院」のある千葉県は房総半島南東部、安房鴨川へ旅立った。
「生々流転。千変万化。諸行無常の世において、いつまでも流れ去らずに赤い水が溜まっている場所がある。森の鉄分が染み出して錆果てた赤い沼。食肉処理場の脇に涌いた血みどろの池。ふん。おれたちのことさ。おれたちのことだった、と言うべきか」(注1)
老衰死しない吸血者。
病死しない吸血者。
不慮の死しかない吸血者だが、その死体を見た者はいない。
吸血鬼が眠る棺も映画の中だけの存在だ。
吸血者は死なず、ただ消え去るのみ。
親しい者はある日突然消えて、それっきり戻ってこない。
買い物に行ったまま、帰ってこない。
シャワーを出しっぱなしにして、突然いなくなる。
普通だった。
吸血者同士の関係はそんなもの。
それが世界の日陰に生きる者の作法なのだから。
チホもそのひそみにならい、ルームメイトだった冴が何も告げずに出て行っても探さなかった。
「メグぅミんもおれの前から消え去る準備をしていた。クローゼットの奥にキャリーバッグと熊本行きの航空券を隠していたのだ。理由はわからない。女も吸血者も謎だらけだ。だが、消えるより早くイトマキ症が彼女を捕えた」
チホの目の前で、世良彌堂が、三日前の世良彌堂へと移り変わっていく。
廃スキー場からの帰り、東京駅へ向かう長野新幹線の車内で世良彌堂は自分について語った。
世良彌堂もチホと同じだった。
彼も繭を抱えていたのだ。
────メグぅミんはおれの二十五番目の女。おれは気づかなかった。彼女は吸血者だった。おれは知らずに吸血者の血を啜っていたのだ────
吸血者同士の血のやり取りは禁忌にあたる。
具体的に何がいけないのか、明確な答えはない。
強いて言うなら、未来のなさが露骨だから、だろうか。
────メグぅミんが何故おれに黙って血を吸わせたのか、それはわからない。女は謎だ。これは後にわかったことだが、彼女はかつて被吸血者の男と所帯を持っていた。子供もいた。被吸血者の男の子だ。夫だった男も、子供だった男も、すでに亡くなっている。享年はどちらも八十を越えていた。天寿を全うしたと言っていいだろう。二名いた孫も存命なら還暦をすぎている。当のメグぅミんは、おれの見立てでは四十九歳から五十一歳、本人の申告では三十六歳。永遠のアラウンド・フィフティー、メグぅミんの実年齢はついにわからなかった。おそらく三桁は越えていただろうが────
メグぅミんはキャバレーで働いていた。
指名客は老人ばかりだが、なかなかの売れっ子だったという。
世良彌堂に隠れて、血を飲んでいた。
ブラッドウィル社の血だ。
ある日、口から糸を噴き出して倒れてしまった。
知らずにとはいえ、彼女に禁忌を破らせていた世良彌堂は自分のせいだと思った。
吸血者協会とは没交渉を通してきた世良彌堂は、イトマキ症という名前すら知らなかった。
秘められた過去を吐き出すように、部屋の中へ白い糸を吐き散らすメグぅミんを世良彌堂は震えながら抱き締めるしかなかった。
それもすぐにかなわなくなった。
彼女が作り出す繭の中へ織り込まれそうになったからだ。
世良彌堂は水を掻くように渦巻く糸の嵐から逃げた。
繭の中から差し出された女の手をただ握り締めるしかなかった。
繭はどんどん厚さを増して、白いカプセルに一人の女を閉じ込めてしまった。
糸の放出が落ち着くのを待って、世良彌堂は張り巡らされた糸を掻きわけた。
繭に爪を立て、白い闇を引き裂くとメグミンは繭の奥で眠っていた。
世良彌堂は、ぎょっとした。
これが……おれのメグぅミん?
