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第5章
第73話 いたいけ
しおりを挟む──約13年前。
その日りんは学校から帰ってくると、ランドセルを置き再びすぐに外へ出て、最寄りの駅から一人電車に乗った。父の会社へはこれまでも何度か一人で行ったことがあって、乗り換えに最適なホームの位置も知っている。ただそのどの時も、向かう理由はりんの意志だった。
母親を亡くしてから、唯一の家族となってしまった父を、りんはそれまで以上に大切に思うようになった。同級生より少し大人びた発言をするところがあったけれど、やはり子どもであることには違いなく、その小さな体にめいっぱい悲しみを溜めながら毎日を過ごしていた。もう少しで帰ってくると分かっていても、それを待てずに自分から迎えに行ってしまう行動は、まさにその表れだった。
父はそんなりんの気持ちを察しながらも心配の方が勝って、りんが一人で電車を乗り継いで会社までやって来ることに賛成はしなかった。とは言え、無事に到着して訪ねると、隠しきれない喜びをにじませて、帰りには必ずりんに何か好きなものを買ってから家に帰った。
そんな父が、その日の朝、珍しく自分からりんに『今日、学校から帰ってきたら会社まで来れるか?』と聞いてきた。その日は金曜日だったので、きっとそのまま外食にでも連れて行ってくれるつもりなんだろう……そう想像しながら口にはせず、もちろん『分かった!』と明るく返事をした。
***
「お、りんちゃん!こんにちは。今日も一人で来たの?いつも偉いなぁー!」
父の会社で一番古くから働いている顔なじみのおじさん、太田さんが、大体いつも初めにりんに気づき声をかけてくれる。
「こんにちは!お父さん、どこにいますか?」
「社長室にいるよ」
「ありがとうございます!」
ガチャ……
「お父さん!来たよ!」
きっとこの後はお父さんと焼肉だ!と、ついノックを忘れて勢いよく扉を開けてしまった。
「こら!ノックもしないで!」
以前にも同じことをして叱られたことがあったから、そう言われても仕方ないことだと理解はしたけど、一人でここまで来たのに第一声でそんな言い方……とりんは傷ついてしまった。
「社長、そんなに強い言い方したら可哀相ですよ。お父さんに会える嬉しさでつい忘れちゃっただけじゃないですか」
視界の左側から見知らぬ若い女性が入り込んできて、りんの顔をのぞき込むように見ながら言った。
「……そうだな。ごめんな?りん。電車、大丈夫だったか?」
父はすぐに反省をして、気遣うようにそう言った。
「うん……大丈夫」
父が本当にすまなそうに思っているのが伝わってきたので、りんの傷はほとんど癒えた。けれど、今度はその代わりに胸がざわざわと何かに騒ぎ始める。
「写真で見せてもらった通り、すっごく可愛いお嬢さんですね……」
ついさっきもそうだった。内容からして父に向けて言ったはずなのに、その人はそう口にする間、観察するようにじっとりんの顔を見て目をそらさなかった。ひいき目で見なくても綺麗な女性と分類されるその人に至近距離で見つめられていると、りんの鼓動はなぜかトクトクと速まっていった。だけどその印象は決していいとは言えず、どう見ても自分たち親子に取り入ろうとしている……そう感じずにはいられなかった。
「りん、挨拶して」
父からはその人が誰なのかを知らされないまま、言われた通りにりんは挨拶をした。
「……初めまして、三ツ矢りんです……」
「わぁ……本当に可愛い…………」
子どもと言っても春が来ればもう中学に上がる。そんな自分の頭を撫でながら目を細めるその人に、りんはつい不可解な目をしてしまった。
「あっ、ごめんね?馴れ馴れしかったよね、?あまりに可愛いから……。私は、お父さんの秘書をしている桃井絵衣子です。これからよろしくね!りんちゃん!」
「……よろしく……お願いします」
「今日はね、私が社長にお願いしてりんちゃんに来てもらったの」
「えっ……?」
「どうしても、本物のりんちゃんと会ってみたくて」
それがりんと絵衣子の出会いだった。
その日、りんの予想した通り帰りにはいつもの焼肉屋さんへと寄ったけれど、二人ではなく、絵衣子も連れての三人だった。
それまで父には秘書なんていなかった。仕事量が増え、社員に助言されたこともあってかけた中途募集で、絵衣子は数人の中から抜擢され任命された。
初めのうち絵衣子は、りんの父、信太郎にとってよく仕事の出来る忠誠な秘書でしかなかった。けれど、誰よりも側で信太郎の仕事を支え、必然的にプライベートを徐々に知ることとなり、ある時、いつも持ち歩いている家族写真を信太郎が何気なく見せたその日を境に、少しづつその関係を絵衣子は違うものへと変え始めた。
予期せず愛する妻を亡くした信太郎を憐れみ、立場上誰にもこぼせない寂しさと弱さを上手に引き出しては、長い時間をかけてただただ延々と聞いてみたり、唐突に訪れた父子家庭という環境と、母を失った娘の心を憂う姿を見れば、天性の話術で励まし勇気づけ『男性である社長では難しいことがあるなら、私で良ければいつでもりんちゃんの力になりますから何でも言って下さいね』と、口先だけではない具体案まで出した。
