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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第38話「清春は、思惑どおりに動かない」
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(Jill FultonによるPixabayからの画像)
その日、コルヌイエホテルのレセプションで勤務していた真乃は、黒いジャケットに黒のボウタイに身を包んでいるスタッフの一群が、ロビーを横切っていくのを見かけた。
16階のバンケット会場で、大手金融機関の新頭取就任パーティが開催される。その準備のためのスタッフだろう。
真乃と一緒にレセプションカウンターにいた先輩の白石《しらいし》もその一群に気がついた。
「お、今日のパーティチームだな。なんだ、井上はまだ宴会部に配属されているのか? 宴会部での研修は、終わったと思ったんだが」
真乃が目をやると、見慣れた異母兄の端正な姿が黒いジャケットに包まれてスタッフの中にいた。
白石の疑問に、真乃は仕事の手をとめずに答えた。
「異母兄の宴会部での研修は、とっくに終わっていますよ。今は料飲部にいて、”スターバー”に配属されていますから。
でも宴会部の長谷《はせ》主任が兄を気に入っていて、大きなパーティのときには料飲部に掛け合ってヘルプに呼ぶんです」
「なるほどな。あいつが居れば、安心というところか。それにしても、今の配属先は17階の”スターバー”か? なぜメインバーに配置されなかった?」
白石が不思議そうに言うのに、真乃は淡々と答えた。
「メインバーには、深沢さんがいるから。兄と深沢さんは同じ部署に配属しないっていうのが、暗黙の決まりなんでしょう? なぜかしら」
すると白石はニヤリと笑った。
「なぜだと思う?」
「ふたりとも、仕事が出来すぎるから?」
真乃がふざけて答えると、白石は軽くわらい、
「井上の仕事っぷりはともかく、深沢は十分に評価されていないな。おれはもったいないと思うが、あいつがそれでいいと思っているから、どうしようもない。それでも――」
と、白石は続けた。
「深沢くらい酒と酔客《すいきゃく》の扱いがうまければ、バーテンとしては優秀すぎるんだ。
あのふたりを同じバーに配属しないのは、女性客が集中するからだよ」
真乃は、弓形の眉毛をピクリと動かした。
「……そうでしょうね」
「一度な、あいつらが入職したばかりの時に、メインバーでの研修時期がかぶったことがある。メインバーが女性客でパンクしたぜ」
「はあ」
真乃はぼんやりと相槌を打った。
なるほど、異母兄の端正なボーイ姿と深沢洋輔のたっぷりした色気ある身動きは、一見に値するだろう。女客たちはどれほど金を払っても惜しくないと思ったはずだ。
そんな真乃の横で、白石はぼそりと、
「それにしても、井上はベルボーイから始めてレセプション、ランドリー、ハウスキーピングに宴会部、今が料飲部だろう。あいつは結局、どこに配属されたいんだ」
たしかに、コルヌイエに入職してからの3年で、清春はあらゆる現場を渡り歩いている。そのすべての職場で引き留めにあい、研修が終わったら戻ってきてくれと言われているらしい。
いったい、清春の本心はどこにあるのか。真乃も、気になっている。
ただし真乃の知りたいことは、清春がコルヌイエの『どの部署』に落ち着くか、という点ではない。
清春に、コルヌイエを含む『ワタベホテルズ全体を引き受ける』気があるのかどうか、という点だ。
清春と真乃の父親である渡部誠《わたべまこと》は、一代で日本国内に巨大なホテルチェーンを築いた。
近頃はアジア各国にも食指を伸ばしており、すでにインドネシアやタイにワタベホテルズを作りつつある。ヨーロッパでも、去年パリに小さなホテルを手に入れた。
父の手腕から言って、日本国内はもとよりアジアとヨーロッパにもそれなりのホテル網を作り上げることは時間の問題だ、と真乃は思っている。
そして渡部誠の子供は、真乃と清春ふたりだけだ。
賢《さか》しい真乃は、父親が事業家としての才能を自分に認めていないことをよく知っている。
真乃は明るく美しいが、清春のように勤勉な努力家でもなく、目を見張るような頭脳のひらめきを見せるタイプでもない。
むしろ真乃は、そこにいるだけで周りから愛されるような存在であり、それでいいと父は思っているのだ。
となれば、今なお巨大化しつつあるワタベホテルズを引き継ぐのは清春しかいないはずだが、当の本人は素知《そし》らぬ顔でコルヌイエホテルで現場を渡り歩いている。
現場を知るための研修期間はもう十分だ。本来なら、そろそろ管理部で研修をする時期だろう。
企画・営業・広報・総務を経由して、最終的に父親の直下に入るのが求められているルートだと、清春にもわかっているはずだ。
しかし、清春は父親の思惑《おもわく》どおりに動かない。これまでも、きっとこれからも。
「お父さんと、激烈にもめるわ、きっと……」
