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私も、愛しているのに
しおりを挟むピアノの音が聴こえる……
華やかで、愛らしい跳ねる様な旋律に、私は引き寄せられ歩いていた。
ここは、何処だろう。
いつからここにいるのか、歩いているのかわからない。
暗闇の中、小さな明かりが見えて、私はそこへ向かう。
次第に目が慣れてきて、壁に飾られている絵や、本棚などが見えてきた。
絵は、額に飾られた物ではなく、画用紙に描かれ、画鋲で留められている。
よくよく見ると、その絵柄や筆のタッチの感じから、恐らくこどもが描いた物だろうという事が分かる。
私はそれを眺めながら、ピアノの音が鳴る場所を探し向かう。
この曲は、知っている。
母が家で良く弾いていた。
だが、それだけでは無い。
他でも、何処かで、いつか聴いた――
この曲を、誰かが此処で弾いているのを聴いた――
長い長い廊下を歩く内に、自分の中で確信が強まる。
はっきりと思い出す寸前、辺りを包む闇が、カーテンを引くかの様に明るくなり、世界が全貌を私の前に晒した。
木目調の床の広い部屋。
中央に轢かれた絨毯。
そして、ピアノ。
――そうか、ここは、剛さんが居た
"希望の家"だわ……
ピアノを弾く後ろ姿に私は頬を綻ばせる。
『祐ちゃん……
素敵な曲ね』
先程から聴こえていたのはモーツアルトの
"皇帝円舞曲"。
私が彼の横へ立つと、彼は鍵盤から指を離し、低い声で言った。
「祐樹じゃありません……」
祐樹だと思っていた彼は、立ち上がり私に近付く。
祐樹に似ているが祐樹では無かった。
すらりと伸びた背、長いしなやかな手足、鋭い瞳に、突き出た喉仏――
「剛さんっ……」
私は思わず後ずさる。
「菊野さん……
俺が欲しいんでしょう?」
「あっ……」
剛は、私の腕を掴むとグイと引き寄せた。
「……欲しいなら、俺を差し上げます……」
「つ……剛さんっ」
剛は、私の顎を掴み口付けた。
幾度も幾度も、私が立っていられなくなるまで。
私は彼の為すがままに唇を奪われ、うっとりとその胸の中に身を任せる。
「剛さん……私……」
「菊野……
僕の前から居なくならないでくれ」
その声に顔を上げると、私を抱き締めているのは剛でなく、悟志にすりかわっていた。
「悟史さん――!?」
「菊野……菊野っ!
どうか……」
力一杯抱き締められ、私は苦しさに呻く。
ふと、悟志の背中越しに、鋭い視線を感じた。
幼い姿の剛が、私を見ていた。
私が会った事の無い、小さな頃の剛だ。
頬は痩せこけ、破れた服を着て、たが瞳だけは強く輝いている。
剛の側に行こうとするも、悟志にがんじがらめにされて動けず、私はせめて手を伸ばそうとするが、その手を何処から現れたのか、祐樹が掴む。
「さ、悟志さ……祐樹……っ」
「――ボクを欲しいと言ったのに、やっぱり要らないんだね」
剛は、平坦な声色で言う。
「剛さんっ……違う、違うの……」
私は必死に彼に呼び掛けるが、彼は悲しげな瞳を向け、右手に何か光る物を持ち振り上げた。
「貴女がボクを要らないなら……ボクはもう消えます――」
剛が振り上げたそれが、鋭いナイフだという事に私が気付いたのは、彼が自分の喉を切り裂き鮮血が迸るのを見て絶叫した時だった――
※※
「――いやああああっ!」
自分の声に驚き目が醒めた私は、起き上がり頭を抱え溜め息を吐いた。
なんて酷い夢だろうか。
いつの間にか額に嫌な汗をかいていて、手の甲で拭う。
ベッドサイドの照明を付け、時間を見ると三時だった。
毛布を剥ぎベッドから降りるが、キャミソールとショートパンツで居る事を思い出し、床に落ちているパーカーを取り袖を通すが、唐突に剛の囁きが蘇り、小さく叫び声を上げる。
『貴女を、僕に下さい……』
『貴女が好きです……』
「う……うそっ」
私は、先程までこの部屋のベッドの上で彼に抱き締められ、口付けられ、肌に触れられ甘く囁かれていた――?