人の心の隙間を察するのが得意な絵衣子は、今何をしたら相手の心がどう動くか、その術をある種の才能のように使いこなしていた。
そうやって丁寧にことを運びながらも、驚くほど早いスピードで信太郎の心の壁にヒビを入れ、やがてそこに自分が入れるほどの空間を作った。
そして、出会いからたったの数ヵ月で信太郎は絵衣子に交際を申込み、その年の年末にはプロポーズまでした。
混乱を出来るだけ抑えたく、りんに話すのは中学に上がってからと決めたけれど、その間も絵衣子は信太郎に、りんを交えての食事や外出を求め、りんを何よりも大切にしている信太郎は、そんな絵衣子にりんの母としての期待も膨らませていった。
りんの中学の入学式が終わると、早速その夜に信太郎は今まで黙っていた絵衣子との関係を告白し、再婚の意思を伝えた。
りんは信太郎の話を笑顔で受け入れ、それからほどなくして三人での生活が始まった。
結婚をきっかけに絵衣子は会社を退職し、専業主婦として家に入ることになった。信太郎から見てりんと絵衣子の関係はとても良好だった。今までは出来るだけ他の社員に任せていた出張も、その頃からはりんに断りを入れた上で積極的に増やすようにし始めたけれど、いつも安心して家を空けることが出来た。
──それは、絵衣子がこの家にやって来て一ヶ月が経った頃だった。
その時は初めて信太郎が近場の海外出張へと出向いた時だった。
夕方、絵衣子は学校から帰って来たきり出て来ないりんの部屋の扉をノックした。
コンコン……
「はい」
「りんちゃん、今忙しい?」
りんが返事をすると、絵衣子のすがるような声が扉の向こうから聞こえてきた。りんは部屋から顔を出し
「いえ、何かありましたか?」
と絵衣子に尋ねた。
「もし手空いてたらね、一緒に夕飯を作りたいなぁって思って」
「はい。作ります」
りんは正直億劫だと思ったけれど、付き合うことにした。絵衣子とは良好な関係を保つ必要があると考えていた。無論、それは大好きな父の為だった。
「何作るんですか?」
「今日はカレーだよ!りんちゃん、カレー好きって言ってたよね?」
「……はい」
『カレーが一番好きなの?』
「……はい」
「じゃあ、カレーと私ならどっちが好き?」
「え……」
「冗談だよ!」
自分の脳では理解出来ないようなまるでなぞなぞのような質問に一瞬固まってしまったりんは、屈託なく笑う絵衣子の姿に、大人のくだらない冗談だったのかと納得をした。
「私は何したらいいですか?」
「じゃあ……お米をといでくれる?」
「……はい」
りんは絵衣子に言われた合数のお米を炊飯器のお釜に入れると、ぎこちない手つきでお米をとぎ始めた。
「りんちゃん、あんまりお米といだことないでしょ?」
「……はい」
「そうかなーって思ってたの。だって、私がこのお家に来るまで炊飯器しまってあったもんね。今まではどうしてたの?」
「お米はずっと、レンジでチンするパックのやつを食べてました。お父さんも食べたり食べなかったりだし、基本自分一人だけだから炊くほどじゃなくて」
「……そっか。でも、これからは私と炊きたてのお米、一緒に食べようね!とぎ方も教えてあげるから」
そう言うと、絵衣子は後ろからりんを包むように立ち、お釜に入ったりんの右手に自分の右手を重ね合わせた。
りんは絵衣子の行動を不可解に思いながらも、重なった絵衣子の手の動きを感じとり、耳元で話す絵衣子の解説を真面目に聞いて、それを実践した。
「そうそう!上手!上手!」
りんがコツを掴むと絵衣子はお釜から手を抜き取り、りんの手つきを観察しながら誉めた。誉められたりんは少し嬉しくなり、思わず慣れない照れ笑いをした。その瞬間、右の頬に絵衣子の唇が当たった。
意気揚々と動いていた手を止めたりんが絵衣子の顔を振り返る。
「ごめんね!りんちゃんがあんまり可愛く笑うからつい愛しくなっちゃった。りんちゃんて肌もすごく綺麗で、なんだか赤ちゃんみたいなんだもん。あ、中学生に赤ちゃんなんて失礼だよね?ごめんね?」
「……いえ」
さっきと同じように絵衣子が笑うので、理解に苦しむ部分がありながらもそうゆうものなのかと、りんは無理くり飲み込んだ。
その時、りんは13歳。
絵衣子は26歳になったばかりだった。
信太郎と絵衣子よりも、りんと絵依子の方が歳ははるかに近かった。なので、りんからしたら絵衣子はとても母親代わりには思えなかった。けれど、絵衣子の中ではきっと自分は娘という認識なのだろう……。そう思っていた。
なので、少しづつスキンシップが増えてゆく絵衣子を苦手に感じながらも、りんはそれを過剰に拒むことはしなかった。
りんの中ではいつも、父の為という気持ちが根付いていて、自分の行動のほとんどは自分の意思には
基づいていなかった。
何をするにも判断基準は、父が喜ぶか否かの二択だった。幼い頃に母を亡くしたりんにとって、父はりんの世界の全てだった。物理的にも精神的にも、父を失うことは何よりの恐怖だった。
一度りんが抵抗を見せないと知ると、絵衣子からの過剰な体の接触は、日に日にエスカレートしてゆくのだった。
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