彼女は若返っていた。
人間は年齢を重ねるごとにその本質が前面に浮き出してくるという。
若さという横溢する生命のエネルギーが引いたあとに残るものが、その人本来の姿なのだという。
メグぅミんは、逆だった。
顔のシミも、頬のたるみも、深く刻まれたほうれい線もリセットされ、ただつやつやぴかぴかした新品のメグぅミんがそこにいたのだ。
────おれはいつもそうするように、彼女の唇にそっと接吻した。女との数多の修羅場をフレンチキスで切り抜けてきたおれだ。このキスで彼女が元通りになる、そんな気もしていた。いつもの枯れ草のような感触が嘘のようにその唇は硬く張り詰めていた。強い弾力に戸惑いながらも、おれは心を込めてキスをした。メグぅミんのつめたく冷えた眠りを口づけで熔かそうと情熱的に貪ったのだ────
世良彌堂はメグぅミんの衣服を剥いだ。
知らない若い女の体があった。
まるで別人の造型だった。
冷めた素肌を直接温めようと、世良彌堂は自分も服を脱いだ。
メグぅミんの胸に抱きつくと人肌の冷たさとはどこか違う、生温かい拒絶が世良彌堂の体を走り抜けた。
世良彌堂は構わずメグぅミんを抱き締めた。
万感の思いを込め彼女を抱いた。
彼女の体が蠢いた。
世良彌堂はメグぅミんが目を覚ましたのかと思った。
だが、彼の腕の中で、彼女は静かに萎んでいった。
何が起きているのか、彼にはわからなかった。
抱き締めれば抱きしめるほど、彼女が痩せ細っていくのだ。
メグぅミんの首の横に裂け目ができて、そこから透明なジェル状の物質が床に漏れていた。
血も骨も内臓も、メグぅミんの中身はすべてその無色透明の内容物と入れ替わっていたのだ。
液体の流出は止めようがなかった。
数分後、世良彌堂の腕の中には使い捨てのラミネートチューブのようなメグぅミんの〝皮〟が残っていた。
────おれにはメグぅミんの心の闇が見えなかった。闇などなかったのかもしれない。彼女はただおれを猫のようにかわいがっていた、どこにでもいる孤独な老人の一人だったのかもしれない。おれは飼い主に先立たれた猫になった。以来、どこへ移動しても、自分が同じ場所に佇んでいるような気がするのだ────
長野新幹線の中で、世良彌堂は碧い炎のような目でチホを見据えて言った。
────おまえはどうだ? それでも、繭の中を確かめてみる気はあるか?────
「おい」
目の前の、現実の世良彌堂が言った。
チホはまだ、三日前の記憶の中の世良彌堂と向き合っていた。
────おまえの双子は、まだこの世にいるのか?────
気がつくと、チホの左手を少年の小さな手が掴んでいる。
「おい。おまえ、この手はどうした?」
チホのロングTシャツの袖がめくれて、赤く腫れた左手の甲が露になっていた。
チホは世良彌堂の手を振りほどき、シャツの袖を引き下げた。
「それは、ただのアトピーではない。窮血性潰瘍だな? おまえ、さては血液を飲んでいないな?」
世良彌堂の目つきが変わった。
チホは目を逸らした。
「何日飲んでない? おい、何日だ?」
「ちょっと、大きな声出さないでよ」
「馬鹿者。飲め」
世良彌堂はステンレスの小さな水筒を差し出した。
「さっさと、飲め」
「わたし、血が嫌いなんだ。おいしいと思ったことなんか、生まれて一度もない」
「そんなことは訊いていない。今すぐ飲むのだ。おれの目の前で、今すぐ」
うむを言わさぬ調子だ。
「何よ。わかったわよ」
チホは周りを見ながらキャップを開けた。
「これ、誰の血?」
「うるさい。いいから飲め」
チホは飲んだ。
鉄と海の味がした。
「ふん。ダイエットのつもりか? 吸血者が血を断つとどうなるのか、知っているのか?」
全身に窮血性潰瘍の瘡蓋が全身に拡がり、最終的には死ぬはずだ。
