今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第5章

第68話 矛盾

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 自分が何をしているのか分からない。
 どうしたいのかも分からない。


 全てを捨てて日本に帰ってきたのは強い意思なんかじゃなかった。ただ、あそこにいるのが本当に無理になっただけ。


 あの夜、現場から二人で部屋の中へ入った瞬間、私は上着も脱がず腰も下ろさずに、たった今完全に堪え切れなくなった苦しい胸のうちを、才原部長に話した。


 いつまでと期限の決められていないこの海外赴任の任務を降りたい……そして、会社を辞めて日本に帰りたい……と、責任ある大人が口にするとは到底思えない、自分勝手で切な願望をそのまま伝えた。その姿は、駄々をこねる聞き分けのないワガママな子どものようだったと思う。


 才原部長は仕事に関してはとにかく厳しい人だ。それでなくてもあまりの身勝手さに、下手をすれば頬くらい叩かれてもおかしくはないと思った。だけど、余裕がなくて言葉に小さな気遣いさえもなかった私の訴えに、才原部長は何一つ怒りの言葉を浴びせることはなかった。


 それどころか、私の感情に任せたまとまりのない話を、その後も相づちを打ちながら真剣に気の済むまで延々と聞いてくれた。そして、ようやく長い話が終わると、泣き崩れた私の背中を温かい手で擦った。

 
 どのくらいか、二人で言葉を無くす時間を過ごした後、才原部長はおもむろに口を開き『夜が明けたらすぐに日本に帰って構わない』と言った。


 自分で言い出したくせにそんなことが本当に許されるのかと、私は利己的な確認をした。ここへの赴任は、名だたる先輩方を蹴落として得た大きなチャンスだった。それを、飽きたオモチャを捨てるように放り出すなんて許されるはずがない。


 だけど、そんな支離滅裂なことを言う私に、才原部長はむしろ、自分が私を壊してしまったと悔いて謝った。そして『後のことは全て自分がどうにかするから、とにかくあなたはすぐに日本に帰りなさい』と優しい笑顔を向けた。


 もちろん、才原部長のせいなんかじゃない。私は自分で決断してここまで付いてきたんだから。こんな状況で会社を辞めたいと言っている時点で迷惑以外の何物でもないけど、それでもせめて、才原部長への負担は出来るだけ減らしたかった。辞めることが叶うなら、私はどれだけでも誰にでも、頭を下げに回るつもりでいた。でも才原部長は、上司としての最後の指示だと思って自分の言うことを聞いて欲しいと言った。


 そうして私は次の日、結局馴染むことの出来なかったあの街を飛び立った。


 才原部長はからは、上へは業務に支障をきたす体調不良と伝えると言われた。退職の手続きは急ぐことはないから、日本に戻ったらしばらく好きな時間を過ごしてゆっくり休むようにと、温かい言葉までもらった。


 最後の別れの時、何度も頭を下げる私に部長は『もうそんなに謝らなくていい』と苦笑いをしながら左手を上げて見送ってくれた。




 以前住んでいたマンションは海外赴任の前に出払ってしまい、私には日本に戻ったその日からその夜を越せる場所さえ無かった。


 とりあえずは以前住んでいた街から近い安価なホテルに身を置くことにして、そこを拠点に新居を探すことにした。部屋探しを始めて数日が経った頃、不動産屋さんへ向かっている時、もしかしたらとあることを思い立った。


 あの部屋が今も空室なんてことはないだろうか?


 あと数十mで目当ての不動産屋さんに着くというところで矛先を変え、約半年ぶりに、懐かしくも苦さの残るあの街へと向かった。


 マンションの玄関をくぐると、目に映る景色がはるか昔のように感じた。少し緊張しながら集合ポストを見てみる。出て行く時に貼った『引っ越しました』の貼り紙は無くなっていたけど、代わりのネームプレートも見当たらない。


 かすかな可能性を胸に誰もいないエレベーターに乗り込み上のボタンを押した。エレベーターを降りて部屋の前まで行ってみたけど、そこにも表札らしきものは何も無かった。だとしてもこのご時世、それだけで誰も住んでいないとは言い切れない。


 そうだ!とひらめいて、今度は扉の左上にある電気メーターを確認してみた。止まってる……?そう期待を抱いたその時、扉の中から小学生くらいの女の子のお母さんを呼ぶ声が聞こえた。


 決定打を浴びた私は、彼女と初めて出会ったその場所であの頃の彼女の笑顔を思い出していた。あの顔を頭に思い浮かべるだけで、今でも『可愛い……』とつい声になりそうになる。


 私のものになったこともなかったけど誰のものでもなかった彼女は、今ではきっと誰かのものになってる。日本を旅立つと決心したあの夜、コンビニで偶然会ったあの子、茅野さん……。今はもうあの子のものなのかもしれない。


