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第5章
第59話 尋ね人
しおりを挟むあの人の残した一文が脳内に転写されたみたいに、それからは何をしていてもそのことばかり考えていた。
実感が湧かない。だけど、仕事が終わって質素な部屋に帰り、あの人の優しく笑う顔がふと浮かんでくると、体の中心を握りつぶされるような感覚に襲われた。
あの人はどこへ行ってしまったんだろう……
情報も心当たりも私には何もない。私たちは、一度離れてしまえばこんなにも脆い関係だったのかと傷つきながら、そんな自分を嘲笑う自分もいた。そんなこと私は分かっていたはずで、こんな未来もあることを想定した上で、私はあの人を遠ざけてたんだ。こうして完全に繋がりがなくなることを望んでいたからこそそうしたんだ。
…………違う。
本当はこんなこと望んでなかった。
ずるずると結局仕事を辞めなかったのは、あの人との接点を完全に失うことが怖かったから。そのくせ、あの人が手を伸ばそうとしてくると冷たく背を向けたのは、本当の私を知られた時、汚いものを見るような目で見られることに耐えられないと思ったから。
私はただただ全部が中途半端で、なんの覚悟も決められないクズだった……。
そして、あの人を完全に失った今の私は、性懲りもなくこの汚れた手であの人に触れたくて仕方なかった。
***
その電車を待ったのは何ヵ月ぶりだろう。
仕事が休みの平日、私はホームに立っていた。昨日のことのように覚えているこの時間と車両の位置。あの人がどこに引っ越してしまったかは分からないけど、もしもそんなに遠くに引っ越したわけじゃなく同じ沿線なんだったとしたら、変わらずにこの時間のあの車両に乗って来るはず。
もしかしたら、そうやって私のことを待ってくれているかもしれない……あるわけのない都合のいい期待を味方にして、その電車を待った。
初めて出会った時のように緊張していた。もし会えたら、なんて声をかけたらいいんだろう……答えが出ないまま、電車はホームに停車した。
答えを知るのが怖くて、うつ向き気味に乗り込んだまま顔を上げきれない。電車の扉が閉まり、しばらくしてからようやく前を見た。
…………いない………
いつもいた場所にあの人はいなかった。混雑で押しやられてしまったのか、辺りも見回してみる。
……いない………
やっぱりもうこの電車は使ってないのか……受け入れたくない事実に鼓動は速まっていた。それでもまだ諦めず、あの人が会社があると言っていた駅で降り、そこの改札であの人の姿を探してみることにした。
初めて降り立った都心のオフィス街の駅は、しわのないスーツで毅然と歩く男の人、いわゆるオフィスカジュアルを着こなす同世代の女の人、そこから逸脱したファッションに身包んでいてもきっと何かの経営者であろう個性的な人……そんな人たちの人混みの中、一人浮いた格好の私は、ただじっと見逃さないようにあの人を探していた。
もういい加減に会社に着いていないとおかしいような時間までずっと見ていたけど、その日はあの人を見つけることは出来なかった。
連休をもらっていた私は、次の日もあの電車に乗った。昨日はたまたま何かの事情で乗らなかったという可能性もある。
今日こそは……
昨日と変わらない緊張に襲われたまま、ホームに乗り入れた車両に乗り込んだ。すぐにあの人の姿を探す。
いない……
やっぱり、引っ越し先はあの街から遠いところなんだろうか……。増していく不安と一緒に、今日もまた例の駅へ降り、改札で引き続き探し続けた。
その駅は地下鉄も含めて何本もの線が乗り入れている大きな駅で、行き交う人の数はとても目で追えるものじゃなかったけど、この場所であの人を見つけ出すしかもう他に道はなかった。それから私は、毎週休みのたびにその駅へと向かった。帰りの電車に乗る踏ん切りをつけるのが一番難しかった。もういるはずのない時間になっても、足は動かず、延々と同じ場所に立ち続けた。
