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壊れるほどに
しおりを挟むその日は、真歩が買ってきてくれた高級弁当を夕食に、皆賑やかに騒いだ。
真歩はどうやら交際していた男性と別れたらしく、しかも手切れ金を幾らか渡され、ショッピングで使いきって来たのだ。
結婚を約束していたが、男性の方が二股をかけていて相手が妊娠したらしく、別れる事になったらしい。
真歩は大量にチューハイやらスパークリングワインやら買い込んできて飲んだくれていた。
祐樹は、こうなる事が分かっているので、真歩から逃げるように夕食を済ましてからさっさと自分の部屋へ引っ込んでしまった。
剛はピアノに向かい、時折こちらを見て微笑する。
目が合ってしまい、つい胸を高鳴らせてしまうが、真歩が居る前で彼への思いを出してはいけない。
私は唇を結んだ。
「はあ~今度こそ、結婚報告出来ると思ったのにい~!!」
「私、その人の話は全く聞いて無いわよ?」
既に開けてしまった大量の缶を片しながら、私は真歩に熱い緑茶を差し出すが、彼女は頬を膨らませてイヤイヤの仕草をする。
「茶~はいいわよ~!
まだ飲むんだから――!」
「もういい加減にした方がいいんじゃない?
何本飲んだと思ってるのよ」
「ええ~!?まだ~いっほんしきゃ~のんれらいよ~」
彼女の頬や首筋は綺麗に紅色に染まり、目は焦点が合っていない。
こうしてうちに来て酔いつぶれてしまうのも珍しくは無いのだが、今夜の彼女は何処か痛々しく見えた。
「ほら、呂律が回ってない!」
「よっれないろ?」
真歩はニヤニヤ笑い、いきなり私に抱き付いて胸に顔を埋めた。
「むう~わらし~菊野と~へっほんしようかにゃ~」
「ま、真歩っ……くすぐったいってば……」
真歩は胸に顔を埋めたまま、首を振った。
「いい事思いついら~!聞いて~!」
真歩の指がなぜか胸を揉んでいる。
私は悶絶しながら彼女に相槌を打った。
「うんうん。なあに?」
「菊野と~わらしと~悟志しゃんれ~三人でへっほんする~!」
「……え、ええ?」
真歩は、冗談とも本気とも付かない事をサラリと言う事があるが、今のは酔いに任せて出た本音なのだろうか。
なんとあしらって良いか分からずに私は絶句するが、真歩のひたむきな光を帯びた瞳が見ていて、顔を逸らせない。
「――私ね、悟志しゃんが好き」
「――」
「れもね~菊野のことも~らい好きなろよ~!」
「きゃっ」
真歩に覆い被さられ、私はバランスを崩して二人で床に転がった。
フローリングに直に頭をぶつけた私は、痛くて顔をしかめて真歩の背中を擦った。
「真歩、本当に飲み過ぎだってば……」
「さとしひゃん……ひっく」
真歩はいつの間にかしゃくりあげている。
私は絶句して真歩の言葉を聞きながら、背中を撫でるしかなかった。
「さとひしゃんがいにゃいと……さみひ……ひっ……」
「うん……うん」
「はやく……おきで……もろっれきれ……」
「――うん」
「すう……」
受け止めている身体が重くなった瞬間、真歩は眠りに落ちていた。
剛がピアノの蓋を閉じ、こちらに歩いてやって来て、真歩を抱き上げた。
「真歩……」
「ふ~ん……さろひひゃん……も一杯のまへて……」
彼女の目尻には涙が光っていた。
胸が詰まって俯く私に剛が声をかける。
「真歩さん、何処へ寝かせます?」
「あ……そうね……私の寝室へ……」
剛は頷くと、真歩を抱えて部屋へ向かった。
その凛とした後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見送り、リビングのテーブルの上の茶器や散乱した缶を拾い片す。
バレンタインデーから今日までに起きた出来事を胸の中で反芻しながら。
剛に想いを告げられ……悟志が私の気持ちに気付いて……そして倒れて……剛と身体を重ねて……
色んな事があった。
彼と想いが通じあっても、ときめきと同じかそれ以上に苦い想いを味わっている。
私は、今まで何も知らなかった。
人を好きになるという事がどんなに自分を幸せに、そして貪欲にして、時に身を裂かれるような痛みを伴うのかを。
私が剛を想うように、悟志も私を想っていたのだろうか。
そして真歩も、そんな想いをずっと秘めていた……
眠り続ける悟志は、私を許すだろうか。
私の裏切りに傷付いて憤って、悟志は意識を閉じたのだろうか?
