今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第5章

第63話 もう遅くても

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 他の人じゃだめ。あの人じゃなきゃ絶対にだめなこと。それは、もしかしたら出会った瞬間から気づいていたことかもしれない。


 慣れない『幸せ』というものに触れるのが怖かった。欲望のままに動いて、まやかしの中で生きられればその方がいいと、自分の気持ちに始めから蓋をした。だけど、ただ蓋をしただけで想いはあるから、自分勝手に振り回してはそこから逃げて、自分も他人も汚して、挙げ句の果てにはあの人から離れた。


 私の重ねた罪は数え切れない。もう何もかもが遅いのかもしれない。いや、かもしれないじゃない。遅過ぎる。



 でも……



 だけどまだ、私はこんなに中谷さんが好きだ……



 間違いだらけの私に、あの人を好きでいる資格なんて全くないのは分かっているけど、だけど、でも、やっぱり中谷さんが好きだ……


 もうすべてを終わらせたあの人には、今さら何を言っても何も響かないかもしれない。そうだとしても、私はこの心の中の想いを告げたい。


 ずっと、愛されることばかりを求めていた。
 中谷さんの私を想う気持ちが本物じゃないなら、そばにいる意味はないと思っていた。  
 だけど今は違う。

 
 もちろん、出来ることなら愛されたい。でも、もし愛されることが叶わなくても私の気持ちは変わらない。



 苦しみや寂しさから、私はもう二度と逃げたりしない。



***



「すみません、第一営業部の吉井さんへ繋いで頂けないでしょうか?三ツ矢と言って頂ければ、分かると思いますので」


 受付に座る女性二人は、あの日と全く同じ顔ぶれだった。だけど、今回の私は所属部署も名前もはっきりと正確に伝え、精神的にも落ち着いて尋ねることが出来た。そのハードルさえ越えれば問題はないらしい。二人は私の顔を見てもなんの後腐れなく、初見の人間のように丁寧に対応してくれた。


 電話を繋いでもらうと、吉井さんはすぐにエントランスまで降りてきてくれた。姿を見て立ち上がり「お仕事中に申し訳ありません!」と深く礼をする私に、吉井さんは「若いのに仰々しすぎ!」と、左手を仰いで笑った。自分が足を踏み入れるには違和感のありすぎるたいそうな会社だけど、働いている人がこんなに屈託のない人だと思うと一気に親近感が湧き、少し安心した。


「中谷さんと連絡ついた?」


 そう言いながら、吉井さんは私にベンチに座るよう促してくれた。その質問に言葉が詰まると、


「……って、連絡ついてたら私に会いにこないよね!」


 とすぐに察して明るく言ってくれた。


「それでその、今日は吉井さんにお願いがあって来たんです。あの、中谷さんのシンガポールでの滞在先を教えて頂くことは出来ないでしょうか……?」

 
 前回聞いておくべきだったけど、あの時は気が動転しすぎてそこまで頭が回らなかった。


「そうだったんだね……でも、せっかく来てくれたのにごめんね、それは私には教えてあげられないの……」
「……そ、そうですよね……」
「あっ違うよ?秘密とかじゃなくて、私も知らないから教えられないってことで。……実を言うとね、私、言うほど中谷さんと親しかったわけじゃなくて。悪い意味じゃなくてね、中谷さんて孤高っていうか……そんなに自分から人に近づくタイプじゃなかったから、同期の中でも特別仲のいい人とかいなかったんだよね。たまにランチしたり、休日も無理に付き合ってもらったことはあったけど、実際プライベートまでは全く知らない仲だったから。……頼りにならなくてごめんね……」
「いえ、そんな!謝らないで下さい!」


 残念なことには違いないのに、吉井さんの話を聞いた私は、少し嬉しいとさえ感じていた。会社の人にも一線を画するような付き合いだったあの人が、私には自分から積極的に関わろうとしてくれていたことを思い出す。遥か遠くにいるあの人が、一瞬だけ近くに感じた。


「あ、でも!シンガポール支社の住所と電話番号なら教えられるよ!」
「本当ですか!?」
「うん!会社に連絡すれば本人に繋げてくれると思うよ!」
「ありがとうございます!助かります!」
「今すぐは分からないから、調べて後で連絡するよ。連絡先教えといてくれる?」
「はい!」


 私は見い出した光に胸を踊らせながら、吉井さんに連絡先を伝え再度深くお辞儀をして帰った。そして、その足で今度はそのまま営業所へと向かった。


 私服で事務所に入ると、休みなのに何事かと事務員さん達や出勤のドライバー達に絡まれた。適当に交わしながら、目的の部屋に向かいその扉をノックした。


「どうぞー」
「失礼します」


 扉を開けて入ると、私の格好を見た課長は


「今日はもう上がりか?」


 と勘違いをした。


「いえ。今日はお休みをもらってました」
「ん?休みなのに来たのか?どうしたんだよ?」
「出来るだけ早くお伝えしたくて……。課長、突然で申し訳ないんですが!退職させて頂きたいんです」


 私の発言に、課長は目を丸くして固まっていた。










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