***
プルルルルル……
「アサノコーポレーションでございます」
「あ、あのすみません!そちらに中谷かこさんという方はいらっしゃいますでしょうか……? 」
「『中谷かこ』でございますね。お調べ致します。失礼ですが、所属部署はお分かりでしょうか?」
「いえ……部署はちょっと分からないんですが」
「かしこりました。それでは、恐れ入りますが少々お時間を頂けますでしょうか?」
「はい!いくらでも待ちます!」
「……お待たせ致しました。お調べしましたが、どちらの部署にもそのような名前の社員は在籍していないようです」
「……そう……ですか……。お手間を取らせてしまってすみません。ありがとうございました……」
保留音の間に、毎回懲りずに張り詰めるそんなやり取りを何度も何度も繰り返した。
駅の改札に立って探し続ける方法に限界を感じ始めた私は、今度は近隣にある無数の会社へ片っ端から電話をかける方法に切り替えたのだった。改札で出会えないならそれくらいしか、あの人と連絡を取れる手段はない。
休みの日はもちろん、仕事の日でも休憩時間や少しの合間を縫ってかけた。それでも、都内屈指のオフィス街で働くあの人へはなかなか辿り着けずに、
時間だけが虚しく過ぎていった。
分かっているのは、あの人が通勤していた駅名だけでそれ以外は何も知らなかった。会社名も部署も、どんな業種の会社なのかさえも。
私の焦る思いが電話口で不審な人間に思われ、防犯意識の高めな会社ではあの人が在籍しているのかどうかも教えてもらえないこともあった。
こんなことじゃ一生見つけ出せないんじゃないかと、心がちぎれそうになったある晩、毛布の中でうずくまりながらあの頃あの人としていた短い会話の
記憶を辿っていた。
『配達してるとやっぱりクレームとかあるの?時間指定遅れると怒られるとか』
『そうですね、正直ザラです。今じゃもう遅れることはほぼないんですけど、時間内でもその中で遅いって理由で叱られたりはします……』
『そうなの?!そんな理不尽なことで……可哀想……』
『お客さんからしたら同じ時間帯で百件以上も回ってるなんて想像出来ないでしょうから、まぁ仕方ないんですけど。とは言え、やっぱり一生懸命走り回ってそんなふうに言われると結構精神的にきます……。誤配で怒られるなら文句ないんですけど』
『誤配?』
『荷物を別のお宅に配達しちゃうことです』
『あぁーなるほど!』
『誤配するとお客さんより断然上司にビビります。私は言っても女だしまだ優しめな口調ですけど、男性社員なんかが誤配した日にはもぉすっごい怒鳴り散らされて、まるで軍隊みたいです」
『そうなんだ……運送会社ってなんか体育会系の厳しさがありそうだもんね……』
『そうなんです!うちの営業所のスローガンなんか軍隊通り越して極道ですよ!【交わした契りは死んでも守れ!】って。それが事務所におっきく貼られてて、時代錯誤もはなはだしいっていうか……』
『……死んでも守らなきゃいけないの!?』
『一応その下に注意書きがあって【※心持ちのこと。本当に死ぬな】とは書いてあります』
『なにそれー?でもちょっと面白いね!そう言えばうちの会社もね、エントランスの壁にポエムが飾ってあるの』
『ポエムですか?有名な詩人の?』
『前会長の奥様の』
『その奥様が詩人なんですか?』
『ううん、全くの素人。ただの趣味みたい。だけどね、私そのポエム意外に嫌いじゃなくて……」
……そうだ、あの時あの人が教えてくれた唯一の手がかり。エントランスにポエムが飾られている会社を見つければいいんだ!
電話作戦はやめだ。そもそも怪しまれて教えてえてもらえなかった会社の中にすでに正解があったとしたら、これ以上続けるのは無駄でしかない。明日からは手当たり次第、足で巡って探す。
もしも、エントランスにあの人が教えてくれた言葉があったら、それがあの人のいる会社のはずだ……
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