悟志は依然として眠り続けている。
未だに何が原因なのかわからないまま、白い病室のベッドで、まるでこれが当たり前なのかのように静かに。
彼は、眠っている時まで優しい表情だ。
倒れたあの夜、私を烈しく抱いた彼の熱くて燃える瞳と、意識を失う直前のとてつもなく穏やかな瞳。
どちらも胸に焼き付いて私を苦しめる。
けれど剛の姿を目に映した瞬間、私をずっと想って大切に守ってくれていた貴方の事を、跡形もなく忘れてしまう。
――なんて酷い。
ピアノの蓋を再び開けて、剛が先程まで弾いていた練習曲を、思い出しながら指で辿って鍵盤を押してみる。
たどたどしいその音は、何処か物悲しくリビングに響いた。
「――真歩さん、ぐっすり眠っていますよ」
背中に、剛の声と、掌の温もりを感じた。
視界に彼の長い腕としなやかな指が入る。
私の背中と肩を包み込む様にしながら、彼は旋律を奏でる。
弾こうとした導入部のメロディを、彼のしなやかな指が難なく弾くのをうっとりと見詰めていたが、彼が耳に囁いて来る。
「菊野さんは、ピアノを習わなかったの?」
「うん……小さな頃に母が教えてくれた事もあったんだけど……
私が練習嫌いで……
絵本を読んだり、お料理をする方が好きだったから……」
剛は、涼やかな小さな笑いを溢し、鍵盤から指を離すと私の身体を包み込んだ。
きゅう、と胸の奥がときめいて、同時に目眩をおぼえた。
「あいつ……森本……」
バクン、と心臓が跳ねたのを、彼に悟られなければいいが。
私はなるべく平静を装う。
「森本君……?がどうかしたの?」
「――俺が聞きたい事が、わかっているでしょう?」
剛の声に、少しの苛立ちと嫉妬が混じっているのを、私は嬉しいと思ってしまう。
「ううん……わからないわ」
私がとぼけると、彼の腕に力が込められた。
「……あいつ、菊野さんに疚しい欲を抱いています」
低い声に抑えようのない激情を感じ、私の心はときめきにうち震える。
剛が、私を心配している。そして、森本に嫉妬している。
彼と二人きりでこの家にいた事を嫉妬している。
「友達をそんな風に思ったらいけないわ」
「――」
剛が絶句する。
私は彼の腕をそっとほどき、正面に向き直り切れ長の瞳を見詰めた。
長い指が頬に触れて、彼の瞳が揺れる。
「今日は……すいませんでした……
大きな声を出して」
「いいの……」
私は首を振り、彼の手に自分の手を重ねた。
剛の唇が、何かを言いたげに僅かに開き、躊躇うように閉じて――という動きを何度か繰り返した。
私は、笑顔を向けて訊ねる。
「……なあに?剛さん」
「清崎と……」
その名前にチクリと心に痛みが走るが、引き続き冷静さを装う。
彼は、シャツを捲り包帯の巻かれた腕を見せた。
「ちゃんと、病院に行って診てもらいましたから……安心して下さい」
「そう……良かった。
痕が残らなければいいけど」
「残ってもいいんです」
腕から顔へ視線を戻すと、彼の瞳が赤く潤んでいた。
「この傷は……菊野さんとの恋の証です」
「――」
何度見詰められても、慣れない。
その度に身体がどうしようもなく熱くなり、喉の奥が渇く。
もっと、もっと、私を見て――
いっそ貴方の瞳の中に閉じ込められてもいい。
今こうしていても、私の全身が貴方に恋して、求めている。
重ねる掌に想いが伝わったかのように、彼は私の視線を受け止めて頷いた。
「菊野さん……今夜も……貴女を抱きたい」
「――」
「いい……ですか?」
――今まで、止めて、と言っても強引に奪って来たくせに、今夜に限って私に聞くの?
私に、答えろと言うの?――
みるみるうちに頬が染まるのを自覚しながら、私は小さく頷いた。
剛は、驚いたように目を大きく開き、私の顔を覗きこみ、穴の開くほど見詰める。
「――も……う……見ないで!」
恥ずかしさに、つい顔を逸らして彼の手をほどくが、直ぐに彼の手が追い掛けてきて、私を捕まえる。
再びギリギリまで近付く、二人の体温。
彼の熱い息が首筋にかかり、私の身体の奥は切なく疼き、泣きそうになる。
「本当に、いいんですか?」
彼は本気で戸惑っていた。
私は恥ずかしさに目を開けられない。
「……つ……剛さんが聞いて来たくせに」
「そうですけど……
いつも、ダメだとか、止めて……とか言うのに」
「それはっ……」
瞼を開けて見上げると、彼に唇を塞がれた。
優しいバードキスを何度も唇に落とされて、彼の掌が背中に流れる髪を撫で首筋に触れる。
擽ったさと寒気が襲い震えてしまう私を、彼は強く抱き締めた。
壁の時計をチラリと見て、私の顔を覗きこみ少し困った表情をする。
「……今日は、真歩さんもいるし、断られるかと思いました」
「そうした方が良かったの……?」
彼の顔が見れなくて、胸に顔を埋めて呟く。
大好きで、いとおしくて、切なくて、本当に泣いてしまいそうだった。
生まれて初めて恋した人。
私の、一番大切に思う人。
大好きで、そして時々憎くさえ思う――私をこんな風に変えてしまった貴方を。
もう二度と以前の私には戻れない。
けれど、もう終わらせる。
今夜、もう一晩だけ貴方の恋人として生きて……
それで終わらせる。
苦しくても辛くても、そうするって決めたの……
剛は、私の顎に手を掛けて上を向かせた。
彼の切れ長の瞳の色がいつもにまして綺麗な光を放っている。
「何か考えていますね……」
探る様に、私の目の中の感情を読み取ろうとする剛の首に腕を回し、私から口付けを仕掛けた。
彼の身体がビクリと震え、早くも私のキスに応えてくる。
舌を割り込ませて掻き回して、私を蕩けさせながら彼も溜め息を吐く。
彼の若い身体と心は誘惑に直ぐに反応してしまう。
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――何も考えないで、私を抱いて……
心も身体も、壊されてしまってもいい……貴方になら……――
私は、長い長いキスをして唇を離し、彼を真っ直ぐに見詰めた。
「剛さんのベッドで……抱いて」
そう言うと、彼の腕が直ぐ様軽々と私を抱き上げ、部屋へと連れていく。
彼の胸に頭をもたせかけ、私は瞼を閉じた。
今夜、今の私の全部を、貴方に渡すから――
剛さん……どうか、許して……
明日には貴方との恋を捨てる私を、憎んでもいいから……
彼がベッドに私を沈めるその時、愛している、と告げよう。
恋人でいれる最期の夜なのだから――
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