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第3章「冬」

7.うね雲シグナリング(6)

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 歩いていると、どこから流れ着いたのか分からない大きな流木を見つけた。夏にはなかったものだ。
 そこに腰掛けて、2人で並んで白く泡立つ波間を眺めた。

「どう? 気球のほうは、順調?」と羽合先生が尋ねる。
「この前、散々な失敗しちゃって……」

 身振り手振りを交えて初飛行の顛末を話すと先生は優しい眼差しで頷きながら、熱心に話に耳を傾けてくれた。パラシュートと無線は上手くいったこと、でも田んぼに不時着しちゃったこと、カメラが作動していなかったこと。

「あー、それは残念……」

 慰めの言葉をかけてくれる先生。別にそんな言葉はいらない。ただ、あの時傍にいて欲しかったーー。

「先生が高校生だったらなぁ……」

 私が呟くと、先生の顔には「無理言うな」って書いてあるように見えた。

「ねぇ先生。先生は、私に会いたいって思ってくれてた?」
「もちろん」

 でも本当は自信がない。好きでいてもらうには、どうしたらいいのか分からないまま。先生と同世代の大人の女性なら、もっと気の利いた話し方やスマートな振る舞いができるはず。私にできるのは、ただひたすら好きという気持ちをぶつけて、好きだという言葉を繰り返すことだけ。

 自分の子供っぽさが情けなくて、惨めだ。
 冷えきった指先にそっと息を吹きかけ、ぼんやりと水平線を見つめた。

「大丈夫だよ」

 羽合先生は、私の縮こまった背中をおさえるようにそっと腕を回した。

「霜連、こっち向いて」

 顔を上げると、先生の瞳がすぐ目の前に。思わず目を閉じると、唇が重なり合う。波の音がサラサラと優しく耳の奥で溶けていった。震える指先で、羽合先生の頬に触れる。

 それからしばらくの間、先生の腕の中で安らかに目を閉じていた。この関係は誰にも打ち明けられない。一緒の写真も撮れない。手を繋いで街を歩くこともできない。ないないない。何もできない――。

 そんな風にどんどん塞ぎ込んでいく私の胸の内を察したように、羽合先生が冬の空にぽつりと呟いた。

「顔を上げて。ほら、俺たちにしか味わえないこともたくさんあるんだから。例えばさ……」

 高校生カップルにはできないこと? 顔を上げると、羽合先生は鼻の頭をこすりながら、こう言って笑った。

「君の卒業式。世界で一番楽しみにしているのは、この俺だよ。ふふっ」

 あまりの意表を突かれ方に、言葉を失った。

「ーーあれ、俺、変なこと言っちゃった?」
「え、んー、くくくっ。ぷっ。アハハ……うん。やっぱ言いました」
「そうかなぁ?」
「そうですよ。えへへ」

 もしも二人が同級生だったら、こんな風に恋に落ちただろうか。幼馴染に生まれていたら、今頃はもっと自然体で付き合えてたのかなーー。

「だって同級生なら、卒業式は一緒じゃん?」
「まぁ、そりゃそうですけど……ククク、なんか変な感じ!」

 今まで頑張って笑いをこらえてたけど、もう限界。

「アハハハ、いやいや、ぜったい私の方が楽しみに決まってるでしょ。卒業」
「いや、俺だって負けないよ」

 久しぶりに心の底から楽しくて、涙目になるまでケラケラと笑い転げるのだった。

「あ、まさか先生、泣いちゃうタイプ?」
「悪いか?」
「ださ……」
「いいだろ、べつに」
「アハハ、卒業生より先に泣いちゃ、ダメですよ。それに担任じゃないんだし」
「ハハ、わかった。頑張って堪えるよ」

 そんな会話をしていると、目の前をヤドカリが横切っていく。羽合先生は小学生のように目を輝かせ、すぐさま追いかけ始めた。砂浜に膝をついて一生懸命捕まえようとする先生の姿が、愛おしくてたまらない。思わず抱きしめたくなるけど、ここは我慢。

「ねぇ先生。もし私が〈宇宙の渚〉の写真を撮れたらさ……」

 ふと呟くと、羽合先生が振り返った。キョトンとした顔で首を傾げる。

「その時は、私を大人の女性にして欲しいな……なんて」

 声にならない彼の短い戸惑いが、私にはとても大きな拒絶に感じた。

「ご、ごめんなさい! 冗談だから、忘れてください!」

 大人でもない、かといって何も知らない子供でもない。そんな中途半端な自分が、情けなくてたまらない。

「あ、いや、違うんだ、霜連。ごめん。言葉足らずだったね」

 羽合先生の表情は複雑だ。

「やっぱり私みたいな子供はヤですよね。そりゃそうだ。うん。わかってました。バカみたい……」

 唇の震えが止まらない。どうしても言葉の端々から、泣きそうな声が漏れ出してしまう。羽合先生は慌てて立ち上がり、力強く言った。

「だから、違うって言ってるじゃないか!」

 先生はいっそう語気を強めた。

「君は、素敵だよーー魅力的な女性だよ。でもね、気球に関してそういう約束事を交わすのは、もう嫌なんだ。本当にすまない」

 その言葉に、私は絶句した。

(もう、って……?)

 まるで以前にも、同じような約束をしたことがあるかのような言い方。そう、きっとあの人と――。でも、それ以上は聞けなかった。今日はもう聞きたくなかった。あの人の名前も、二人の約束も。

 まるで頭を殴られたみたいな衝撃で、その日の残りを茫然と過ごした。我に返れば、いつの間にか自宅の前。羽合先生の車に手を振っていた。

 水族館に寄ってイルカショーを見たはず。先生が可愛いイルカのネックレスを買ってくれたっけ。でも渚を歩いた後の記憶は、ほとんど曖昧模糊としている。遠ざかる車のテールランプのむこうに、先生の寂しげな横顔を見た気がして、ようやく正気に返った。「せ、先生っ!」

 だがもう遅い。車は闇に紛れて見えなくなり、赤い光だけが雪の中に溶けていく。ふと気づけば、手にはクリスマスプレゼントの小箱が握られていた。彼に渡せないまま、その小さな箱が悲しそうに泣いているようだった。
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