およそ現実とは思えなかった。
今見ていた夢と同じで、眠っている時に見た幻なのではないだろうか?
そうに決まっている――
私は、部屋の照明を点け、鏡の前に立ち絶句した。
手首と、太股に紅い痕がくっきりと付いている。
剛の情欲にぎらついた瞳と、手首や太股を掴まれた感触が蘇る。
そして、彼が、私の蕾に猛った自分自身を押し付けた時の、悩ましく甘美な快感を――
「あっ……
いやっ……そんな……」
私は、戦(おのの)きながらも、不意に身体が甘く淫らに疼き、困惑する。
胸元にも、紅い徴(しるし)が幾つか花を咲かせ、彼が膨らみを揉みしだいた事も思い出す。
「ああ……
そんな……
そんな事って……」
彼は、私を好きだと言った。
私を欲しいと囁き、何度もキスをして、私を貫こうとして――
「……ど……
どうし……て」
私は、自分自身を抱き締めながら、その場に座り込み嗚咽した。
私は、頭を抱えたまま、今夜の出来事を反芻する。
悟志の不在時に、夫婦の寝室のベッドで剛に抱き締められ貫かれる一歩手前まで……
これがどれ程に恐ろしく、罪深い事なのか、私は考えただけでゾクリと震えたが、それ以上に背徳に甘美に酔ってしまいそうになる自分が居る。
――剛さんが……剛さんが、私を……
ずっと、彼を想っていた。
いけない事だと知りながらも、彼の姿を目にしただけで胸が躍り出すのを止められなかった。
実る筈のない、この想いは、一生自分の胸の中に秘めておけば良い。
彼がこの先、幸せになるのを見届けられるなら、それで良い――
そう思っていたのに。
叶ってしまった。
彼が、私を愛していると言った。
なのに――
堪らなく嬉しくて、幸せなのに、私は受け入れる事が出来ない。
何があっても耐えるつもりで剛を引き取った。
自分の気持ちと現実、どちらも折り合いを付けてやっていく、そう決心していた。
なのに、今は、その何もかもが崩れてしまいそうだ。
私は、剛をはっきりと撥ね付ける事も、受け入れる事も出来ない。
彼を幸せにする為にこの家に呼び寄せたのに、私は逆の事をしているのではないだろうか?
私のせいで、彼が、幸せから目を背けてしまう事にならないだろうか?
私は、取り乱し、泣きながら彼の胸を叩き、多分酷い言葉を浴びせた。
彼は、傷ついている――?
夢の中の、悲しげな幼い剛の瞳が過り、私は突き動かされるまま、部屋を出て彼の居るであろう二階へ向かった。
思春期の迸る性のエネルギーは凄まじい物だと聞く。
それなのに彼は、はっきり拒否しない私に惑わされ、身体を猛らせながら、泣き出した私を無理矢理抱く事はしなかった。
私は女だから、男性の生理的な事は分からないが、彼は私を大切にしてくれたのだ――
あの時、多分、彼に貫かれても私は拒否出来なかっただろう。
本当は心も身体も、甘く彼を求めて居たのだから。
でも、その一線を越えてしまったら、彼は、私の前から居なくなってしまう。
そんな気がしてならなかった。
彼の部屋のドアの前に立ち、私は入って良い物かどうか暫し迷う。
多分、もう眠っている筈だ。
いや、もしも起きていたら――
そしてもし彼が、迫ってきたら私はどうする?
