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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第44話「柔らかく、温かい唇の感触」
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(Unsplashのnrdが撮影)
深沢の問いに、真乃《まの》はかぶりを振って答えた。
「キヨちゃんなんて、まだ一目も見ていないわ」
「しょうがねえなあ、何しに来たんだ」
そう言って深沢は、すっと真乃をスタッフエリアから廊下に出した。手には女性スタッフが着用する黒いジャケットを持っている。
「ほら、これを着ろ。ネクタイはねえが、ごまかせるだろ」
真乃がジャケットを着ると、深沢はすばやく骨太の指で真乃のジャケットを直して、ぽんと背中をたたいた。
「キヨに会わせてやる。ついて来いよ」
深沢の手にはすでに二枚のシルバー盆があり、自分の盆にウィスキーソーダのグラスをいくつか乗せた。
「ついでに、ウィスキーの流れをこしらえてこよう」
「じゃあ、あたしもグラスを」
「バカ。これだけの人ごみの中で、しろうとがシルバーにグラスを乗せて歩けるかよ。あんたのシルバーはカラでいい」
するっと、混みあうバンケットの中に深沢が入っていく。真乃はその後ろをあわてて追った。
「あんたの兄貴が見たけりゃな、トラブルが起こりそうなところを探すんだ」
「トラブル?」
真乃が不思議そうに深沢を見上げると、長身の男はすっかり自分のオーラを消して男性ゲストから空いたグラスを受け取り、手早くウィスキーソーダを握らせてしまった。
「客商売を長くしているとな、妙な勘が働くようになる。トラブルが起きる前兆が読めるようになるんだ。たとえば、そら、あそこ」
深沢が小声でしめした方を真乃が見ると、このパーティの主役である新頭取の周囲に人がむらがっているのが見えた。今日の主賓《しゅひん》に祝いを述べようとする人の群れだ。
すうっと深沢は真乃を連れて、新頭取を取り巻く人々が見渡せる場所に連れていく。
その間も深沢は手早くテーブルから空いたグラスをバッシングし、自分のシルバーに乗せていた。
「見てろ、そろそろ誰かが酒をこぼしそうになる」
真乃がみるうちに、新頭取を中心とした輪がゆっくりと動き始めた。しかしその動きに気が付かない人々が、ふいに押されてバランスを崩した。
ざわっ、と気配がうごめく。
その瞬間、人ごみの中にするりと入っていった黒い影が、たくみに新頭取を誘導し始めた。
影は先ぶれのような絶妙な距離感で周囲の人々を動かし、静かに人々の輪を移動させていく。まるで、指一本で人を動かせるかのように。
真乃は目を見張って影を見た——清春だ。
黒いジャケットを着た影は、整った顔立ちにかすかな笑いを浮かべ、きれいに櫛目の通った黒い髪から形のいい耳をのぞかせている。
ゆったりと、新頭取を取り巻く人々が移動していく。その動きはまるで清春の影に人々がついて歩いているように見えた。
ふっ、と清春の足が止まる。
すると人々の群れもそこで止まり、何事《なにごと》もなかったように会話が始まる。
清春はいつのまにかどこかに退《しりぞ》き、端正な姿を消していた。
「な、わかったか」
深沢が長身をかがめて、真乃の耳にささやいた。
「あれがキヨの特技だ。あいつはトラブルが起こりそうなところに、トラブルが起こる直前にたどり着く。鼻が利《き》くんだろう。それでもって、火種がつく前に火を消しちまうんだ」
深沢はそっと真乃の背を押した。今度は真乃が、深沢の指に誘導されるがごとくバンケットルームの出口に向かって歩き始める。
「キヨちゃんは、なぜあんなことができるの?」
真乃はシルバーを持ちながら、茫然とつぶやいた。
「さあな。ありゃキヨの特技だ。あんな男、他に見たことがねえ」
気が付くと、真乃は深沢とふたりでバンケットルームの外の廊下にいた。まるで上手な手品でも見せられたかのようだ。
どこかにきっとタネがある。仕掛けがあるはずだ、と真乃は思うが、心のどこかで、仕掛けなんかないと叫ぶ声がする。
あれは、清春の才能だ。
そしてバーカウンターにいて客のリクエストをいいように操れるのは、深沢の才能だ。
こんな二人に、かなうわけがない。キャリアと経験を積めばいつか同じようにできるようになるという慰めは、真乃の中にわいてこなかった。
この二人だって、ホテル業界に入ったのは、ほんの三年前のことなのだ。
それなのに、二人ともまるで水を得た魚のようにゆうゆうと巨大なコルヌイエホテルの中を泳ぎ回っている。
真乃は、思わず深沢の顔を見上げた。その目の色が真剣すぎたのだろう、深沢は軽く笑って真乃の手からシルバー盆を取った。
「てめえとキヨを比べようとするなよ。あんたのアニキは突然変異だ。あれが、おかしいんだ。
こんなところで泣くんじゃねえよ。俺がいじめているみたいじゃねえか」
