今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第5章

第66話 開かれた扉

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 再び一人になったアパートの廊下、立ち上がった私はそれから動けなかった。


 行きの飛行機の中でよぎった、結局会えずに帰りの飛行機に乗るというあの仮想が現実味帯びてくる。唯一の相棒のように遠いこの地まで一緒にやって来た真新しいキャリーケースも、私と同じでどことなく惨めに見えた。


 仕事を辞めここまでやって来たのに、あの人にはすでに相手がいた。しかも、ひと目会うことすらも拒絶されてる……。


 そんな……こんなことって……


 悲しくて、虚しくて、悔し涙がにじんできた。ぼやけた視界で、私を拒んだ無機質な鉄の扉を恨めしくじっと見ていた。だけどそうしていたら、じわじわと別の感情が押し寄せてきた。


 ……この扉の向こうにあの人はいるんだ……。
 ずっと会いたくて、ずっと会えずにそれでも追い求めたあの中谷さんが、すぐそこにいるんだ……


 その事実を思うと、マイナスなことなんて全部そっちのけで、なんだか感激してしまった。


 拒絶されたからってなんだ。
 何を生意気に傷ついてるんだ。
 そんなのされて当然のことだ。私があの人にしてきたことがただ返ってきてるだけじゃないか。そんなことで諦めたりなんかしない……。


 感傷的な自分は捨てて気を取り戻す。でも、しっかりと断られたのに、これ以上しつこくベルを鳴らしたり扉を叩いたりすることはもう出来ない。本人たちにもご近所にも迷惑になってしまう。


 策を考えた私は、予約したホテルのベッドで眠ることを断念し、そのままこの場で朝を待つ選択をした。朝になれば、彼女は仕事に行くためにこの扉から出てくるはずだ。


 わずかな時間しかなくても、一目でも顔を合わせられれば、何かが変わってくれるかもしれない。もうその可能性にかけるしかなかった。


 また時計を見る。朝まではかなりある。昼は肌を照り苦しめられた暑さだったけど、夜はそれが幸いした。街灯がなければすっかり暗くなった時間でも半袖姿で問題なく、多少の汗を拭うくらいでなんとかその場に留まれそうだった。


 住人の帰宅も途絶え、自分以外誰もいない空間で、腕時計のかすかな秒針だけが耳に聞こえていた。朝へ淡々と歩みを続ける針に祈りを込めるようにして朝を待った。



 どうかこの想いが届くことを願って……



 もう眠気はどこかへ行き、私はその場にもう一度腰を下ろして、ぼーっと黙って静かに佇んでいた。扉とは反対側の何もない廊下の方へと首を向け、あの人との思い出をひとつづつ振り返って何時間かが過ぎた頃だった。


 ガチャ……ゴンッ


 背後から予兆もなく物音がし、びっくりして立ち上がった。動いてしまっていたキャリーケースが開いた扉にぶつかっていた。


「あっ……ごめんなさい!」
「入って……」


 その隙間から顔を覗かせていたのは才原さんだった。


「……いいんですか?」
「夜中にそんなところにいられたんじゃその方が困るわ」
「すみません……」


 気が変わって会う気になってくれたんだ……
 突然緊張が高まり、うつ向きながらついに扉の中へと入っていった。


 玄関からさらに奥へ入っていくとそこは、古びた木のテーブルが陣取るこじんまりとしたリビングになっていた。比較的さっぱりとしたその空間にあの人の姿がないことは明らかだった。


 突き当たりには綺麗に使われているキッチンと、薄黄色のカーテンで覆われた小窓が。リビングを挟んで左側と右側には、それぞれ閉められた同じ色の扉があった。


「こっちが彼女の部屋よ。この中に彼女がいる」


 左側の向いて才原さんはそう言った。だんだんと縮まる距離に喜びを感じながらも、わずかながらも確かに感じる二人の生活感を目の当たりにし、説明のつかない痛みが胸を走った。


 あの人の部屋の扉脇には、ナチュラルな色をした引き出し付きの小さな台があった。その上にレトロな置時計が置いてあるのを見つけて時間を見ると、もう夜中の二時を指していた。いつのまにかそんな時間になってたんだ……


