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躾られたBEAST①

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 何が起こったのかを理解するのに数秒かかった。


 突然、背後から何かに引っ張られよろけた美名は悲鳴を上げるが、直ぐ様口を塞がれた。


 自分の口を塞ぐその手桃子でも綾波の物でも無い事に美名は恐怖を覚えたが、視界が急激に変化し天井が見えた時、身体が一瞬跳ねてまた押さえ付けられる。

 抵抗するも、強い力には敵わない。

 ソファの上に倒された美名の目に飛び込んで来たのは、優しげな顔立ちの、上品なスーツ姿の男だった。


 優しい目に物憂げな色が見えて、美名はこんな場合なのにドキリとした。


 何か懐かしい様な感情が沸いて戸惑う。


(……て、知る訳ないじゃないこんな人!
……剛さん……早く、来て……!)



「む、……むむっ……ん――っん――っ」



(貴方は誰――!?
何故、こんな事をするの?)


 そうやって怒鳴ってやりたいのに、喋れないのがもどかしい。

 噛みついてやろうとした時、真っ直ぐに美名を見下ろしていた男は、口を塞いでいた手を離した。




「ぷはっ……」


 ようやく呼吸が自由に出来る様になった、と安堵したのも束の間、男の手が顎を掴み唇を重ねて来た。



「――――!」



 唇に触れられた瞬間、電流が走ったかの様な甘い衝撃が襲う。


 必死に男の胸を押して逃れようとするが、身体中で抱き締められ、唇も舌もまるで磁石が吸い付くみたいに離れてくれない。


「ん……っ……やあっ!」

 
 渾身の力を込め肘で男の胸を打つと、一瞬唇が離れた。



「……はあっ……はあっ……な……なんで」


 恐怖と、見知らぬ男の無礼への怒りと、そんな男の口付けに反応してしまった自分への戸惑いに美名は涙を滲ませた目を向ける。


 男は、美名の両手首を纏め上げ、熱く見つめるが、美名は首を振る。



「や……めて……今に……人が……剛さんが……来たら……あ、貴方なんか……やっつけ……」



 しゃくりあげ、声が詰まる。



 男は、美名の頬をそっと撫でると、消え入りそうな優しい声で呟いた。




「……君は……美しい……画面で見るよりも……ずっと」






「――!?」


 大きな疑問符が胸の中で一杯に溢れる寸前、再び唇を奪われ、咥内を思うままに犯される。


 男の身体はしなやかな肉食獣を思わせる。

 
 逃れようとしてもその柔軟で機敏な動きで封じ込められ、狙われた獲物は程無く食い荒らされてしまうのだろう。


 纏められた手首がじんじんと痺れ脚に力が入らない。


 美名は只でさえ疲労が溜まって居る。

 
 今に、抵抗する力が尽きようとしていた。


 突然の烈しく、巧みな口付けに陥落寸前の美名の耳朶に、男がそっと甘噛みをした時、美名は小さく悲鳴を上げた。



「……なんて、綺麗なんだ……やはり……君が、欲しい……」



「――……」



 瞼が鉛の様に重くなり、意識が飛びそうになっている。

 心の中で綾波を呼びながら、美名は力が入らなくなりつつある指先で男の上着を掴む。

 胸元に名札があるのに気付き、その名前は薄れ行く美名の意識に僅かに刻まれた。



――誉(ほまれ)……貴方の、名前……なの?貴方は……誰なの?