 このマンションの駐車場で二人がキスをしているところも見た。私の体を愛おしそうに感じさせたあの手で、今は毎晩あの子の体を抱いてるのかもしれない……


 そんなこともうずっと前から想定していたことなのに、涙が滲み始めた。その時、部屋の中から赤ちゃんの泣き声が響いてきて我に帰り、私はその場を後にした。



***



 こないだは思いつきであんな行動をしてしまったけど、思えばあのマンションにもう一度住むのは間違いだと思った。


 あそこに住めば、以前のように何かしらの機会で彼女に出くわしてしまう。あのマンションどころか、彼女の配達区域に住むことは避けた方がいいと思った。


 忘れちゃいけない……。
 私は彼女に、二度と会わないと約束をした。そして、彼女もそれを受け入れて望んだから、私に連絡をしなかった。


 こうして日本に帰ってきたのはそういうことじゃない……。心と体がバラバラでやっていることが矛盾してるけど、しっかり自分を制御しなきゃいけない。新しい道を歩んでいる彼女の邪魔をするようなこと、絶対にしちゃいけない。


 もうとっくに私に対して恋心なんてないにしても、せめて彼女に嫌われたくはなかった。


 それから数日、何件かの不動産屋を回り、彼女の配達区域から何駅か離れた見知らぬ街にようやく部屋を借りることが出来た。家具から何から全て処分してしまったので、引っ越してからというもの、あの頃以上に沢山の宅配便が日々届いた。


 その中には彼女と同じ会社の制服を着た人もたまにいた。荷物の伝票を見ると、印刷された営業所名は彼女と同じだった。彼女がその後どうしているのか様子が気になって仕方なかったけれど、それを聞くことは必死に我慢した。


 シンガポールへ行く前私は、彼女に伝えていた番号を解約した。そのまま使っていたら永遠に彼女からの着信を待ってしまう自分が簡単に想像出来て怖かった。


 才原部長には、落ち着いたら会社のメールアドレスで連絡を取り合うことを提案された。それなら私のタイミングで返事が出来るし、プレッシャーも電話ほどではないだろうからとのことだった。どこまでも人の気持ちを気遣ってくれる人間性に、ほとほと頭が下がる。


 新しい部屋を借りたこと、体調のことなど、一段落した段階でメールを送るとすぐに返事が来た。体や心の調子に気を配ってくれながらも、それ以上の余計なことは一切なく、あとは退職に向けて問題なく進みそうだという、私を心配させまいとする業務連絡だけだった。


 特に親しい友人も持ってこなかった私のスマホは、彼女からはもちろん、他の誰からも連絡があるわけじゃない。あまり執着のない私には、同世代の子たちのように肌身離さず常に手にする感覚はなく、むしろ手元よりも少し離れた棚の上に無造作に置いていた。


 ある夜、ソファーに座りながら、少し離れた場所にあるスマホをじっと見つめ、彼女からかかってこないかと期待している自分に気づいた。彼女はこの番号を彼女は知らないんだから、そんなことはあるはずがないのに。


 私は本当に壊れてしまったんだろうか?
 私は本当に何の為に帰ってきたんだろう。
 彼女が恋し過ぎて日本へ帰りたいと願ったけど、戻ったところで彼女に会うことはもう一生出来ないと分かっていたのに……。


 日本に戻りさえすれば、あの苦しみが少しは和らいでくれると思っていた。だけど、実質的な距離が縮まってもなんにも変わらない。それならやっぱり、無理にでもあのまま居るべきだったのかな……


 毎晩訪れる夜を、海の向こうに居た時と変わらず、私は泣いて泣いて泣いて過ごした。



 ある日の夕方、




 ピーンポーン……



 いつものようにチャイムが鳴った。この音を聞くたび、今日は何かの間違いで彼女が来てたりして……と、しつこいほど頭によぎる。でももちろんそんなことは起きない。


 扉を開けて荷物を差し出すその人は、彼女と同じ配送会社のおじさんだった。もうすでに顔見知りの気のいいそのおじさんから荷物を受け取った時、全く意図せずに口からポロリと質問が出てきた。


「あの、そちらの営業所に三ツ矢さんて女性のドライバーさん、いらっしゃいますよね?」

 
 自分の声を聞いて後悔した。でも時はすでに遅い。開き直っておじさんの返事を待つ。せめて元気かどうかだけでも知れれば、それだけでいいから……。たった1秒ほどの間に、そんな言い訳をした。


「あー、三ツ矢ですね!確かに居ましたけど、少し前にもう辞めちゃいましてね。……何かありましたか?」


 思いもよらなかった返答に、喉で声が止まって出なくなってしまった。そんな私の様子におじさんは困りながらも諦めて、丁寧にお辞儀をして扉を閉めた。






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