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第5章
第72話 序章
しおりを挟む「……私、中学に上がるまでは父親と二人で暮らしてたんです。母親は小学二年生の時に病気で亡くなって、私には兄弟も居なかったので、それからは父と二人きりで……」
この時点ですでに私の心臓は、体に支障をきたしそうなほどの激しい伸縮を始めていた。相づちすらふさわしくない気がして、ただひっそりとそこに佇んで聞くようにした。
「父親は、母が亡くなってからその悲しみを麻痺させるように、一心不乱に仕事に打ち込んでました。一応小さな会社を経営していて、それまでもかなり忙しい生活を送っていたんですけど、そこに更に輪をかけるように忙しくなって……。だけど、父は優しい人で、私のことを蔑ろにしたりはせず、そんな日々の中でもたまの休みには必ず私の為に時間を割いてくれてましたし、下手な料理を無理して作ってくれたりして、私は十分に幸せでした。母が亡くなってから三年ほど経った頃です。ある日父から、学校帰りに会社に来るように言われたことがあったんです。社員の人に案内された父の部屋には、父と若い女性が居ました。私はその時まだ小学六年生でしたけど、秘書だと紹介されたその人と父が、仕事だけの関係ではないとすぐに勘づきました。初めて会った時からその人は『可愛い、可愛い』と私を異常に褒めちぎっていて私はそれを素直に受け止めなかったけど、父はすごく喜んでいました。父は、私が勘づいていることに全く気づいてなくて、しばらくの間平然を装って隠していました。きっと、私が傷つくと思って敢えてそうしてたんだと思います。だから、私も鈍感なフリをしてずっと父の嘘に合わせていました。父から再婚の話を聞かされたのは中学に上がってすぐでした。そのタイミングをずっと前から決めてたように……」
ただでさえ堅い表情が、より硬直してゆくように感じた。
「紹介された相手は、案の定その秘書の人でした。そこに至るまで何度か三人で外食をしたり、時折、休日でも仕事を理由に家を訪ねてくることもあったりしていて、私は今さら何も驚きませんでした。その人は常に優しくて笑顔で、私をすごく可愛がってくれたけど、私はその人のことを好きでも嫌いでもありませんでした。父にとっては伴侶だとしても、私にとっては他人以外の何者でも無かったんです。それでも私は、二人の結婚に反対するつもりは毛頭ありませんでした。むしろ、全面的に賛成しました。同じ屋根の下で他人と一緒に暮らすことは正直気が進まなかったけど、父の幸せの為なら仕方無いと思いました。籍を入れて同居が始まると、父の出張が以前よりも歴然と増え、何日か家を空けることも珍しく無くなりました。私の面倒を見る人間が出来たことでさらに仕事に打ち込めるようになって、父は母を亡くした悲しみを乗り越えたように生き生きと輝きを取り戻し始めました。複雑ではあったけど、私はそんな父の姿が嬉しかった……。母を失った直後から父の心からの笑顔を私は見ていなかったし、一時期はお酒に溺れるようなこともあったので……。次第に私は、その人に感謝を覚えるようになっていきました。だけど、有りがちな話かもしれないですけど、私の中で『お母さん』は一人しかいなかったので、いくら恩を感じていても別の人をそう呼ぶことにだけは大きな抵抗がありました。今は何も言われないけどきっとそのうち必ずそれを求められると思い、私は気に病んでいました。だけどその人は、それを私に強要することはありませんでした。むしろ、これからも今まで通り名前で呼んで欲しいと言いました。そう言われた時、私はほっとして、ようやく心から安心出来ました。そのことさえ強いられなければあとはもう、父のためと思えば何でも受け入れられる……もう何も問題はない……そう思えたんです。そして、父の選んだ人がこの人でよかったと、改めてやっと思えた。でも………」
彼女が言葉を詰まらせて、私はその頼りなさげな小さな肩を抱きしめたいと思った。だけど、一生懸命向き合おうとする覚悟の邪魔をしてしまう気がして、伸ばしたくなる手を握りじっと見届けた。するとそこで、彼女はゆっくりと顔を上げて私を真正面から見た。
「でも……、その時からもう始まっていたんです……」
かすかに噛んでいる下唇から血が出てしまいそうなほど、彼女は何かと戦っていた……
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