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第5章
第77話 対峙
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【中谷 かこ】
彼女は私の顔を少しも見ず、ほとんど真下を見ながら続けた。
「それから私と母は、すぐに家を売って小さな賃貸マンションを借り、そこで暮らすことにしました。とてもあの家では暮らしていけなかった……。そして、高校を卒業すると同時に私は母を残してそのマンションも出たんです。ただすぐに寮に入れるからって理由だけで始めた仕事で、なんの情熱も思い入れもなく何年も続けて、そろそろ辞めようかと考えていた時、あなたに出会いました……」
そこで彼女はようやく顔を上げてくれた。幼子のように涙を溜めた目で私を見つめながら、涙声で話を続ける。
「……今まで、誰かと付き合ったことはあっても、好きという気持ちは分からなかった。嫉妬も寂しさも恋しさも感じたことはなかった。中谷さんに出会って、人を好きになるってこういう気持ちなんだって……私は初めて知りました。笑顔を見るだけで簡単に幸せになれて、なんてことない天気の話をするだけでも楽しくて仕方なかった。だけどいつからか、それだけじゃ足りないと……もっともっと欲するようになって……出来ることならあなたを自分だけのものにしたいと望むようになりました。……でも、私にはそんなこと許されない……中谷さんが私に手を伸ばしてくれた時、本当に本当に嬉しかったのに、私はその手を取れなかった……それを、あなたを失ってから死ぬほど後悔しました……」
「……私を拒んだのは、私といたくなかったからじゃない?」
「違います……出来ることならあなたといたかった。もしも私にそんな資格があったら、手を離したりはしなかったです……」
「資格なんて、そんなのないよ!」
私がそう言うと彼女は首を横に振った。
「……父の言った通り、私は汚い人間なんです。私の体は、洗っても洗っても二度と落ちないくらい汚れきってるんです。……私、女の人となら誰とでも出来るんです。迫られれば、どんな子ともするし、誰も拒まない……」
「……じゃあ、あの新入社員の子とキスしてたのも、あの子から誘われて……?」
私はついに口にしてしまった。
彼女は驚いた顔で私を見た。
「見てたんですか……?」
「あの日、久しぶりに偶然三ツ矢さんとマンションではち合わせた日、部屋に入った後やっぱりどうしても話がしたいと思って駐車場に降りていったの……そしたら、階段から見えて……」
「…………ごめんなさい」
「別に付き合ってたわけじゃないし……今だって……だから別に謝ってもらうことじゃ……」
「謝るべきことです。あの時だって私はあなただけを好きだったのに……その気持ちに背いてあんなことをした……本当にごめんなさい……」
「……でも、あの子への気持ちは何もなかったってことだよね?」
「はい。あの子には悪いけど、砂ひと粒ほどの気持ちもありません。非道ですけど……」
確かに、茅野さんのことを思うと、彼女は非道という他ないほど残酷な人だ。でも、そこまできっぱりと白と黒が少しも混ざらずに私への想いと線引きがされている彼女の心を、私は嬉しく思ってしまった。
「三ツ矢さんは、私と会わなくなった後、誰とも付き合ったりしてないの?……そう言えばもう一人いたよね?新入社員さん……あの子も三ツ矢さんに気があるように見えたけど……」
「付き合ってはないです、誰とも」
「……そっか」
キスをしてる時点で手放しで喜べることではないけど、それでも私はひと安心した。
「でも……二人とも抱きました」
「……え?」
安心したのはほんの束の間、私はそのさらりと伝えられたひと言に、地獄の底へと突き落とされたように息が出来なくなった。
「彼女たちだけじゃなくて、社にいる女性社員たちも、今まで私は手当たり次第に手をつけてます。……本当に、私は骨の髄まで汚れてるんです」
衝撃を越える衝撃と、胸の中で必死に戦った。
確かに、彼女の様々な告白は私に、肉を切り裂くような痛みを与えた。それでも私は、黙っていれば私が知る由もないことを、きっと誰にも言いたくない、自分で話す言葉ですら聞きたくないような過去を、私だけに話してくれたその気持ちを信じたかった。
「……正直に話してくれてありがとう。話を聞いて、悲しくて苦しい気持ちなのは否めないけど、何より包み隠さず話してくれたことが嬉しい。私をそれだけ想ってくれてるんだって理解したい。私の三ツ矢さんへの想いも変わらないから……」
「中谷さん………」
「……それに、これからは私の側にいて、もう私以外の人には触れないでくれるんでしょ?だから、もう一度会いに来てくれたんでしょ?それならもう……今までのことはいいから……どんなに汚れてても構わないから……お願い、もう二度と離れないで……側にいて、どこにも行かないで……私は三ツ矢さんじゃないとダメなの……」
私の言葉に彼女は表情を歪ませた。
その中にちゃんと喜びは存在してるのが分かる。だけど、それだけに染まりはしていない。
どうしてそんな顔をするんだろう……
そう思ったその時だった。
ピンポーン……
彼女の家のチャイムが鳴り響いた。
「すみません……」
彼女は玄関へ向かい、小さなレンズから外を覗いた。私は部屋の中からそんな彼女の背中を見つめていた。外を確認した彼女は扉を開けるでも部屋に戻るでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。
「三ツ矢さん?どうしたの?誰?」
「…………母です」
彼女の返事を聞いて、心臓が強ばった。
「ここ数日、連絡を返してなかったから……でもよりによって……」
彼女がひとりごとの音量でそう言うと、
ドンッドンッドンッ!!
