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第5章
第64話 旅立ち
しおりを挟む出来るだけ早くという私の意向に課長が尽力してくれたお陰で、通常は退職願を出してから三ヶ月を
要するところ、二ヶ月で引き継ぎを終え退職の日を迎えた。
仕事内容は別として、もう本当に辞めるとなると、改めて恵まれていた環境だったことを実感した。こんな私なんかが去ることを、特にお世話になった事務所の方々は涙ながらに悔やんでくれて、素直に有り難く思った。
二言目には理由を聞かれたけど、そこは深く突っ込まれないよう、心苦しいながらも実家の事情だと嘘をついた。
最終日の仕事終わり、少人数でこじんまりとした送別会を開いてもらった。本当はそうゆうのは苦手だったけど、恩返しのつもりでその心遣いに乗らせてもらった。川村さんが声をかけたのか、茅野さんと深沢さんも来ていて、顔を合わせるとそれぞれと微妙な空気になった。
それでも大人な茅野さんは、どこか寂しげな顔をしながらも微笑みを絶やさず普通に話してくれた。一方の智鶴は、ならどうして来たのかと不可解なほど終始怒った顔をしていた。
だけど送別会が終わり、店を出てみんなと解散する時、酔った智鶴は最後に意外にも「お世話になりました!」と大きな声で私に頭を下げた。顔を上げるとその頬には涙が伝っていて、そんな智鶴の肩を支えたのは茅野さんだった。
***
送別会の次の日の朝、私は空港にいた。
9時47分発、シンガポール行き。
吉井さんから教えてもらったシンガポール支社の電話番号には敢えてかけず、私は直接あの人の元へ会いに行くことにした。
こんなにも離れてしまった心と距離を埋めるのに、頼りない電波に託すにはなれなかった。それに何より、会いたかった。
海外旅行どころか、国内でも飛行機にすら乗ったことのない私は、この為に初めてパスポートを作り、初めてキャリーケースを買った。
英検3級の壁すら乗り越えられなかった私はこの二ヶ月、本屋で買った『中学英語のおさらい』という基礎中の基礎の本を毎晩読んで、語学の準備をしてきた。
そして、万一墜落するなら、あの人に会えてからにして下さい……と天に祈り、初めて空へ旅立った。
成田空港からシンガポールのチャンギ国際空港までは直行便で約8時間。その間私は、ついにあの人に会えるという喜びと、もしかしたら会えないで帰りの飛行機に乗ることになるんじゃないかという不安を行き来して忙しかった。
胸の高ぶりで一睡も出来ないまま、ついに私はあの人のいるシンガポールへと降り立った。
その日はもう遅かったので、空港からバスに乗り、予約していたホテルへ向かってそのまま休むことにした。
次の日、全く分からない電車の乗り方に戸惑いながらも、観光ブックを片手に、なんとか昼過ぎにはあの人の勤めているというオフィス街に着くことが出来た。美しく洗練されたデザインのビルがいくつも立ち並ぶ近代的な街には、至るところに緑も溢れていた。その光景はまるでゲームの中みたいで、自分の置かれている状況も相まって、とても現実世界とは思えなかった。
シンガポールなんて全く知らなくて、想像ではもっと栄えていない国なのかと思っていたけど、とんでもなかった。私が住む街なんか足元にも及ばないほどの見知らぬ大都市に、一人きりの私はとても心細くなった。
早くあの人に会いたい……
分かりづらい地図を何度も何度も睨みながら、どうせ人に聞いても説明がを理解出来ないだろうと、試行錯誤して、夕方頃、なんとか自力であの人の会社を見つけ出した。
そこはあの立派な日本の支社より更に豪華な作りで、ここまで来て私はまた怖気づいてしまった。
日本同様、エントランスには受付らしきものがあったけど、どう見ても座っているのは現地の人だ。
恐る恐る、話しかける。
