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第1章「夏」

2.入道雲センチメンタル(4)

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 気球はゆっくりと高度を上げていく。あっという間に、屋上に立つ人々は米粒ほどの大きさにしか見えなくなった。やがて校舎の全容が画面に収まり、駅まで続く川沿いの遊歩道、行き交う人や車も、すべてがミニチュアの世界のよう。時が止まったかのような町並みを、気球は鳥の目線で見下ろしている。遥か下の屋上では、天文ドームがキラキラと日光を反射し、まるで灯台のように気球の旅立ちを見守っているかのようだった。

 ぐるぐると回転する画面は一向に収まる気配がない。風に翻弄されて頼りなげだ。だがいつの間にか、気球は雲と同じ高さにまで昇ってきていた。

「ここらへんで高度2千メートルくらいかな」

 と先生が解説する。そのまま気球は、もくもくとしたわた雲の中へと吸い込まれていった。途端に視界が真っ白になる。まるで深い霧の中を進むよう。大地が早送りすると、やがて視界が晴れ、雲の上に抜け出した。

「ねえ見て! 雲の上にまだ雲があるよ!」

 指差した青空のずっと上の方に、うっすらと別の雲が見える。下に広がるふわふわの雲海とは違い、上空の雲は湯気が立ち込めるようにモヤモヤとしている。
 雲の切れ間からは、3月とは思えないほど強い日差しが容赦なく差し込んでいた。

「ねえ大地、あの雲まであとどれくらいあるのかな?」
「うーん、そうだな……」

 大地は画面から目を離さずに首をかしげた。

「ったく、あんた何も知らないのね」
「悪かったな。でも地学って入試に使わないしなぁ。澪だって同じだろ?」
「まあ、そうだけど……でも、あんたは一応理科部の部長なんだからさ」
「だったらさ、どうせ昼しか天体観測してない天文部なんだから、ついでに気象観測にも手を出してみたら? ガハハハ!」
「もう!」

 私たちがそんなやり取りをしている間にも、気球はぐんぐんと高度を上げていく。つい先ほどまでずっと上の方に見えていた雲が、いつの間にか手が届きそうな距離まで迫っている。そのモヤモヤとした雲の先には、本物の青空が広がっていた。雲ひとつない、まさに「晴天」という言葉がぴったりの光景だ。ぐるぐる回転するカメラに、銀色の眩しい太陽光が差し込んでくる。

「この辺りで高度6千メートルってとこかな」

 と先生が言った。

「えっ、もうそんなに!?」
「ああ。今見えているあのモヤモヤとした雲は、巻層雲っていうんだ。通称『うす雲』とも呼ばれていてね。高度5千メートル以上の上空にだけ発生する、上層雲の一種なんだよ」
「へぇ~、さすが理科の先生ですね」

 私が感心すると、羽合先生は「おいおい」と軽いジョークを飛ばすような口調で返事した。

「あのなぁ、霜連。君は一体、俺のことを何だと思っているわけ……?」

 うす雲を突き抜けると、もはや気球より上空に雲は見当たらない。目の前に広がるのは、どこまでも澄み渡った青空だけだ。水平線の先に、地球の丸みすら感じられるようになっていた。

「わぁ……すごい! 手作りのカプセルが、こんな空の高いところまで行って、この映像を撮影してきたなんて……信じられない!」

 隣では大地と陽菜も、感動に圧倒されたように黙り込んで画面を凝視している。

「本当、すげえな……」
「うん。すごい。もう言葉にならないくらい……」

 上空へ行けば行くほど、青空の色は濃さを増していく。それはもはや表現のしようもない深い青だった。画面の隅を見れば、空はもう藍色に染まりつつある。もしかしたら、もう宇宙はすぐそこまで迫っているのかもしれない。そんなことを予感させるほど濃い青だった。

「「まるで映画の世界」」

 考えを読み取ったかのように、陽菜と大地が同時につぶやいた。

 その刹那、唐突に映像が乱れ、雑音交じりの画面が天地逆さまに反転を始めた。目まぐるしく視界が回転する。銀色の太陽、青空、白い雲海。青、白、青、銀、青…………。地上の様子が映し出された時には、そこかしこに白い帯状の物体が宙を舞っているのが見てとれた。

「え、何これ!?」

 目が回りそうなほどぐるぐると回転を続ける画面。その中心では、青空につながる一本の白いロープが、まるで母子をつなぐへその緒のようにはっきりと見えていた。
 気球の高度が徐々に下がっていく中、はるか下方に見えていた雲が、再び近づいてくる。

「まさか、気球に穴が開いたか?」

 心配そうに大地が羽合先生を見やる。先生は「そうなのかもしれないね」と、表情を変えることなく画面に釘付けになったまま答えた。

「えっ!? それって大丈夫なんですか!?」
「大丈夫。すぐにパラシュートが開くはずだから」

 羽合先生は驚くほど冷静に答える。
 先生の言葉通り、その直後に突如として画面が大きく揺れた。どうやらパラシュートが開いたらしい。するとまたしても、映像が回転を始める。今度は左右方向の回転だ。もう少しゆっくりなら景色を楽しめそうだけど、いかんせん速度が速すぎる。

「結局、宇宙の渚には辿り着けなかったのか……」

 なんだか悔しくてたまらない。がっかりして丸くなる私の肩に、羽合先生は優しく手を添えた。

「でもほんと、すごかったです。大感動です! お姉ちゃんがのめり込んだ理由、なんとなく分かった気がします」
「そう? だったらさーー」

 羽合先生は何かを言いかけて、でもすぐに「あ、いや……なんでもないんだ」と言葉を飲み込んだ。そして照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりとかいた。

「先生、今日なんだかおかしいですよ?」

 そう茶化すように言ってみると、先生は苦笑いを浮かべた。

「そう……だね。そうなのかもしれない」

 タオルで額の汗を拭うと、潮風が頬を撫でていく。そういえば、こんなにやかましく蝉が鳴いていたっけ……? ふと、その声の大きさに気が付いた。
 パラシュートに吊されて戻ってきたカプセルが、参道の杉並木の向こうに見えた気がした。思わず青空を仰ぎ見る。さっきよりもさらに大きく成長した入道雲が、まるで高く手を伸ばして微笑んでいるみたいだった。
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