今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第4章

第51話 希望

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 休み明け、月曜日の朝。あと数駅でこの車両に乗ってくるはずの才原部長に、どんな顔をして挨拶をしたらいいんだろうと考えながら、落ち着かない気持ちで手すりに掴まっていた。だけど、結局会社のある駅に降りるまで才原部長は現れなかった。


 敢えて避けたんだろうか……?
 意図は分からないけど、とりあえずは顔を合わせずに済んで良かった。どうせ後で絶対合わせることになるのに、その場しのぎの回避にひとまずほっとしてオフィスに入ると


「おはよう」

「さ……才原部長……おはようございます……」


 いつもなら私より先に少なくとも十人は出勤しているはずなのに、どうゆうことか、だだっ広い空間にその姿はなく、奥の席に才原部長一人だけが座っていた。就業前なのにすでにフルモードで仕事を始めている様子の部長は、あんなことがあったなんてもうすっかり忘れているように、いつもと何も変わらなかった。今日同じ電車で来なかったのも、単に急ぎの仕事があったからなんだろう。


 まずは『先週はお邪魔しました。ご馳走様でした』と挨拶をするべきだけど、そのことに触れたらさすがにあのことについて話が及ぶかもしれない……そう思うと言葉がなかなか出てこなかった。


「なんかね、朝からすぐそこ大通りでドラマの撮影してるんですって。人気の若手俳優とかアイドルとか、有名人がいっぱい来てるって騒いで全員見に行っちゃったのよ。みんなそうゆうの好きよねぇ……」

 
 空席だらけのオフィスを見回す私を見て、察した才原部長が状況の説明をしてくれた。呆れたような言い回しだったけど表情は柔らかく、決して彼らを悪く言ってる感じではなさそうだ。


「才原部長は興味ないんですか?」

「ここ何年も海外にいたから日本だけで活躍してる若い人は全然知らなくて……あっ、こんな言い方嫌味かしら?」

「いえ、そんなことないです。事実なんですから」

「中谷さんは?見てきたかったらあなたも行ってきたら?少しくらい過ぎてもいいから。なかなかそんな機会ないでしょう」

「私は大丈夫です」

「そうなの?若いのに」
 
「言うほど若くないです……もう27ですから。平らなところつまづいたり、隣の部屋に行って何取りに来たか忘れたり……」


 実際に日常で感じていることを口にしただけだったけど、才原部長はなぜか私の言葉に仕事の手を止めてまで笑い出した。


「もう、二十代で何言ってるのよ?」

「でも本当なんです!最近なんてお酒飲んだ次の日は記憶も抜けてたりするくらいですし……」

「……じゃあ、こないだのことも覚えてないの?」


 そこで突然真剣な顔つきになった。『こないだのこと』と言われただけなのに、それは完全にあの日のキスのことだと伝わってきた。


「……それは……覚えてます」


 嘘をついても仕方ないのでそう答えると、才原部長はかけていたデスクワーク用の眼鏡を外して立ち上がり、私たち以外誰もいないオフィスを突き進んで、すぐ目の前までやって来た。


 何をされるの!?


 条件反射で上半身が後重心になる。すると、


「あの件は……本当に申し訳ないことをしたわ……ごめんなさい」


 その場で丁寧に頭を下げ、丁重に謝罪をされた。


「やめてくださいっ!大げさです!そんなことしてもらわなくても大丈夫ですから!」

「大げさなことなんてないわ。十分、今のこの首が飛ぶようなことをしたと思ってる……。あなたが望むならもちろん上司に報告してもらっても構わない……」

「何を仰ってるんですか……才原部長の立場が危うくなるようなことなんて、私はするつもりありません」

「……だけど……傷ついたでしょう……?」

「傷ついたというか……驚きましたけど……。でも、才原部長があそこまで理性を失うほど乱れるのには何か大きなストレスとか、私の知り得ないものがあるのかなって想像しますし……とにかく、私のことはもう気になさらなくて大丈夫ですから」

「…………本当に?」

「はい。部長が気にされてると私も気になってしまうので、出来ればもうあのことは水に流してこれまで通り普通にして頂けたら助かります……」

「……ありがとう」

「お礼言われることでもないような気が……」


 私が笑顔を見せると才原部長はようやく解放されたように肩の力を抜いた。


「あの夜、久しぶりに人といて楽しくて、自分でもかなり酔ってることに気づかなくて……。って、そんなのなんの言い訳にならないんだけど……。とにかく、他意はないの。そこだけは安心して!だから……虫のいいことを言うようだけど、出来たら今まで通り、私の補佐役を頼めるかしら……?」

