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第5章
第71話 白日の覚悟
しおりを挟む平日の午前中で住人はほとんど出払っているのか、中に入ると外の通りとはガラリと変わって静けさに包まれていた。
そんなに部屋数があるマンションではないようで、エレベーターは定員が6人と書いてあったけど、そんなに乗れるのかと疑うほど狭かった。
必然的に彼女との距離も近くなる。
こうして手を繋いでエレベーターに乗っていると、同棲でもしてるみたいな仮想現実を感じられた。
さっき感動的な再会を果たしたばかりですぐにそんなことを思うなんて不埒かもしれないけれど、しゃんと立つ彼女の隣で私は、今すぐにでも体を重ね合わせたい衝動にかられていた。
ずっと追い求めていた彼女が今ここにいる……
感情と欲が体の中で混ざり合って破裂しそうで、私は獣のように彼女を見ていた。その時、緩やかな振動と共にゆっくりとエレベーターの扉が開いた。
「降りますね」
私とは反対に堅い表情で振り向く彼女に、理性を取り戻させられた。いくつかの扉の前を通り過ぎ、一番奥の部屋の前で彼女が立ち止まる。そして、何を意味するのか分からないかすかなため息をついた後、キーホルダーも何もついていない鍵を取り出し、部屋の扉を開けた。
私はすぐ側で、その指先を懐かしく見つめていた。この指が、あの頃私を愛してくれた指だ……
「どうぞ」
そう言って、彼女は自分よりも私を優先して家の中へ入らせた。
「お邪魔します……」
「あっ、ごめんなさい!スリッパ用意するの忘れてました!すぐ出します!ちょっと待って下さい!」
焦る彼女は、すれ違うのがやっとの玄関で、当たり前のように私の体に触れながら横切って小さな段差を上がった。
「……お客さんを招いたことがなくてつい……お待たせしました」
「……ううん。……嬉しいな」
「え?」
「お客さんを招いたことのない部屋に、私のことは連れてきてくれたから」
「あぁ……」
私の言葉に彼女は視線を外して少し違和感のある返事をした。
「あ、いや……実は人を家に呼ぶのも、自分が人の家に行くのも、本当は苦手で……。でも誤解しないで下さいね?中谷さんは特別というか……中谷さんがお家の中に入れてくれた時は、本当に嬉しかったです」
「それならよかった……」
特別……
その言葉はとても嬉しかったけれど、同時に別のことも思い出した。人の家が苦手だと言う彼女は、あの夜は茅野さんの家に泊まっていた。かなり酔ってしまったからと茅野さんには聞いたけど、もやもやが胸に宿る。
ひと部屋しかない真四角の空間には、大きめのベッドと小さな小さなテーブルがちょこんと置いてあるだけだった。
「すみません、座ってもらえるような座布団とかクッションとかが無くて……ベッドに座ってもらってもいいですか?」
「あ、うん……」
そう言われて、また変な期待をしてしまう。そんな私を置き去りに、彼女は部屋の手前にある小さなキッチンへ向かった。
「どうぞ……」
冷たいお茶の入ったグラスをテーブルに二つ置き、ベッドの下の床に座る。離れているのが寂しくて、どう思われるかも構わずに私も床に座り直した。
「……素敵なお部屋だね」
私がそう言って隣に座ると、彼女はそっと少し距離を空けて座り直した。そして、平然を装って返事をする。
「こんな部屋が素敵なんて……恥ずかしいです」
「そんなことない。数少ない家具とか置かれてる物たちが、なんだかどれも三ツ矢さんっぽくて、私はすごく好き……初めて来たのにすごく落ち着く」
「中谷さんは……歳はあんまり変わらないけど綺麗で大人で……あんな大きなマンションに住んでるし、ちゃんとした会社にも勤めてて、私とは住む世界が全然違うイメージです……」
「……だからこうやって距離を空けるの?」
私は彼女がわざわざ空けた距離を詰め、不自然なくらい近づいた。不安な気持ちを、彼女の体を感じることでかき消したかった。
「いや……別にそうゆうことじゃ……」
彼女はたどたどしく答えながら、上半身を反ってまた私から遠ざかろうとした。
「……それに、もうあのマンションには住んでない」
「……そうでしたね」
「今は、三ツ矢さんの部屋と同じくらいの……むしろもっと小さい、マンションと言うよりはアパートって感じのところに住んでるの」
「そうなんですか?」
「そんなに意外?」
「……はい」
「三ツ矢さんは私をかいかぶり過ぎだよ……」
いつになく弱気な彼女を追い詰めるように、唇が触れそうなくらい顔を近づけた。
「やっと会えたのにそんなに避けられたら寂しい……。それに、私は三ツ矢さんこそ私なんかよりずっと綺麗だと思ってる」
「そんなこと……絶対に無いです……」
予想していた通りまた顔を背けられてしまったけど、服の上から胸が上下していることに私は気づいた。
彼女は私を避けてるんじゃない……
私に手を出してしまいそうな自分を必死で抑えてるんだ……
それが解った瞬間、私は彼女の左手を取って、自分の右胸に乗せた。
「三ツ矢さん……私、ずっと我慢してたの……だから……お願い……」
私の右胸の上で、彼女の左手の指先がピクッと少しだけ動いた。悶えながら欲望と戦っているのが手に取るように分かる。
「……中谷さん……離してください……」
「どうして?」
「これ以上は我慢するのが……無理だから……」
「我慢しなくていいんだよ?」
私がそのままキスしようとした時、彼女は目をつぶって私の体を押して退けた。体への痛みは全く無かったけど、トラウマの様に胸の中の古傷が痛んだ。
同じことを考えたのか、ハッとした彼女は咄嗟に私の体に優しく手を添え、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい……」
「やっぱり私のこと……許せないの?」
「……そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「私にはあなたを抱く資格がないから……。さっきは、本当に出会えたっていう喜びでつい気持ちが高ぶり過ぎてしまって、ホームであんなことして……申し訳ありませんでした……」
「分からないよ!三ツ矢さんが分からない……」
「だから……話したいんです。私のこと……。この話を聞いたら、中谷さんは私のことを一気に嫌いになるかもしれない。嫌いになるどころか、おぞましく思うかもしれない。でも、中谷さんにだけは聞いてもらいたいんです、私の一番話したくないことを……」
彼女はすでに泣きそうな顔をしていた。
「そんなに辛そうなら無理に離さなくても私は……」
「……駄目なんです、ちゃんと話さないと。……中谷さんは、私が心から好きになった唯一の人だから……」
その言葉はある意味、体を重ねるほどに私の心を満たした。
「話してもいいですか?……聞いていられない話かもしれないけど」
茅野さんのことかと予想していたけど、きっとそうじゃないと思った。もっと大きな何か、彼女の中にはそんな隠れた何かがある……。どんなショックなことを言われるのか恐かったけれど、それでも私は彼女の話を聞きたかった。
「聞きたい……。聞かせて」
私がそう答えると、天を仰ぎ、静かにゆっくりと息を吸ってから彼女は話を始めた。
「……初めて人に話します」
「うん」
そこからの彼女は、もう一切私の方を見なかった。床に視線を落としたまま、まるで無機質な材料で作られた人形のように、皮肉にも薄い桃色をした可愛らしい唇だけを動かし、とても事実とは信じ難い真実を話を語った。
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