今度こそ、拒否出来ず、彼に抱かれてしまうかもしれない。
身体中に、ゾクリと甘い震えが生まれる。
――いけない。
そんな事、絶対にしてはいけないのに――
私は一体、どうしたいのだろうか。
私は彼の母になりたかったのではなかったのか。
でも一度として、彼を息子などと思った事はない。
しかも、彼の烈しい想いと欲望を、心に、この身体に感じてしまった今は、尚更息子などと思えない。
私は、母親にもなれない。
恋人にもなれない。
私は、彼のどんな存在になら、なれるのだろうか。
彼に、何が出来るの?
入ったらダメ。
彼を見たら、また恋しい気持ちが溢れてしまう。
また、彼に惹かれてしまう。
抱いて、と口にしてしまう――
胸の中で、もう一人の私が必死に
"止めろ"と繰り返し叫ぶ。
だが、私はドアノブを回し、中へと足を踏み入れた。
真夜中の静寂の闇の中で、剛はベッドで眠っていた。
安堵の溜め息を私は吐き、ずれた毛布を肩まで上げようとするが、彼の目尻に涙が光るのを見て手を止める。
彼の唇が僅かに動き、小さな寝言を呟く。
「……き……くの……」
胸が切なく痛み、私は喉の奥が締められ嗚咽しそうになる。
彼は、今、私の夢を見ているのだろうか。
出来るなら、夢の中へと入り込み、彼に思いを告げたい。
私も、私も貴方を好きだと。
貴方をずっと愛していたと……
彼は、苦しげに眉を寄せて、寝返りを打つ。
夢の中で、何を彼は見ているのだろう。
形の良い唇が歪み、彼は、眠りながら胸をかきむしり、呻いた。
「……れが……く……れば……んだ」
耐えがたい痛みにのたうち回るかの様に、彼は、何度も寝返りを打ち、シーツを強く掴む。
その指は力がこもり白くなっていた。
私は、ベッドの側に屈み、彼を見詰める。
またその唇から言葉が漏れた。
「お……れが……くなれば……いいんだ……」
私は、殴られた様な衝撃を受け、涙が一気に込み上げる。
――オレガイナクナレバイインダ――
彼は、そう思っているのだ。
私は思わず、強くシーツを掴む彼の手に触れた。
触れた時、彼の手の緊張が少し解れた様に感じた。
私は恐る恐る、その手を握り締めてみる。
すると、僅かに力が込められた様に感じた。
表情も、穏やかになっていき、私は胸を撫で下ろすが、目が慣れてきて、部屋の中が荒れているのに気付く。
いつもきちんと整頓されている本棚は、全て中身がぶちまけられ、床に散乱していた。
そして、良く見れば彼の額に何故か傷が出来ている。
私は、困惑しながら部屋の中を見渡すが、机の上に置いてある或る物を見付け、胸が潰れる様な感覚に襲われた。
ビニールに入った、小さなチョコレート。
私が
"すき" と描いた、チョコレートのプレートが、粉々に砕かれていた。
「私……私も……」
震える声で、眠る彼に言う。
「私も……
貴方を好き……
愛しているの……
愛しているの……」
ピクリ、と瞼が僅かに痙攣するが、直ぐに安らかな寝息を彼は立て始めた。
私は、眠る貴方を見詰めるしか出来ない。
眠る貴方に、愛を伝えるしか、出来ない。
いいえ、決して伝えてはいけないの――
でも、私は貴方を愛している。
伝えられなくても、貴方を受け入れられなくても、この世で一番貴方を愛しているの――
「だから……だから、お願い……
居なくなる……なんて、言わ……ないで……」
彼が、眠りから醒めませんように。
どうか、夢の中だけでも幸せに笑って居られますように。
どうか、今は、目を醒まさないで――
祈りながら、彼にそっと口付けた瞬間(とき)、涙がその頬に伝い堕ちた。
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