イトマキ症が現れる前は、病気にならない吸血者が唯一罹る病気がこの潰瘍だった。
「違うな。逆だ。血を断った吸血者は、より生き生きと生血を求めることになる。人をやめて、鬼になる。吸血鬼になるのだ」
「つまらない冗談。吸血者ジョーク」
チホが鼻で笑った。
「おまえは何も知らない。冗談では済まないさ。おれがこの体で知った真実だからな」
世良彌堂は試したことがあるという。
吸血者と判明した小学六年の時のことだ。
協会から送られてきた血液を飲まなくなった。
自分の中から吸血者の「毒」が抜けるまでひたすら待つのだ。
二つの説があった。
一つは、血を飲まないと窮血性潰瘍が全身に回って息ができずに死ぬ。
今一つは、全身に回った潰瘍はやがて消え、まっさらな肌が現れる。
そこまで行き着けば、もう血を飲まなくて済む、というもの。
世良彌堂は、後者に賭けた。
「父も母もただ見守っていたさ。おれは言い出したら聞かないし、これは彼らの力ではどうにもならない事態だ。周囲は瘡蓋だらけになっていくおれを腫物に触るように扱った。しばらくの間、おれに代わってガーゼに包まったおれのミイラが学校へ通った。四十日がすぎた。おれは血の誘惑に打ち勝った。瘡蓋がすべて剥がれ落ちると、おれは元の白皙に戻っていた。以前より光を帯びた黄金の少年が蘇った。母は喜んださ。父もホッとしていた。何しろおれを悪魔の子じゃないかと疑っていたからな。これで安心して本国へ連れて行ける。そう思っただろう。父は教会傘下の幼稚園の園長だった」
「呪われた運命を克服したおれを母は抱き締めた。おれも強く抱き返した。母の白い首筋が目の前にあった。開眼したばかりの〈万物を丸裸にする目〉が、普通の人間なら到底見えない小さなホクロ、毛穴の一つ一つ、産毛の一本一本まで見逃さなかった。何も考えてなどいないさ。おれもただ嬉しかったのだから。バースディのキスをするようにおれは噛みついていた。父がおれを母から引き剥がし壁に投げつけた。母の頸動脈を喰いちぎらなかったのは不幸中の幸いだ。父だった男が今どこにいるかはわからない。母だった女は健在なら山形のどこかにいるはずだ。庄内平野に年中首にスカーフを巻いた美しい女がいたら、たぶんおれの母だった女だろう」
己の核心部分を吐き出して、安堵しているのか虚脱しているのか、長い沈黙へ入ってしまった世良彌堂に、チホは訊いてみた。
「実の親とメグミンさん、どっちが大事? どっちが大切?」
世良彌堂は黙って窓の外を見ていた。
答える気はないようだ。
つまらないことを訊いてしまった。
チホも窓の外を眺めていた。
被吸血者の親と吸血者の子供は多かれ少なかれ軋轢を生じることになる。
チホは協会を頼り、世良彌堂は独立独歩を選んだ。
吸血者の親と吸血者の子供がどんな親子関係になるのか、チホは知らない。
吸血は家族間で遺伝するのかどうかも不明だった。
長いトンネルの中で、窓に映る世良彌堂と目が合った。
チホが何気なく見詰めると、窓に映った黒い肖像画のような世良彌堂が睨み返してきた。
「メグミンじゃない。メグぅミん、だ」
トンネルを抜けてから、世良彌堂が言った。
「え?」
「吸血者なら答は一つ。血を分けた女より、血を分けてくれる女だ」
それが質問の答だとチホが気づいたのは、次のトンネルに入ってからだった。
(つづく)
(注1)生々流転 千変万化 諸行無常
全部だいたい同じ意味。万物が常に変わりゆくこと。
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物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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