「座って」


 手持ち無沙汰に居心地悪く立っている私に、グラスを二つ手に持った才原さんがそう言いながら、それをテーブルに置いた。


「ありがとうございます……」


 4人がけサイズのテーブルだったけど、イスは向かい合うように2つしかない。特に指示がなかったので、私は手前のイスを選んで背もたれを引いた。私が座ると、才原さんも向かいに腰を下ろした。


「少し癖があるから口に合うか分からないけど……」


 頭を下げて出された冷たいお茶を一口飲む。飲んだことのないいかにも異国の味がしたけど、嫌いじゃないと思った。


 爽やかな後味にほんの少し落ち着きを取り戻すと、横目でまた左の扉をチラリと見た。私を家の中へ入れてくれたのはあの人の意思だったのか、それとも才原さんの気遣いなのか、開きそうもない扉を見てると後者のような気がした。


 思い切って確認しようとした時、


「有給でも取って来たの?それとも早めの夏休み?」


 先に才原さんに話しかけられた。


「つい先日、仕事は辞めました」
「そうなの?!それって、こっちに来るために?」
「元々、中谷さんに出会う前から辞めるつもりでいたんです。でも、そんな中偶然中谷さんに出会ってしまって、辞めるなんて出来なくなって……。だから、中谷さんが居なくなったら、仕事を続ける意味はなくて……」


 きっと私の声は部屋の中にいるあの人に届いているだろう……。だけど、だからと言って下手な意識やかっこつけるようなことはしないで、ありのままの素直な気持ちを言葉にしようと思った。


「……そう。簡単に辞められる仕事で羨ましいわ」


 馬鹿にされたと思ったけど、口をつむんで我慢した。すれでもその感情は完全に隠せていなかったのか、私の顔を見て才原さんが笑った。


「冗談よ、そんなこと思ってないわ。あなたの仕事は世界を動かす立派な仕事だと思う。それにあなた自身、真面目にしっかりと仕事をしてきた人でしょうね。私、そういう点では人を見る目あるのよ」
「……別に私は普通に仕事してただけですけど……」
「真面目な人はそんな自分の姿勢を、当たり前だと思うものなのよ。決して自分を過大評価したりしない。あなたのその言葉が証拠だと思う」


 今までの常にどこか冷たい態度はそこになく、私を諭すように話す才原さんは、穏やかで人間の出来た人に思えた。当然ながら精神がブレブレの私とは違って、落ち着いていて大人だ……。
 あの人が惹かれてしまったことも想像が出来なくない……。


「どんな仕事にも同じように責任がある。でも同時に、それを最優先するほどの責任はない。人生に置いてはね」


 話の行方がどこへ向かってるのか、私はいきなり分からなくなった。知能指数の差だろうかと少し尻込む。

 
「 私、バリバリの仕事人間のように見える?」
「……それはもう……」
「でしょうね。仕事の為に生きて、仕事をしていなければ死んでしまうような人間によく思われるわ。……でもね、それは少し違う。仕事はもちろん好きだけど、それ以上に大切なものがないだけなの。だから仕事に没頭するしかないの」


 グラスの水滴を見つめながら才原さんは、寂しそうに見えた。


「心から本当に大切なものがあると、人は何でも犠牲に出来るものなのかしら……出来なかった私は『大切』なんて言葉を使ったらいけないのかしら……」

 
 少し酔ってるんだろうか?
 呟くようにそう口にした才原さんは、かすかに潤んだ瞳をしていて、唇を軽く噛んで何かを堪えていた。
 

「あの、大丈夫ですか……?もしかして、お酒でも飲まれました……?」


 答えが返ってくる前に、お酒の空瓶らしきものがキッチンの調味料の前にあるのを見つけた。


「……少しね。でも酔ってなんかないわ」
 
 
 言った通り、シラフと変わらない口調でそう言い捨て、才原さんは椅子から立ち上がった。そして、あの人の部屋に向かって歩き出した。私はその唐突な動きを、驚きながら目で追った。