 そう言葉にする前に、美名は完全に意識を手放した。







「本当に、申し訳ありませんでした!」


 柳が土下座しそうな勢いで頭を下げるのを桃子が眉を寄せて睨む。


「休憩も取らずに十着も窮屈なドレスを着せるとか、どんだけなのよ?……お姉ちゃんにもしもの事があったらどうするつもりだったのよっ!大体ねえっ」


 段々ヒートアップする桃子を三広が宥めようと手を握るが、桃子の怒りは収まらない。



 最上階のスウィートの一室で、担当の柳は先程から平謝りしていた。



 美名は、隣の寝室で良く眠っていた。


 フィッティングルームで意識を失い倒れた美名は、後からやって来た綾波と柳に発見された。


 柳は医者を呼び、美名を診察させたが、どうやら疲労と貧血らしい。


 美名は既に2時間程眠っている。



v


「桃子、もう止せ……」


 美名についていた綾波が寝室から出てきて静かに言うと、柳の前に立った。

 柳は、頭を上げて目を潤ませるが再び身体を大きく折る。



「あ……綾波様!申し訳ありませんっ……」


 綾波は小さく息を吐き、柳の震える肩を軽く叩く。



「柳さん、顔を上げてくれ。……俺も悪かったんだ。ずっと美名には無理をさせていたからな……」



「で……でもっ」



 綾波は、柳の肩を掴んで強引に上を向かせる。



 柳の大きな目から堪えきれない涙がぽろりと流れた。



「ちょ――綾波っ!あんた、女相手だからって甘くない?お姉ちゃんよりもそっちの女の方の肩を持つわけ――!?」


「桃ちゃんっ落ち着いてっ」


 三広は桃子を後ろから抱き締めて宥めた。






「三広、桃子を頼む」


 綾波が言うと、三広はまだ不満げに柳を睨む桃子の肩を抱いて部屋を出て行った。



 涙を見せながら唇を噛み姿勢良く立つ柳に、綾波は柔らかく笑う。



「……初日から、飛ばし過ぎた感はあるが、一生懸命やって頂いて、柳さんには感謝していますよ」



「そ、そんな……とんでもない!」



 首を振る柳に、綾波はハンカチを差し出す。


 恐縮して受け取ろうとしない柳に無理矢理その手に握らせると、部屋を見渡した。



「……急遽、こんな素晴らしい部屋に変更までして頂いて、かえってこちらが申し訳ない……」


「い、いいえ!当然の対応をさせて頂いたまでです!それに、私の上司にも言われましたし――」



「上司?」




 綾波が眉を寄せた時、部屋のドアがノックされた。





「――失礼致します……主任の日比野と申しますが……」



 ドアの向こうで、折り目正しい気配がうかがえる整然とした印象の良く通る声がして、柳は綾波を振り返る。



「あ……そ、その上司です……」


 柳はドアを開けて、日比野という男に頭を下げた。


 日比野という上司は、年齢は綾波よりも少し上だろうか。上品な物腰に、柔らかさを纏った笑顔は如何にも人相手の職業には向いている様に見えるが、作られた表情には見えない。

 生来の彼の性質なのか、それとも職業上で身に付いた物なのかは分からないが、ぱっと見た印象は、誰もが彼を『イケメンな優しいビジネスマン風』
と評するだろう。



 日比野は、ゆったりとした笑みを柳に向けると、綾波に向き直り、御手本の様なお辞儀をして名刺を渡してきた。



「――この度は、大変失礼を致しました……私は、ウエディングコンサルティングチーム主任の、日比野と申します」





 綾波も、お辞儀をしながら名刺を受け取る。



 その時日比野は、柔和な笑みを綾波に向けたが、瞳の中にほんの一瞬だけ鈍い光が宿る。



「日比野……誉(ほまれ)……さん?」



 綾波は、日比野の顔と名刺を交互に見て、遠い、ある記憶が過ったが、ひとり小さく首を振る。


(まさか……な)



「――はい、その字の通り私の親が
『この国の誉となるような人間になって欲しい』と、付けたらしいです。……名前負けで、お恥ずかしいですが……」



 日比野は、にこやかな顔を向け、耳障りの良い声で綾波に話した。



「いえ……
素晴らしいと思いますよ」


 綾波は穏やかに笑った。






「半年程、ニューヨーク支社に出向してから、また三ヶ月程、北海道支社に居まして……先日こちらへ戻ってきた処なんですが……」



「そうなんですか……」



 綾波は、日比野を然り気無く観察した。


 いかにもそつのない、出来る男という風情だ。一歩下がり、横で神妙にしている柳も、彼を上司として尊敬している風が端から見ても窺える。



 日比野は、突然くしゃりと頬を綻ばせた。


「……実は、私、princes & junkyの……灰吹美名さんのファンでして……
美名さんがここで挙式の予約をされた、という事を柳から聞きまして、とても嬉しいんですよ……ね?柳君」



「ほう……それはそれは……ありがとうございます」



 綾波は眉を上げた。



 柳は、ようやく少し表情が柔らかくなり、綾波に頷いた。



「主任は、こう見えて実はミーハーなんですよ……確か、ニューヨークに行く前は西野未菜(にしの・みな)が大好きでしたよね?  」


「ほう……」



 綾波は、幾分か頬をひきつらせた。忘れもしない、美名や自分に嫌がらせや妨害をしていた張本人だ。



 西野は、自分の所属するプロダクションOMIで立て籠り事件を起こし、それがきっかけとなり、彼女の過去の悪行やOMIの
『売り出す為には何でもする』
という体質が次々と明らかになり、社長は辞任、西野は無期限活動停止になっているのだ。






