今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第5章

第69話 心のまま

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 何もかもが全て消えた。
 あの頃の二人はもう幻のように思えた。


 私が彼女の前から去ったように、彼女もまた私を避ける為に仕事を辞めてしまったのだろうか……


 確かに駐車場で断られた時、彼女は仕事を辞めると言っていた。だけどその後も続けているところを見て、いつからか勝手にその可能性を消していた。


 あんなに毎晩泣いていたけれど、その夜はなぜか涙が出なかった。想いを涙に変える力すら無くしてしまった。それから三日間はほとんどベッドの上で過ごした。食事もろくにとらず、電気もつけず、インターホンのチャイムが鳴っても出ることは出来なかった。


 生活が不規則になり、眠れないまま四日目の朝日がのぼってくるのを見た。東京でちゃんと日の出を見るのは初めてかもしれない。都会にありふれた9階建ての賃貸マンションのベランダからでも、その光は胸にまで差し込むほど綺麗だった。


 彼女が今どこにいるのかは分からない。でも、どこに行ったとしても、この同じ太陽の下にいる。そう考えていたら、なんだか嬉しく思えてきた。


 寝不足の疲れた顔を冷たい水で冷やし、出かける準備をして早々に家を出た。そして、あの頃使っていたあの駅へ降り立ち、目当ての時間の電車がホームに到着するのを待った。


 なんて諦めが悪いんだろう。
 期待したことが叶ったことなど一度もないのに、どこかでずっと彼女を信じてしまう。


 あの頃、私の体を毎朝情熱的に求めたあの手は、今もまだ忘れられずに私を求めて彷徨っている……。そんな自意識過剰な思いが、やっぱりどうしても私の中から完全に消え去らない。


 まるで昨日のことのように、私は決まった位置に立っていた。早く着きすぎてしまったため何本か見送ってから、あの電車はやって来た。


 大勢の人間を乗せた車両が、歪んだ音を出しながら目の前でゆっくりと止まる。開いた扉から、押し込まれるようにしてその車両に乗った。半年経っても不思議と人混みの中でいつもの場所をキープする術は失っておらず、私は難なく扉のすぐ近くの手すりに掴まることが出来た。


 電車が発進する。


 ここから三駅過ぎたところから、いつもあの愛しい手は私に触れ始めてくれていた。


 現実的には何も起きることはないと理解しながら、それでもその駅へと近づくにつれて無駄な緊張が高まっていった。そして、ついにその駅に着いた。


 目をつぶり、後ろを振り返らずに手すりを握りしめた。


 出会えるはずない。
 触れてもらえるはずがない。
 期待するだけ、惨めで恥ずかしくなるだけ……
 きっと今日の夜もベッドに顔を埋めて苦しむだけ……



 でも……



 たったの二回しかなかった彼女と体を合わせたあのぬくもりが、どこまでいっても私を諦めさせない。あの時、言葉では何も交わさなかったけど、私たちは私たちだけの何かで繋がっていた。それを感じていたのは私一人じゃなかった。あの時の彼女の瞳は私と同じことを思っていた。


 それが思い過ごしじゃないのなら、彼女がもし今でも私を求めてくれることがあるとするなら、二人が再び出会える場所はここしかない。


 その駅での乗客が全員車両へと乗り込んだところで、電車は扉を閉めた。ゆっくりと音を立てて走り出す。



 まだ……



 背中にまだ手の感触はないけれど、まだ分からない……。



 スピードは次第に上がっていき、ピークに達した。



 
 あの頃ならもうとっくにあの手が背中に置かれている時間だ。私はまだ目を閉じて待った。やがてやって来る絶望に怯えながら、強く強く目をつぶった。


 そのまま数分が経ち、電車は速度を緩め始めた。次の駅への停車準備でブレーキがかかる。



 やっぱりそうだ……



 解っていた。



 あの手が私の体に触れてくれることはもう二度とないんだ……




 こうなることは分かっていたのに、涙がこぼれてきた。混み合った車内で、周りにはたくさんの人がいるのに、感情が抑えられない。


 いつのまに私はこんなに弱くなってしまったんだろう。私はこんなんじゃなかった。他人の前ではいつだって、心を隠せたはずだった。


 それどころか、一人の部屋でも涙を流すことなんてなかった。



 全部彼女のせいだ……



 彼女を好きになって、私は独りでは生きられなくなってしまった。私をこんな惨めにするのなら、いつでもすぐに抱きしめられるくらい側にいて欲しかった。……私の心も体もすべてを奪ったあげくに、どこかへ行ってしまうなんて……




 ……酷い。




 私は初めて彼女を憎んだ。




 その時だった。





「……そんなに私が好きですか?」




 耳元で、私にしか聞こえない小さな声がした。





 それは、恋しくて恋しくて夢にまで聞いたあの声だった。











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