 部屋の前に立つと、才原さんはノックもせずに勢いよくその扉を開けた。思わず腰を上げて急いで近寄り、完全に開いた部屋の中を覗く。


 すると、目の前には綺麗に整頓されたベッドと
備え付けの収納と机以外は何もない、主を失ったような殺風景な部屋があった。


「朝になるまで、そのベッドで眠ったらいいわ」
「ど、どうゆうことですか?!   中谷さんは?!」
「彼女はね、もうここには居ないの。ごめんなさい、少し意地悪をしてしまった」
「……えっ!?」
「こっちに来た当初は彼女、張り切り過ぎなくらい元気に明るく仕事に打ち込んでた。私には、彼女がそうやってあなたを無理して忘れようとしてるんだって解ってたわ。だから、私はそれを信じて待つことにしたの。彼女があなたを完全に忘れて、私の胸に飛び込んでくるのをね……。正直、これだけ離れた場所で時が経てば、次第に彼女の中のあなたは消えていくだろうって、そう思ってた。……だけど、時が経つにつれて彼女の中から消えていったのは、あなたの記憶じゃなくて、彼女自身だった……。ここに移って来た頃には、もう私に対して嘘の笑顔すら作れなくなってた」


 才原さんは空になったベッド眺めながら話していた。


「私がいくらこれからの幸せな未来を語っても、彼女の耳にはまるで入らなかった。二人だけで同じ時間を過ごせば、ゆっくりと私の想いを受け入れてくれるものだと信じてたけれど、あの子は……毎晩毎晩このベッドで、遠く離れたあなたを想って泣いてたわ」


 そのベッドの上、静かに涙を流すあの人の姿が見えた気がした。


「……それでついにね、泣きながら私に何度も頭を下げて彼女はこの部屋を出て行ったの」
「どこに行ったんですか!?」
「日本に帰ったわ」


 一瞬息が止まった。
 でもすぐに質問を続けた。


「会社は?仕事はどうしたんですか?!」
「……辞職した。せっかく掴んだキャリアをあっさり捨ててね……」
「辞めるなんて……海外赴任までしてた人が、そんなこと許されるんですか!?」
「……許されるか許されないかと言ったら、許されないでしょうね。重要なポジションを与えられて、任されたプロジェクトだしね」
「……そんな……」
「 ただでさえ、何年も勤めた会社を辞めるってことは簡単なことじゃない。その上、選ばれ抜いて出向いた海外の赴任先から舞い戻って退職なんて……。でもね、そんなこと出来ないと続ける人間は、責任があるからなんて言っても結局は、そんなことしたら気まずいから。沢山の人に頭を下げて回ることが面倒だから。そして何より、自分が今まで何年もかけて築きあげたものを失うのが怖いからよ……。私の立場だって究極は、会社を辞められないわけじゃない。拘束されて働かされてるわけじゃないんだから。沢山の優秀な社員の中で、私の代わりを出来る人が一人もいないわけじゃないんだから。でも、私はその道を選ばなかったし、中谷さんは選んだ……そうゆうことなのよ」
「………あの、中谷さんはどうなるんでしょうか?そんな辞め方して、なんらかの責任とかとらされるんですか……?」
「……普通なら、ただでは済まされないでしょうね。最低でも何ヵ月か前に依願届を出して、完璧に引き継ぎをしてから辞めるならまだしも、唐突に現場を離れたわけだし。何かしらの制裁を受けるのがセオリーだけど……でも安心して。それくらいは私がなんとかするつもりでいるから。彼女はどんな状況になっても責任をとるって覚悟を決めてたけど、その必要はないわ。こうなることを全く予想をしてなかったわけじゃなかった。彼女の弱みにつけこむようなことをして、無理に連れてきた私の責任も小さくないと思ってる。だから、それくらいの罪滅ぼしはしたいと思ってる。最終的にああなるまで追い詰めてしまったの原因は私にある。実際、心身ともに憔悴してしまっていたのは事実だし、上から何も咎められないよう私の方で上手くやるから」
「……ありがとうございます」


 私のほっとして、深々と才原さんに頭を下げた。


「あなたにお礼を言われるのは心外な気もするけどね」
「すみません……」
「そろそろ……寝ましょうか」


 誰にも言えなかったことを吐き出して少し楽になったように、才原さんはさっきまでよりシャンと立って少し笑った。


 朝になるまで、借りた中谷さんのベッドの上で横になった。浅い眠りだったけど少しだけ眠った。錯覚かもしれないけどまだ少し香りが残っているような気がして、脳裏に焼き付いたままの感触を思い返しながら、ここにはないあの体を抱いた。















 
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