「もちろんです。初めからそのつもりです」

「……良かった。正直『これ以上は続けられません』て言われると覚悟してたから……」

「本当、才原部長って意外に……し」

「意外に『し』?今なんて言おうとしたの?」

「いえ、なんでもないです……」

「小心者?それか神経質でしょ?」


 さっきまで反省の色に染まった顔をしていたのに、困る私を追い詰めて楽しそうにしている。そんな様子を見てむしろ私は安堵していた。


 あの日、私が開けてしまった才原部長の部屋には、一つだけ写真立てが飾られていた。そこには、おそらくロサンゼルスに残してきた彼女らしき女性と部長のツーショット写真が入っていて、物が散乱した部屋の中で唯一、その棚の上だけは綺麗にしてあった。


 才原部長の彼女への想いが一目瞭然に見て取れた。だからこそ私は、才原部長の言う言葉を信じられた。きっとあの事は酔ってしまって魔が差しただけ。それが真実だと思う。


 それから私たちは、あの出来事を無かったものとして、お互いに今まで通りに戻った。
 それからまた数日後。その日は会社に着くなり、部長と二人外回りだった。


 取引先へ出向いた帰り道、信号待ちでつい一台の車に目を奪われてしまった。それは、彼女の運送会社のトラックだった。運転しているのはもちろん彼女ではなかったけれど、久しぶりに見たそのトラックに、唐突に心を鷲掴みされたような気持ちになった。


「中谷さん?」


 才原部長に呼ばれて気づくと、信号は青に変わっていた。


「すみません!」

「可愛い女の子でもいた?」


 才原部長は笑って何のけなしに言ったけど、核心にかする言葉に私は愛想笑いしか返せなかった。


「お腹空いたわね!今日は会社に戻らなきゃいけない用もないし、たまには直帰しましょうか?」

「いいんですか!?」

「いいわよ。会社に戻ってもそこから帰るだけだもの。その代わり……少しだけいい?」

「はい!」


 才原部長とももう二ヶ月ほどの付き合いになって、それだけで飲みに行きたいサインだということはもう解るようになっていた。


 才原部長と飲みに行くことは嫌いではなかったせど、今日はあのトラックを見てしまい、正直気分が浮かなかった。本当は早く帰って、もうとっくにぬくもりなんて残っていないソファーの上で横たわりたかった。だけどそんな気持ちは隠して、私は才原部長に付き合った。


 高級なお店にもかなり慣れてきたし、教えてもらったテーブルマナーも昔から身に付けていた作法のようにだいぶ様になった、たまり得意ではなかった赤ワインも美味しいと思えるようになり、才原部長と同じ時間を過ごすようになって私はかなり大人の女性になった様な気がしていた。


 だけどそれを嬉しく感じる反面、なぜか彼女との距離が開いていっているような空虚感も同時に感じていた。


「ねぇ、あなたの好きな人ってもしかして宅配便の人じゃない?」

「えっ!?どうしてですか!?」

「やっぱり!あなた本当に解りやすくて可愛いわね」


 私はまだそうだと肯定したわけじゃなかったけど、才原部長は手に持ったグラスの中のワインがこぼれそうなくらい笑っていた。


「なんで分かったか知りたい?」

「……はい」

「宅配便のトラックをあんなに愛おしそうに見てる人なんていないもの。すぐピンと来たわ」

「私、そんな風に見てました?」

「ええ。今にも泣き出しそうな顔してね。そっか、配達に来た女性に恋しちゃったのね……」

「……はい」


 才原部長をやり込めることなんか出来ないことを私はこの二ヶ月ですっかり学んでいた。それに、きっと私は、誰かに少しでも話を聞いてもらいたかったんだと思う。


「そんな出会いもあるのね。まるで映画みたい。その彼女はどんな人なの?」

「私もよく知らないんです。配達に来てくれてた時は、色々お話したりしてたんですけど……。言っても関係性が関係性だし……。今思えば何も知らなかったのかもしれません……」

