今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第5章

第70話 埋め合わせ

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 目で見て早く安心したくて振り返ろうとすると、再び耳元で


「……もう少しこのままでいて下さい」


 そう言われ、私は言うことを聞いた。


 停車した駅で人の乗り降りが落ち着き、扉が閉まる。私たちを乗せた電車が再びスピードに乗り始めると、後ろから腰のあたりに右手が添えられた。以前のようないやらしい手つきじゃない。微動だにしない指先から、私を想う愛おしさが伝わってきた。


 次の駅に着く間の3分間、私は、これが夢でありませんように……と奇跡のような幸せが現実であることを願っていた。


 そして、また停車に向かって一段階スピードが下がった時、再び小さな声が聞こえた。


「次で降りましょう」


 揺れに乗じてのわざとなのか偶然なのか、少し冷えた唇が耳に当たった。それだけで私の体には、確実に記憶されているあの忘れられない感覚に、電気が走るような反応を起こした。息を飲んで表には出さずに耐える。


 やがて目の前の扉が開くと、私の腰にあった手が離れた。繋がるものが無くなった瞬間に不安が押し寄せそうになる。でも、そんな隙は与えずに、彼女の左手は私の右手を握って車両を後にした。


 同時に降車した人混みに混じり、見覚えのある小さな背中が私を引っ張っていく。その後ろ姿をしっかりと見ていたいのに、一気に溢れ出した涙でぼやけてしまう。


 改札へと向かう人波に抵抗して、彼女は私をホームの奥の方へと連れて行った。ようやく数えきれない人が改札を抜け切ると、さっきまでの雑踏が嘘のみたいに、ホームの端っこは私と彼女、二人だけの空間になった。まるで今日のこの時のために設置されたかのような古びたプラスチックのイスに、二人同時に腰を下ろす。


 まだこっちを見ずに、黙って向かいのホームへ視線を向ける彼女の横顔を見つめていた。握ってくれた手はそのままだった。私も何も言わず、私より少し小さな彼女の肩に頭を寄りかけた。話したいことは沢山沢山あるはずなのに、触れ合った彼女の体から伝わる体温を感じるだけで充分だと思えた。


「22日目です」

 
  彼女がやっと私の方を見て、穏やかな笑顔でそう言った。


「……え?」


 全くピンと来ていない私に、彼女の笑顔は明るさを増す。ここ数ヶ月、ずっと想像でしか見ていなかった可愛い笑顔に、胸が握りしめられる。


「あの電車で中谷さんを待っていた日数です。こうしてもう一度会えたのは、偶然でも奇跡でもないですよ?」


 私は何も言えず、ただ下を向いてひたすら泣くばかりだった。すると、私の頭を撫でながら彼女が言った。


「そんなに泣かないで。笑顔を見せて下さい。やっと会えたんですから」
「……どうして?もう私のことなんか、忘れたんじゃなかったの……?」
「話さないといけないことが山ほどあります。……でも、今は一番に伝えたいことだけ言います」
 

 少しトーンの下がった声に、顔を上げて彼女の目を見つめた。


「中谷さんが好きです。もう絶対にこの気持ちから逃げたりしません」


 瞬きすら惜しくて、嘘のないその黒い瞳をじっと眺めていると、突然、柔らかくて小さな唇が私の唇に触れた。


 人目につきづらいとは言っても、遠くに見えるホームの中央は次の電車を待つ人で埋まり始めている。


「……ごめんなさい」


 そんなつもりじゃなかった彼女の言動に、私の方が我慢できなくなった。私の方からもう一度唇に触れる。離れた時をこの一瞬で埋めようと、私たちは夢中で愛し合った。お互いに息が上がり、それでも名残惜しくようやく唇を離す。


 理性を取り戻したはずなのに、もうすでにもう一度同じことを繰り返したくなり、繋いでいない方の左手で彼女の服を引っ張りせがんだ。すぐにまた目が合う。嬉しそうに微笑むその表情には、かすかに困惑も隠れていた。


 彼女は少し背筋を伸ばし、さらに増えたホームの人の数を私越しに確認した。遠くを見る目に切なさを感じて、掴んでいた服から手を外す。すると、その手を捕まえられ、さっきよりももっと大胆なキスをされた。


 何本かの電車を見送った後、


「ついて来てもらえますか?」


 ふいに立ち上がって彼女がそう言った。


「どこに行くの?」
「……話がしたいから、落ち着いて話せるところに行きましょう」
「……うん」


 再会の喜びはそのままに、得体の知れない胸のざわつきが、私を心細くしていた。


 その駅は何年も電車で通り過ぎてきた聞き慣れた駅ではあったけれど、降りたのは全くの初めてだった。


 改札を出ると彼女は、職業病なのか、狭い歩道でも行き交う自転車や人々をしっかりと確認しながら慣れた様子で歩いた。


「こっちです」


 さっき繋いでくれた手は改札を出る前に離れたままで、私はもう一度繋ぐきっかけを探していた。だけど、彼女はそんなつもりなんてもう無いように、両手をポケットの中に入れて歩いている。


 私がその様子を恨めしく見つめていると、彼女は私の心を見透かして、ポケットの左手をサッと出し、私の右手をスッと取った。


「もうこれ以上好きにさせないで下さい」


 あまりに幸せすぎて、残りの人生全ての幸運が今一気に訪れているんじゃないかと不安になる。


「……ずっと……ずっと三ツ矢さんに会いたかったの……」


 私は少し彼女の側に寄って言った。


「私もです。ずっと、ずーっと、中谷さんに会いたかった」


 私たちは目を合わせて同じ顔で笑い合ったけれど、また視線を進行方向に戻す時、彼女はとても哀しそうな顔をした。


 その表情を見た時、唐突にあの子のことを思い出した。


 話したいことって、なんだろう……
 ……あの子のこと?


 もしかして、今はあの子と付き合ってるから、私とはこれ以上どうこうなるつとりはないとか……?


 でも、それなら私に会いに来てくれた理由がつかない。それに、さっき彼女は『この気持ちから逃げたりしない』と、はっきりと言ってくれた。


 それでも、頼りない吊り橋を渡っているような妙な感覚になる。何にしても彼女の雰囲気からして、いい話ではないと察する。


 そんな不安気な私に気づいたのか、彼女は左手に力をこめた。


「……ずっと、永遠にこうしていられたらって……心から思ってます」


 私はますます彼女の話そうとしていることが分からなくなった。でも、そんなことを言われて自然と胸は躍る。


「ずっとこうして居られるよ!ね?」


 私の言葉に、彼女はまた哀しそうな儚い微笑みを見せた。


「……ここです」


 突然立ち止まった彼女が示した建物は、単身向けのマンションのようだった。


「もしかしてここ、三ツ矢さんのお家?」
「はい」


 どんな理由があったとしても、彼女が私を家に連れて行ってくれた事実は嬉しくて、じんわりと感動した。これまで彼女は、自分のプライベートを自分から私にさらけ出したことは一度だってなかった。


「中谷さんのお家とは比べ物にならないくらい狭いですけど……」


 そう言って苦笑いをする彼女の手を強く握り、緊張で強張りながら手動のエントランスを抜け、建物の中へと入っていった。








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