「あ……すいません」


 柳は、綾波の苦い顔を見て慌てて口をつぐむ。



「まあ、気にしないでいいですよ……もう、終わった事ですし……美名はこれからは幸せになるだけです……」



 綾波は、柳に穏やかに笑いかけながら胸の中で呟いた。



(――そうだ……俺が美名を幸せにする……)



 日比野は、そんな綾波を静かな眼差しで見ていた。



 柳は、時計をちらりと見て小声で言う。



「……本日、衣裳合わせの他にも予定していた打ち合わせがありましたが……美名様の休養が第一ですね……
今日はこのまま、ゆっくりお過ごし下さい……」



「ああ、ありがとう」



 綾波は、ふと美名の声が聞こえた気がして振り返ると、二人に軽く頭を下げた。



「――すいません、ちょっと失礼を……」





 美名は夢を見ていた。



『剛……さ……』



 波打ち際で、綾波と手を繋いで歩いていた時、美名は彼を呼んだ。


 美名は、砂に足を取られそうになりながら綾波の背中と襟足に揺れる彼の真っ直ぐな髪に見とれる。



『……剛さん?』



 波の音に掻き消されて届かないのだろうか。綾波は振り返らない。


 美名は、今一度、彼に愛の言葉を囁いて欲しくて背中から腕を回して彼を抱き締めた。



『――剛……さん……私を、離さないって……もう一度、言って?』



 こうしてねだれば必ず、妖しく、だが優しい瞳を向けて、甘く言葉を返してくれる筈。



 彼は、ゆっくりと振り返るが、美名は瞬間背中が凍り付く。



 そこに居るのは綾波では無かった。



 そこに居たのは―――





「や……いやああ――っ!」



 美名の叫びが、波を切り裂いた。






「――美名!」




 呼ばれたその声に、手を握り締められる感触に、ハッと瞼を開けると、綾波の顔が目の前にあった。



 溺れかけた子供の様に綾波の身体にすがり付くと、彼のしなやかな腕が優しく抱き締めて来る。



「怖い夢でも見たか?」



「剛さん……剛さっ……」


 甘く低い声は胸に染み渡り、美名は涙ぐみ彼の名前を呼んだ。


――そう、怖かった。夢で本当に良かった。




 綾波は、むずがる子供をあやす様に美名の髪や頬を撫でて優しく言う。



「相当疲れた様だな……悪かったな……無理をさせたのは俺だ……」



 美名は、首を振り――違う、と言おうとした。



 貴方のせいじゃない。私がこんなに今、震えているのは……不安なのは……








「大丈夫ですか――!?」


 柳の声で、美名の喉まで出かかった言葉は呑み込まれた。



 柳は、抱き合う二人を見て赤くなり立ち尽くしていた。



「失礼をしました……叫び声が聞こえたので……」


 
 綾波は、美名を離さないままで笑いかける。



「――構わないですよ」



 柳の後ろから日比野が顔を出して部屋へ一歩入って来た時、綾波の腕の中の美名と視線が合わさる。
 


 瞬間、日比野が妖しく底知れない眼差しを美名に向け、美名は息を呑んだ。




(――あの人は……あの人は……!さっき私に……!)



 彼の腕の力、唇が咥内を掻き回した感触に、彼の香りまでが生々しく自分に纏わりついている。







 美名は、日比野が何故ここにいるのか、何故平然とした表情なのか理解出来ずに困惑した。


(あんなに強く烈しく抱き締め押さえ付けて、気を失う程の巧みな口付けをしたのに――)



 綾波は、美名が震えているのは悪夢のせいなのだろうと思い優しく頭を撫で、日比野と柳に静かに言った。


「――大丈夫です。ご心配ありがとうございます……美名を休ませたいので……後は二人にして貰っても?」



 日比野は穏やかに頷いた。



「――勿論です……何かあったら、又お申し付け下さい……では、お大事に……柳君、行きましょう……」


「は、はいっ!……美名様、今日はごゆっくりとおくつろぎ下さいね?食事もお部屋に運ばせる様に致しますので……」



「――ありがとう」



 丁寧にお辞儀をして出ていく二人に、綾波も軽く会釈をした。



 美名は目を瞑り、顔を綾波の胸に埋めてまだ震えていた。




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