「でも今も顔合わすことはあるんでしょう?これから知っていけばいいじゃない」

「彼女にはもう二ヶ月会ってません。もう二度と会えないかもしれません……」

「……それでも好きなの?」


 才原部長は、どうして会わなくなったのかは聞かないでくれた。


「全然知らないのに、全然消えてくれないんです。……こんなこと、会社の上司の前で言うのは大変申し訳ないんですけど……正直、仕事しててもなんにも紛れなくて……」

「そんなこと気にしなくていいわよ、今日の仕事は終わったんだから!今、私とあなたは上司と部下じゃなくて、ただの友人なんだから。それに、あなたのその気持ちは私にもよく分かるわ」

「才原部長にも?」

「私、あなたに一つ嘘をついてることがあるの」

「嘘……?」

「実は……画家をしている彼女とはね、私が日本に来る前に別れてたの」

「えぇ!?そうなんですか?!」


 つい一ヶ月前、あの散らかった部屋の中に彼女さんとの写真を飾っていたことを思い出したけど、そこには触れなかった。


「騙すようなことしてごめんなさいね。正直、リアルタイムに彼女がいる状態の方が、同じ同性愛者のあなたからの警戒心がよりほぐれると思ったの。それと、あの時はまだ別れてそんなに日も経ってなかったから、口にすることが辛かったって理由も少なからずあったと思う……」

「……お付き合いは長かったんですか……?」

「八年……かな」


 才原部長は少し寂しそうに微笑んだ。そこまで長く誰かと付き合ったことのない私には、励ましの言葉も同情の言葉も、かけることすら失礼だと思った。


「別れはね、私から切り出したの」

「……好きじゃなくなってしまったんですか?」

「……好きよ、今でも」

「それならどうして……」


 それならどうして別れたのか、それを聞こうとして途中で留まった。そんなこと、第三者に話すことでも、理解できることでもない……。


「どうしてそんな決断をしたかって聞かれたら、はっきり答えられない。……不誠実かもしれないけど、私たちはお互い、自分にとって大切な生き甲斐である仕事があった。愛と仕事は天秤にかけるものじゃないと私も思うけど、状況的にどうしても選ばないといけない時はある。しいて言えばそれが原因かしら。幸せに生きていくために、離れることを選んだ……。彼女は最後まで納得出来ずに泣いてたわ……その姿を思い出すたび、心から申し訳ないと思う。どうせこんな結果になるのに、八年もの月日を費やさせてしまったから……」

「……後悔はしてないですか?」

「……してない。……と言わないと、彼女にそれこそ合わす顔がない。……二度と会うことはないにしても。でもね、実際これで良かったとは思ってる。別れるって決断をしてそう行動したってことは、それが自分の本当の気持ちなはずだから……」

「……私は……諦めなきゃいけないんだって自分を納得させようとしても、どこかでずっと反抗し続ける別の自分が出てくるんです」

「なら、それがあなたの本当の気持ちなのかもしれないわね」



 才原部長と別れ家に着いた私は、電気もつけず暗い部屋の中で考え事をしていた。



 ピーンポーン……



 暗闇の中、チャイムが鳴り響いた。インターホンの画面を確認すると例の配達員の人だった。そうだ、今日はまとめて荷物を持ってきてもらう約束の日だった。すっかり忘れていた。


 扉を開けると、その人は緊張した様子で私の機嫌を伺うように挨拶をした。


「あっ、こんばんは~?お荷物、今日は四つですー」

「はい、ありがとうございます」

 
 はんこを押して荷物を全て受け取ると、その人は私の気持ちを察して気遣うように、素早く頭を下げてそそくさとその場から去ろうとした。


「ありがとうございましたー!」

「あ、あのっ!ちょっと待ってください!」

「はい?」

「……以前ここを回られてた三ツ矢さんて方は……もう辞められたんでしょうか?」


 返答を待つ数秒間、心臓が止まってしまいそうに緊張した。


「あーいえいえ!ちゃんと変わらずにここの地域を回ってますよ!ただ時間帯が早番になっただけで」

「そうですか……でも今後辞める予定があるとかは……?」

「いや……自分あいつと同期なんですけどそんな話は聞いてないです。義理堅い奴なんでもしそう決まってたら言ってくれるはずだし、まぁ今のところは突然辞めるとかはない感じだと思いますけど……」

「…………よかった」

「はい?」

「いえ、ありがとうございました」


 彼女は辞めてなかった。今すぐ辞めるというわけでもない……。たったそれだけのことで涙が出てきてしまうくらい、大げさじゃなく生きる希望に思えた。













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