力強く扉を叩く音がした。
「りんちゃん!?いるんでしょ!開けて!!」
近所迷惑になりそうな声が鉄の扉を越えて部屋の中へと届く。彼女はそれでも微動だにせず、時が過ぎるのをただ待っているようだった。話を聞いただけで会ったことはないのに、扉の向こうにいるその人は、想像していた通りの人だと感じた。
「……開けた方がいいんじゃない?」
「でも……中谷さんに会わせたくないんです。母は、私のことになると何をするか分からないし、それに……」
「それに?」
「……まだ、中谷さんに伝えきれてないことがあるから……」
胸がざわつく。
そう言ってた彼女の横顔は、さっきよりもさらに絶望に沈んでいた。何かを諦めているような顔だ……それがもしかしたら『私』なんじゃないかとよぎった時、私の足は自然と玄関へと向かっていた。
「りんちゃん!さっき外から影が見えたんだから!いるのは分かってるの!早く開けてよ!」
彼女が私にまだ伝えきれてないことはなんだろう……?
もしかして、今でも彼女はこの人に抱かれてる……?
それは私の予想に過ぎないけれど、さっきの絶望の表情と繋がる気がして、身震いがした。それは、嫌悪感なんかじゃなかった。もう私以外の誰にも、彼女の体に手を触れさせたくはない……。
彼女を、この『母』という人から解放させたい。
「私は大丈夫。何を聞いても受け入れるから。……三ツ矢さんを、もうこれ以上誰にも盗られたくない」
私はしっかりと目を見てそう宣言し、扉を開けた。
彼女は私の顔を少しも見ず、ほとんど真下を見ながら続けた。
「それから私と母は、すぐに家を売って小さな賃貸マンションを借り、そこで暮らすことにしました。とてもあの家では暮らしていけなかった……。そして、高校を卒業すると同時に私は母を残してそのマンションも出たんです。ただすぐに寮に入れるからって理由だけで始めた仕事で、なんの情熱も思い入れもなく何年も続けて、そろそろ辞めようかと考えていた時、あなたに出会いました……」
そこで彼女はようやく顔を上げてくれた。幼子のように涙を溜めた目で私を見つめながら、涙声で話を続ける。
「……今まで、誰かと付き合ったことはあっても、好きという気持ちは分からなかった。嫉妬も寂しさも恋しさも感じたことはなかった。中谷さんに出会って、人を好きになるってこういう気持ちなんだって……私は初めて知りました。笑顔を見るだけで簡単に幸せになれて、なんてことない天気の話をするだけでも楽しくて仕方なかった。だけどいつからか、それだけじゃ足りないと……もっともっと欲するようになって……出来ることならあなたを自分だけのものにしたいと望むようになりました。……でも、私にはそんなこと許されない……中谷さんが私に手を伸ばしてくれた時、本当に本当に嬉しかったのに、私はその手を取れなかった……それを、あなたを失ってから死ぬほど後悔しました……」
「……私を拒んだのは、私といたくなかったからじゃない?」
「違います……出来ることならあなたといたかった。もしも私にそんな資格があったら、手を離したりはしなかったです……」
「資格なんて、そんなのないよ!」
私がそう言うと彼女は首を横に振った。
「……父の言った通り、私は汚い人間なんです。私の体は、洗っても洗っても二度と落ちないくらい汚れきってるんです。……私、女の人となら誰とでも出来るんです。迫られれば、どんな子ともするし、誰も拒まない……」
「……じゃあ、あの新入社員の子とキスしてたのも、あの子から誘われて……?」
私はついに口にしてしまった。
彼女は驚いた顔で私を見た。
「見てたんですか……?」
「あの日、久しぶりに偶然三ツ矢さんとマンションではち合わせた日、部屋に入った後やっぱりどうしても話がしたいと思って駐車場に降りていったの……そしたら、階段から見えて……」
「…………ごめんなさい」
「別に付き合ってたわけじゃないし……今だって……だから別に謝ってもらうことじゃ……」
「謝るべきことです。あの時だって私はあなただけを好きだったのに……その気持ちに背いてあんなことをした……本当にごめんなさい……」
「……でも、あの子への気持ちは何もなかったってことだよね?」
「はい。あの子には悪いけど、砂ひと粒ほどの気持ちもありません。非道ですけど……」
