69 / 77
第5章
第69話 心のまま
しおりを挟む何もかもが全て消えた。
あの頃の二人はもう幻のように思えた。
私が彼女の前から去ったように、彼女もまた私を避ける為に仕事を辞めてしまったのだろうか……
確かに駐車場で断られた時、彼女は仕事を辞めると言っていた。だけどその後も続けているところを見て、いつからか勝手にその可能性を消していた。
あんなに毎晩泣いていたけれど、その夜はなぜか涙が出なかった。想いを涙に変える力すら無くしてしまった。それから三日間はほとんどベッドの上で過ごした。食事もろくにとらず、電気もつけず、インターホンのチャイムが鳴っても出ることは出来なかった。
生活が不規則になり、眠れないまま四日目の朝日がのぼってくるのを見た。東京でちゃんと日の出を見るのは初めてかもしれない。都会にありふれた9階建ての賃貸マンションのベランダからでも、その光は胸にまで差し込むほど綺麗だった。
彼女が今どこにいるのかは分からない。でも、どこに行ったとしても、この同じ太陽の下にいる。そう考えていたら、なんだか嬉しく思えてきた。
寝不足の疲れた顔を冷たい水で冷やし、出かける準備をして早々に家を出た。そして、あの頃使っていたあの駅へ降り立ち、目当ての時間の電車がホームに到着するのを待った。
なんて諦めが悪いんだろう。
期待したことが叶ったことなど一度もないのに、どこかでずっと彼女を信じてしまう。
あの頃、私の体を毎朝情熱的に求めたあの手は、今もまだ忘れられずに私を求めて彷徨っている……。そんな自意識過剰な思いが、やっぱりどうしても私の中から完全に消え去らない。
まるで昨日のことのように、私は決まった位置に立っていた。早く着きすぎてしまったため何本か見送ってから、あの電車はやって来た。
大勢の人間を乗せた車両が、歪んだ音を出しながら目の前でゆっくりと止まる。開いた扉から、押し込まれるようにしてその車両に乗った。半年経っても不思議と人混みの中でいつもの場所をキープする術は失っておらず、私は難なく扉のすぐ近くの手すりに掴まることが出来た。
電車が発進する。
ここから三駅過ぎたところから、いつもあの愛しい手は私に触れ始めてくれていた。
現実的には何も起きることはないと理解しながら、それでもその駅へと近づくにつれて無駄な緊張が高まっていった。そして、ついにその駅に着いた。
目をつぶり、後ろを振り返らずに手すりを握りしめた。
出会えるはずない。
触れてもらえるはずがない。
期待するだけ、惨めで恥ずかしくなるだけ……
きっと今日の夜もベッドに顔を埋めて苦しむだけ……
でも……
たったの二回しかなかった彼女と体を合わせたあのぬくもりが、どこまでいっても私を諦めさせない。あの時、言葉では何も交わさなかったけど、私たちは私たちだけの何かで繋がっていた。それを感じていたのは私一人じゃなかった。あの時の彼女の瞳は私と同じことを思っていた。
それが思い過ごしじゃないのなら、彼女がもし今でも私を求めてくれることがあるとするなら、二人が再び出会える場所はここしかない。
その駅での乗客が全員車両へと乗り込んだところで、電車は扉を閉めた。ゆっくりと音を立てて走り出す。
まだ……
背中にまだ手の感触はないけれど、まだ分からない……。
スピードは次第に上がっていき、ピークに達した。
あの頃ならもうとっくにあの手が背中に置かれている時間だ。私はまだ目を閉じて待った。やがてやって来る絶望に怯えながら、強く強く目をつぶった。
そのまま数分が経ち、電車は速度を緩め始めた。次の駅への停車準備でブレーキがかかる。
やっぱりそうだ……
解っていた。
あの手が私の体に触れてくれることはもう二度とないんだ……
こうなることは分かっていたのに、涙がこぼれてきた。混み合った車内で、周りにはたくさんの人がいるのに、感情が抑えられない。
いつのまに私はこんなに弱くなってしまったんだろう。私はこんなんじゃなかった。他人の前ではいつだって、心を隠せたはずだった。
それどころか、一人の部屋でも涙を流すことなんてなかった。
全部彼女のせいだ……
彼女を好きになって、私は独りでは生きられなくなってしまった。私をこんな惨めにするのなら、いつでもすぐに抱きしめられるくらい側にいて欲しかった。……私の心も体もすべてを奪ったあげくに、どこかへ行ってしまうなんて……
……酷い。
私は初めて彼女を憎んだ。
その時だった。
「……そんなに私が好きですか?」
耳元で、私にしか聞こえない小さな声がした。
それは、恋しくて恋しくて夢にまで聞いたあの声だった。
12
あなたにおすすめの小説
幼馴染みのメッセージに打ち間違い返信したらとんでもないことに
家紋武範
恋愛
となりに住む、幼馴染みの夕夏のことが好きだが、その思いを伝えられずにいた。
ある日、夕夏のメッセージに返信しようとしたら、間違ってとんでもない言葉を送ってしまったのだった。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる