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恋の業火①

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ピリリリリ……


アラームのスヌーズが鳴っている。

何回目だろうか。

もういい加減起き出さなくては……


横になったまま、手を伸ばしアラームを止めようとしたが、上手く取ることが出来ずに額にバンと時計が落ちてきた。



「い――っ痛いっ」



クラシックな形の目覚ましは、その形状が可愛くて気に入っていたが、頭に落とすとこんなに痛いとは思わなかった。

普通の四角い時計よりも重いのだ。


「もうっ……
メチャクチャ痛いんだけどっ!」


私は額を擦りながら、自分が落とした癖に時計に憎まれ口を利いた。



真夜中に目が覚めてから剛の部屋へ行き、暫く彼の寝顔を見ていたのだが、空が白み始めてようやく私は寝室へ戻った。


それから瞼を閉じたものの、やはり眠れなかった。






今日は、お昼過ぎに祐樹が帰ってくる。
悟志も何時か分からないが、帰ってくる。


家族の前で、私は今まで通りに振る舞えるのだろうか。


そして、剛にこれからどうやって接していけばいいのだろう――



重い身体を無理矢理ベッドから引きずり降ろし、着替えてエプロンを付け、キッチンへ行き、ホームベーカリーのスイッチを入れる。


野菜スープをコトコト煮込みながらぼうっとテレビを見ていたが、恒例の
"MOMO'Sキッチン"

が始まり、まだ剛が起きてこない事が心配になってきた。




ホームベーカリーのパンはもう焼き上がっている。
スープの火を止め、私は意を決して二階への階段を上がり、剛の部屋をノックした。






二、三回叩いて待ってみたが返事がなく、私は恐る恐る声をかけた。


「剛さん……
おはよう……
起きて……る?」


すると、ドアが静かに開き、パジャマ姿の剛が目の前に現れた。


少し乱れた髪と、襟元から覗く胸元と喉仏が目に入り、ドキリとした瞬間(とき)、彼が腕を掴み私を部屋の中へと引き摺り込んだ。



「きゃっ……」


彼は無言で私の腕を引っ張り、乱暴にベッドへ倒した。


私の身体は弾み、転げそうになるが、寸前で彼が抱き留め、私に跨がり鋭く見詰めてくる。



「……寝起きの男の部屋に来るのは危ないって、知らないんですか」


彼が、低い声で呻く様に言う。


私は、また甘く危険な予感に身体が熱くなるのを感じた。


(どうしよう……
このままじゃ……私)


はねのけなければならない、と思うのに、彼のしなやかな指が唇を撫でるのを、私はされるがままになっていた。






「昨夜の事を忘れたんですか……?
俺の身体は、貴女が欲しくて張り詰めたままです……」



「……っ」



逃げなくては、と思うのだが、それよりも彼の苦しげな潤んだ瞳に魅入られてしまい動けない。


剛は唇に触れていた指を、私の首筋に滑らせた。


擽ったさに身を縮めたが、その指の熱さにふと違和感を覚え、私は腕を伸ばし彼の頬に触れ、額にも触れてみた。



剛はピクリと身体を震わせ囁くが、呼吸が荒い。



「……菊野さんから触れて来るなんて……
思いませんでした……
大人しく、俺に抱かれてくれるんですか……?」





「――やだっ!
凄い熱……!」



剛の胸を軽く突き飛ばすと、彼は呆気なく私を解放した。
恐らく熱で身体が言うことを利かないのだ。


私はベッドから降りるとドアまで小走りして彼から逃げた。



「……菊野、さ」



剛は起き上がるが、こめかみを押さえまたベッドへ倒れた。


私はドアノブを持ち彼を振り返る。



「取り敢えず氷枕と、飲むものを持ってくるわね……
今日は無茶したらダメよ?」






紅い顔の剛にそう言ってドアを閉め、私は氷枕を引っ張り出して、氷を一杯に詰めて二階へ行き、彼の頭の下へ敷いた。


「パジャマも替えた方がいいかしら……」


私は勝手に彼のクローゼットを開けて、パジャマと下着を出す。


「これに着替えて、脱いだ物はこの中へ入れて頂戴ね」



私はまた階下へ走り、ランドリーボックスと水を持ってきた。



彼は、水を受け取りながら私の腕を掴み、色気を漂わせた瞳で見詰めるが、朦朧としている故にそう見えるのかも知れない。


私は引き摺られまいと奥歯を食い縛り、まっすぐに彼を見返した。



「着替えは自分でしてくださいね。
……何か食べるものを持ってきますから」


彼の手をほどき、心臓が烈しく鳴るのを感じながら部屋を出て階段を降りる。







そして林檎の実を擦り、持っていき、彼に食べるように促すが、剛は甘える様な眼差しを私に向ける。


「……食べさせてくれたら、食べます」


「……っ」


私はまた頬に熱を持ち、自分が熱を出したのかと錯覚をしてしまう。
この期に及んで迫る彼を怒ってやろうかと思ったが、ぼうっと焦点の合わない目をした彼を見て、私は


"この子は、病人だもの……
優しくしてあげなくちゃ"

と思い直し、スプーンで林檎を掬い、彼の口元へ持っていく。



彼は、素直に口を開けて、林檎を飲み込むと、小さく呟いた。



「……冷たくて、美味しい……です」


微かな笑顔に胸がキュンと鳴り、私はゆっくりと彼の口にスプーンを運んだ。


無心に林檎を飲み込む彼は、まるでほんの小さな子供のように見えた。






剛は、虚ろな視線をさ迷わせ、過去の記憶をたどりながら掠れた声で話す。


「……身体が熱くて、身体の全部が痛くて苦しくて……
そんな時でも、あの人達は俺を置いて何日も留守をしました……」



「剛さん……」



私は、彼の手を思わず握ると、僅かな力で握り返された。



「そんな時、良く夢を見ました……
頭が馬で、身体が人間の形をした生き物が……
俺を手招きするんです……

そこはお前の居る場所じゃない……

こっちへ来れば、苦しい事は何も無くなるよ……て……言うんで……」



剛は、そこまで話すと胸を抑え咳き込み、私は彼の背中を擦る。



「剛さん……
もう、喋らないで……
眠った方がいいわ……」


咳き込む彼は、首を振り、尚も続けた。


「でも……
馬の顔をした人間なんか怪しいから、嫌だ、て俺は逃げるんです……

逃げて逃げて……

そうしていると目が覚めて……」



私は、幼い剛が一人家に取り残される映像を思い浮かべ、胸が抉られる痛みを感じた。


彼にかける言葉が見付からず、ただ側で手を握るしかなかった。






「……でも、夢の中であの手を取っていれば、俺は死ねたかも知れない……」


彼の言葉に、喉の奥を握り潰された様な痛みと衝撃を覚え、私は大きく首を振り、その手を強く握り締めた。



「な、何を言うの……!
死んでしまったら、私、こうして剛さんに会えなかったのよ?
……死ななくて良かったのよ……」



「……それは、どうか……な」



剛が、弱々しい眼差しを向けた。


「……え……」



「生き延びた俺は……
貴女に会って……
貴女に恋して……
そして苦しめて……る……」




私が絶句すると、彼は、また苦しそうに咳き込む。



「剛さん……
お願い……もう、喋らないで……
休まないと……熱が下がらないわ」



涙が溢れてしまい、しゃくりあげながら私はやっとの思いで彼に言う。



「……このまま、別に死んでも構いません」



「バカを言わないで……っ」


剛が、苦し気に眉を歪ませ、私を見詰めた。


「貴女を……愛せないなら……
俺は……死んでも……」



「バカア!」


私は思わず彼の頬を打った。






「つっ……ゲホッ」


咳き込む彼を見て私は我にかえり、打ってしまった彼の頬を掌で包み侘びた。


「ご……めんなさい……
い、痛かった?」



「はは……
病人相手に……
容赦……ないですね」



剛は、私の掌に手を重ね微かに笑うが、その瞳からポロリと涙が堕ちる。


「つ……よしさ……」


彼の顔を覗き込むが、彼は顔を逸らし私の手を振り払った。



「……もう……
放って置いてくださ……」


初めて弱気な姿を見せた彼は、見捨てられた幼児(おさなご)だった。


私は突き動かされるまま震える彼を腕の中で包み込み、その頬に口付けた。


「お……俺は……っ」



顔を歪め涙を流す彼を宥める様に私は背中を撫でて、小さな子をあやす様に言った。



「剛さん……
もう、黙って……」



私は、咽び泣く彼を抱き締めていたが、いつしか彼は胸の中で寝息を立て始めた。






剛を起こさないよう、静かに身体をベッドに寝かせ、涙を指で拭ってやりながら、無垢なその寝顔を見詰めた。


目元も、鼻筋も眉も、くっきりとした輪郭も、髪の色や質まで祐樹に似ている。



剛が、本当に私の息子なら良かったのに、と思った。


祐樹と、双子の兄弟だっなら、私は産まれたその時から彼を包み、守る事が出来たのに。


それに、最初から息子として貴方に逢っていたならば、私は貴方を男として愛する事はなかった――


多分……


そうしたら、こんな切ない想いに私も貴方も、苦しまなくて良かったのに……



彼の髪をそっと指で鋤きながら、どうにもならない物思いに沈む。





※※









「――?」


私は暫し時間を忘れ剛の寝顔を見ていたが、階下で、何か電子音が鳴っているのに気付く。



「……電話かしら」



足音を立てない様に気を付けながら下へ降りると、音は寝室の方からだ。


ベッドの上のスマホが着信を知らせていた。



「もしもし……」



『ああ、菊野?
私よ、お家は変わりない?』



「あ……お母さん」



電話の向こうは騒がしく、聞き取り辛かったが、花野だとすぐにわかった。


『あら?
電話が遠いせいかしら……

元気がないわねえ、具合でも悪いの?』



ギクリとして、私は明るい声を出して誤魔化す。


「え~?
そうだった?
私はいつも通りよ~!
アハハハ――!」



『……ならいいけど……
祐ちゃんと代わるわね』


直ぐに、祐樹の元気な声がした。


『ママ――!
スッゴく楽しかったよ~!
なんかね、弾いてる人の指がダンスしてるみたいだったよ!
アンコールが三回も起こったんだよ!
でね、俺、花束をステージまで持って行って握手して貰ったんだ!』



「そうなの……
良かったわねえ……」


私は、嬉しそうな祐樹の顔が思い浮かび、頬が緩んだ。






『いつかママとも行きたいな~!
や、じゃなくて、俺がリサイタルを開いてママを招待する!』


祐樹の瞳は、きっと今希望に満ち溢れ輝いているのだろう。


私は、息子が夢を抱き胸を踊らす様子を電話越しの声に感じながら、剛の絶望的な言葉を唐突に思い出し、また胸が詰まる。



「良かったわね……
祐ちゃん、本当に良かったわね……」



『ママ、どうしたの?
声が変』



「そう?泣けるドラマ見てたからかな~」



私は、鼻を啜り、明るく答えた。



『あ、花野ばーばに代わるね』



『もしもし?
そういう訳で楽しませて貰ったわよ~!
今から近くの動物園を見てから新幹線に乗って帰るけど……
多分夕方には帰れると思うわ』



「ありがとうお母さん……
祐樹を宜しくね」



切ってから、私は暫しスマホの画面を見ていたが、ふと、剛は将来どうするつもりなのだろうか、という疑問が湧いた。





難関の進学校に合格したものの、その先どんな道に進みたい、という話を剛から聞いた事がない。

だが、まだ十五歳なのだし、今から先を見据えている子ばかりではないのだろう。


剛と同じ年頃の自分は特に何の目標も無く――
お嫁さんになって双子を育てる、という夢を漠然と描いていた。


今思えば、本当に自分はのほほんと、幸せに生きてきたのだ、と分かる。


恋に身を焦がす事もなく悟志と結婚をして、祐樹を産んで――


穏やかだった私の毎日が、剛との出会いで変わっていったのだ。



表面は、何も変化は無いのかも知れない。

だが、確実に、私と剛の関係は今までとは違う。

それが、これからの毎日に、この家に何をもたらすのだろうか……







剛にまた甘く切なく囁かれたら、私は拒否出来るのだろうか?


正直、自信がなかった。

施設で一目見てから彼に母性を超えた愛を感じていた。


彼が成長し、美しい青年になっていくのを、密かに胸をときめかせて見詰めていた。



でも、想いのままに、彼との恋に溺れてしまったら、私も彼も破滅に向かうだけだ。


彼が、何か他の事に目を向けてくれたら――



「……そうだわ……
将来……
将来の事……
話をしてみようかしら」



彼が起きて元気そうだったら、話をしてみよう。

剛は成績も優秀だし、ピアノの才能もなかなかの物だ、と花野も太鼓判を押している。




「――学校の音楽の先生とか……
ピアノの先生もいいわね……」



私の勝手な希望と想像だが、考えているうちに、段々と気持ちが軽くなるのを感じた。



「励ましながら、剛さんの将来を応援しなくちゃ……」



私は気合いを入れるようにエプロンのリボンを締め直し、取り敢えず洗濯 から片付ける事にした。






家事を一通りこなし、夕飯の下拵えをしながらお粥も炊いた私は時計を見て、剛の様子を見に行かなくてはと思う。


救急箱から薬を出して、お粥と水をトレーに乗せて注意深く階段を上がる。

以前、派手に転げ落ちた事があるのだ。


頭に瘤が出来ただけで済んだが、鍋を持ったまま転げたら大惨事になってしまう。



「……気を付けて……
気を付けて……」



呪文を唱える様に呟き、何とか無事に剛の部屋の前まで辿り着いた私は安堵して溜め息を吐いた。


でも、本当に危険なのは、この部屋で二人きりになる事だわ――


私はドキドキ胸を鳴らしながら声をかける。


「剛さん……
気分はどうかしら……?
お薬、飲みましょ……?」






反応がない。

私は静かにドアを開けるが、ギイと大きな音を立ててしまい、自分が驚いて声を上げてしまった。


「うわあああ」



そのせいで、眠っていた剛が目を覚ました。

彼は、目をしばたかせ、暫く呆然としていた。


冬眠から覚めた熊は、こんな風なのではないだろうか、と私は想像しながらトレーを机まで運ぶ。


「ごめんね……起こして……
でも、何か食べてお薬飲んだ方がいいから……
お粥、ここに置くわね」


剛は、先程よりはスッキリとした表情をしていた。


私は彼と視線を合わさないようにして、ドアに手をかけるが、熱のこもった眼差しを背中に感じていた。



「……後で、食器を取りにくるから、ちゃんと食べてね……」


振り返ったらいけない。

そう自分に言い聞かせ、私は部屋から出てドアを閉めた。







私は奥歯にギュウと力を入れ、しかめ面のまま階段を降りるが、リビングでソファに突っ伏して溜め息を吐いた。


「はあ……
危なかった……
あんな目で見られたら、私……」


心臓の音がまだ煩く私を責め立てていた。


――お前も彼を好きで、彼もお前を好きだと言っているのだから、思うようにすればいいじゃないか。
何を躊躇う事がある?――


そんな叫びが聞こえてくるような気がする。



「ダメよ!ダメダメ!」


一人首を振り、頭を抱えクッションに顔を埋めたその時、インターホンが鳴った。



「はい……」



ドアを開けて、其処に立つ人物を見て思わず絶句してしまう。



清崎晴香だった。

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