確かに、茅野さんのことを思うと、彼女は非道という他ないほど残酷な人だ。でも、そこまできっぱりと白と黒が少しも混ざらずに私への想いと線引きがされている彼女の心を、私は嬉しく思ってしまった。
「三ツ矢さんは、私と会わなくなった後、誰とも付き合ったりしてないの?……そう言えばもう一人いたよね?新入社員さん……あの子も三ツ矢さんに気があるように見えたけど……」
「付き合ってはないです、誰とも」
「……そっか」
キスをしてる時点で手放しで喜べることではないけど、それでも私はひと安心した。
「でも……二人とも抱きました」
「……え?」
安心したのはほんの束の間、私はそのさらりと伝えられたひと言に、地獄の底へと突き落とされたように息が出来なくなった。
「彼女たちだけじゃなくて、社にいる女性社員たちも、今まで私は手当たり次第に手をつけてます。……本当に、私は骨の髄まで汚れてるんです」
衝撃を越える衝撃と、胸の中で必死に戦った。
確かに、彼女の様々な告白は私に、肉を切り裂くような痛みを与えた。それでも私は、黙っていれば私が知る由もないことを、きっと誰にも言いたくない、自分で話す言葉ですら聞きたくないような過去を、私だけに話してくれたその気持ちを信じたかった。
「……正直に話してくれてありがとう。話を聞いて、悲しくて苦しい気持ちなのは否めないけど、何より包み隠さず話してくれたことが嬉しい。私をそれだけ想ってくれてるんだって理解したい。私の三ツ矢さんへの想いも変わらないから……」
「中谷さん………」
「……それに、これからは私の側にいて、もう私以外の人には触れないでくれるんでしょ?だから、もう一度会いに来てくれたんでしょ?それならもう……今までのことはいいから……どんなに汚れてても構わないから……お願い、もう二度と離れないで……側にいて、どこにも行かないで……私は三ツ矢さんじゃないとダメなの……」
私の言葉に彼女は表情を歪ませた。
その中にちゃんと喜びは存在してるのが分かる。だけど、それだけに染まりはしていない。
どうしてそんな顔をするんだろう……
そう思ったその時だった。
ピンポーン……
彼女の家のチャイムが鳴り響いた。
「すみません……」
彼女は玄関へ向かい、小さなレンズから外を覗いた。私は部屋の中からそんな彼女の背中を見つめていた。外を確認した彼女は扉を開けるでも部屋に戻るでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。
「三ツ矢さん?どうしたの?誰?」
「…………母です」
彼女の返事を聞いて、心臓が強ばった。
「ここ数日、連絡を返してなかったから……でもよりによって……」
彼女がひとりごとの音量でそう言うと、
ドンッドンッドンッ!!
力強く扉を叩く音がした。
「りんちゃん!?いるんでしょ!開けて!!」
近所迷惑になりそうな声が鉄の扉を越えて部屋の中へと届く。彼女はそれでも微動だにせず、時が過ぎるのをただ待っているようだった。話を聞いただけで会ったことはないのに、扉の向こうにいるその人は、想像していた通りの人だと感じた。
「……開けた方がいいんじゃない?」
「でも……中谷さんに会わせたくないんです。母は、私のことになると何をするか分からないし、それに……」
「それに?」
「……まだ、中谷さんに伝えきれてないことがあるから……」
胸がざわつく。
そう言ってた彼女の横顔は、さっきよりもさらに絶望に沈んでいた。何かを諦めているような顔だ……それがもしかしたら『私』なんじゃないかとよぎった時、私の足は自然と玄関へと向かっていた。
「りんちゃん!さっき外から影が見えたんだから!いるのは分かってるの!早く開けてよ!」
彼女が私にまだ伝えきれてないことはなんだろう……?
もしかして、今でも彼女はこの人に抱かれてる……?
それは私の予想に過ぎないけれど、さっきの絶望の表情と繋がる気がして、身震いがした。それは、嫌悪感なんかじゃなかった。もう私以外の誰にも、彼女の体に手を触れさせたくはない……。
彼女を、この『母』という人から解放させたい。
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