真乃がひそかにつぶやいたとき、美貌の異母兄はバンケットウェイターの制服姿で、ちらりとこちらを見た。
眼だけで笑うと、端正な顔がかすかにゆるんだ。
真乃の背後で、押し殺した女性スタッフの声があがった。
その日、コルヌイエホテルのレセプションで勤務していた真乃は、黒いジャケットに黒のボウタイに身を包んでいるスタッフの一群が、ロビーを横切っていくのを見かけた。
16階のバンケット会場で、大手金融機関の新頭取就任パーティが開催される。その準備のためのスタッフだろう。
真乃と一緒にレセプションカウンターにいた先輩の白石《しらいし》もその一群に気がついた。
「お、今日のパーティチームだな。なんだ、井上はまだ宴会部に配属されているのか? 宴会部での研修は、終わったと思ったんだが」
真乃が目をやると、見慣れた異母兄の端正な姿が黒いジャケットに包まれてスタッフの中にいた。
白石の疑問に、真乃は仕事の手をとめずに答えた。
「異母兄の宴会部での研修は、とっくに終わっていますよ。今は料飲部にいて、”スターバー”に配属されていますから。
でも宴会部の長谷《はせ》主任が兄を気に入っていて、大きなパーティのときには料飲部に掛け合ってヘルプに呼ぶんです」
「なるほどな。あいつが居れば、安心というところか。それにしても、今の配属先は17階の”スターバー”か? なぜメインバーに配置されなかった?」
白石が不思議そうに言うのに、真乃は淡々と答えた。
「メインバーには、深沢さんがいるから。兄と深沢さんは同じ部署に配属しないっていうのが、暗黙の決まりなんでしょう? なぜかしら」
すると白石はニヤリと笑った。
「なぜだと思う?」
「ふたりとも、仕事が出来すぎるから?」
真乃がふざけて答えると、白石は軽くわらい、
「井上の仕事っぷりはともかく、深沢は十分に評価されていないな。おれはもったいないと思うが、あいつがそれでいいと思っているから、どうしようもない。それでも――」
と、白石は続けた。
「深沢くらい酒と酔客《すいきゃく》の扱いがうまければ、バーテンとしては優秀すぎるんだ。
あのふたりを同じバーに配属しないのは、女性客が集中するからだよ」
真乃は、弓形の眉毛をピクリと動かした。
「……そうでしょうね」
「一度な、あいつらが入職したばかりの時に、メインバーでの研修時期がかぶったことがある。メインバーが女性客でパンクしたぜ」
「はあ」
真乃はぼんやりと相槌を打った。
なるほど、異母兄の端正なボーイ姿と深沢洋輔のたっぷりした色気ある身動きは、一見に値するだろう。女客たちはどれほど金を払っても惜しくないと思ったはずだ。
そんな真乃の横で、白石はぼそりと、
「それにしても、井上はベルボーイから始めてレセプション、ランドリー、ハウスキーピングに宴会部、今が料飲部だろう。あいつは結局、どこに配属されたいんだ」
たしかに、コルヌイエに入職してからの3年で、清春はあらゆる現場を渡り歩いている。そのすべての職場で引き留めにあい、研修が終わったら戻ってきてくれと言われているらしい。
いったい、清春の本心はどこにあるのか。真乃も、気になっている。
ただし真乃の知りたいことは、清春がコルヌイエの『どの部署』に落ち着くか、という点ではない。
清春に、コルヌイエを含む『ワタベホテルズ全体を引き受ける』気があるのかどうか、という点だ。
清春と真乃の父親である渡部誠《わたべまこと》は、一代で日本国内に巨大なホテルチェーンを築いた。
近頃はアジア各国にも食指を伸ばしており、すでにインドネシアやタイにワタベホテルズを作りつつある。ヨーロッパでも、去年パリに小さなホテルを手に入れた。
父の手腕から言って、日本国内はもとよりアジアとヨーロッパにもそれなりのホテル網を作り上げることは時間の問題だ、と真乃は思っている。
そして渡部誠の子供は、真乃と清春ふたりだけだ。
賢《さか》しい真乃は、父親が事業家としての才能を自分に認めていないことをよく知っている。
真乃は明るく美しいが、清春のように勤勉な努力家でもなく、目を見張るような頭脳のひらめきを見せるタイプでもない。
むしろ真乃は、そこにいるだけで周りから愛されるような存在であり、それでいいと父は思っているのだ。
となれば、今なお巨大化しつつあるワタベホテルズを引き継ぐのは清春しかいないはずだが、当の本人は素知《そし》らぬ顔でコルヌイエホテルで現場を渡り歩いている。
現場を知るための研修期間はもう十分だ。本来なら、そろそろ管理部で研修をする時期だろう。
企画・営業・広報・総務を経由して、最終的に父親の直下に入るのが求められているルートだと、清春にもわかっているはずだ。
しかし、清春は父親の思惑《おもわく》どおりに動かない。これまでも、きっとこれからも。
「お父さんと、激烈にもめるわ、きっと……」
真乃がひそかにつぶやいたとき、美貌の異母兄はバンケットウェイターの制服姿で、ちらりとこちらを見た。
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