「エクスキューズミー?アイム ジャパニーズ……あと、えーっと……ドゥ ユゥ ノー……えー…」
拙すぎて自分でも泣けてきそうな英語を必至に話していると、
「ニホンゴデドウゾ」
と、意外な言葉が返ってきて、拍子抜けしてしながらもホッとした。
「すみません!こちらの会社に、中谷かこさんという日本人が働いていると聞いたんですが……」
海外だから日本よりさらにセキュリティーが厳しいかもしれない……そんな心配をよそに、受付の女性はニコっと微笑み、
「ショウショウオマチクダサイ」
と、いきなりどこかへ電話をかけ始めた。すぐに繋がったようで、何語だか分からない言葉で誰かと
話をしている。
「シツレイデスガ、アナタノオナマエハ?」
と聞かれ
「ミ・ツ・ヤです」
と、私はなるべく分かりやすく答えた。
「オトリヒキサキノカタデスカ?」
例のこの質問にはこざかしい嘘はつかず、
「知り合いです」
と伝えた。その後も彼女と電話の主との会話は
まだ続いた。すぐに話がまとまらないところを見て、また何か不具合があるのかと心配になる。ようやく電話が終わると
「イマ、キマス。シバラクオマチクダサイ」
彼女は確かにそう言った。
「えっ!?来るんですか?!今、ここに!?」
「ハイ」
こんなにもトントン拍子に進むとは思っていなかった。
ついに……
ついに会える………
斜め前にあるエレベーターのランプが動き出し、上から下へと点滅が降りてくる。
あのエレベーターに乗っているのかもしれない……
どんどんどんどん歯止めなく鼓動が早くなってゆく。
目で追っていたランプが一階まで到着し、 扉が開く瞬間……
「ミツヤさん?」
思わぬ方向から声をかけられ左を向くと、そこには日本人らしき白髪混じりの少しふくよかな年配の女の人が立っていた。
「あ……はい、そうです」
拍子抜けしながら返事をする。
「こちらへ旅行のついでに、お友達に会いにいらっしゃったのかしら?」
ご婦人は私の背中に背負った大きなリュックを見てから、その目を細めて優しい笑顔でそう言った。
「……はい、そんなような感じです……」
濁しながら返事をすると
「……中谷さんね、数ヶ月前から建築中の現場の方に滞在してて、こっちには居ないんですよ。わざわざ来てくださったのごめんなさいね……」
と申し訳なさそうに言われてしまった。
そんな……
どんだけ離れ離れの運命なんだろうと、愕然とした。
それでも、ここまで来たんだ!!
「あの、その現場の場所を教えて頂けませんか!?」
「そこまでいらっしゃるの?でもかなり遠いですよ?長距離バスで6時間はかかるから……」
「構いません!」
私がそう言うと、
「素敵なお友達ですね」
とご婦人はニコッと笑った。私が何も返せず固まっていると、
「それなら、滞在してる現地のアパートの住所お教えしましょうか?少しお時間いいかしら?」
と願ってもないことを言ってくれた。
「もちろん、待たせて頂きます!お手を煩わせて申し訳ありません!……でも、アパートの住所なんて教えていいんですか?その……見ず知らずの私に……」
「そんなこと聞く方は悪い方じゃないでしょう?それにあなたは、中谷さんの雰囲気によく似てらっしゃるから。すごく仲のいいお友だちなんだって分かりますよ」
私と中谷さんが似てる……?
外見じゃなく雰囲気の話だとしても、全く同意出来ないけど、ご婦人には見えないものが見えるんだろうか。ともあれ、予想打にしないそんなことを言われて私の心は躍ってしまった。
しばらくして再び戻ってきたご婦人は、しっかりとしたカード型のメモにあの人の住所を書いて渡してくれた。
「早く会えるといいですね」
「ありがとうございました!」
ご婦人に心からの感謝を伝えて私はビルを出た。
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