深沢がそう言い終わらないうちに、真乃の上にすっと、黒い影が落ちてきた。
柔らかく、温かい唇の感触。
「え?」
真乃が見上げると、つややかな色気をしたたらせて、深沢洋輔が笑っていた。
「ま、キスくらいしておけば、あんたも元気が出るだろ」
深沢は骨ばった指で真乃のフェイスラインを撫で上げた。
「ジャケットはスタッフエリアに返しておけよ」
そう言うと、今度は鮮やかな色気の帯をひらめかせて、長身の男はバンケットルームへ戻っていった。
深沢の問いに、真乃《まの》はかぶりを振って答えた。
「キヨちゃんなんて、まだ一目も見ていないわ」
「しょうがねえなあ、何しに来たんだ」
そう言って深沢は、すっと真乃をスタッフエリアから廊下に出した。手には女性スタッフが着用する黒いジャケットを持っている。
「ほら、これを着ろ。ネクタイはねえが、ごまかせるだろ」
真乃がジャケットを着ると、深沢はすばやく骨太の指で真乃のジャケットを直して、ぽんと背中をたたいた。
「キヨに会わせてやる。ついて来いよ」
深沢の手にはすでに二枚のシルバー盆があり、自分の盆にウィスキーソーダのグラスをいくつか乗せた。
「ついでに、ウィスキーの流れをこしらえてこよう」
「じゃあ、あたしもグラスを」
「バカ。これだけの人ごみの中で、しろうとがシルバーにグラスを乗せて歩けるかよ。あんたのシルバーはカラでいい」
するっと、混みあうバンケットの中に深沢が入っていく。真乃はその後ろをあわてて追った。
「あんたの兄貴が見たけりゃな、トラブルが起こりそうなところを探すんだ」
「トラブル?」
真乃が不思議そうに深沢を見上げると、長身の男はすっかり自分のオーラを消して男性ゲストから空いたグラスを受け取り、手早くウィスキーソーダを握らせてしまった。
「客商売を長くしているとな、妙な勘が働くようになる。トラブルが起きる前兆が読めるようになるんだ。たとえば、そら、あそこ」
深沢が小声でしめした方を真乃が見ると、このパーティの主役である新頭取の周囲に人がむらがっているのが見えた。今日の主賓《しゅひん》に祝いを述べようとする人の群れだ。
すうっと深沢は真乃を連れて、新頭取を取り巻く人々が見渡せる場所に連れていく。
その間も深沢は手早くテーブルから空いたグラスをバッシングし、自分のシルバーに乗せていた。
「見てろ、そろそろ誰かが酒をこぼしそうになる」
真乃がみるうちに、新頭取を中心とした輪がゆっくりと動き始めた。しかしその動きに気が付かない人々が、ふいに押されてバランスを崩した。
ざわっ、と気配がうごめく。
その瞬間、人ごみの中にするりと入っていった黒い影が、たくみに新頭取を誘導し始めた。
影は先ぶれのような絶妙な距離感で周囲の人々を動かし、静かに人々の輪を移動させていく。まるで、指一本で人を動かせるかのように。
真乃は目を見張って影を見た——清春だ。
黒いジャケットを着た影は、整った顔立ちにかすかな笑いを浮かべ、きれいに櫛目の通った黒い髪から形のいい耳をのぞかせている。
ゆったりと、新頭取を取り巻く人々が移動していく。その動きはまるで清春の影に人々がついて歩いているように見えた。
ふっ、と清春の足が止まる。
すると人々の群れもそこで止まり、何事《なにごと》もなかったように会話が始まる。
清春はいつのまにかどこかに退《しりぞ》き、端正な姿を消していた。
「な、わかったか」
深沢が長身をかがめて、真乃の耳にささやいた。
「あれがキヨの特技だ。あいつはトラブルが起こりそうなところに、トラブルが起こる直前にたどり着く。鼻が利《き》くんだろう。それでもって、火種がつく前に火を消しちまうんだ」
深沢はそっと真乃の背を押した。今度は真乃が、深沢の指に誘導されるがごとくバンケットルームの出口に向かって歩き始める。
「キヨちゃんは、なぜあんなことができるの?」
真乃はシルバーを持ちながら、茫然とつぶやいた。
「さあな。ありゃキヨの特技だ。あんな男、他に見たことがねえ」
気が付くと、真乃は深沢とふたりでバンケットルームの外の廊下にいた。まるで上手な手品でも見せられたかのようだ。
どこかにきっとタネがある。仕掛けがあるはずだ、と真乃は思うが、心のどこかで、仕掛けなんかないと叫ぶ声がする。
あれは、清春の才能だ。
そしてバーカウンターにいて客のリクエストをいいように操れるのは、深沢の才能だ。
こんな二人に、かなうわけがない。キャリアと経験を積めばいつか同じようにできるようになるという慰めは、真乃の中にわいてこなかった。
この二人だって、ホテル業界に入ったのは、ほんの三年前のことなのだ。
それなのに、二人ともまるで水を得た魚のようにゆうゆうと巨大なコルヌイエホテルの中を泳ぎ回っている。
真乃は、思わず深沢の顔を見上げた。その目の色が真剣すぎたのだろう、深沢は軽く笑って真乃の手からシルバー盆を取った。
「てめえとキヨを比べようとするなよ。あんたのアニキは突然変異だ。あれが、おかしいんだ。
こんなところで泣くんじゃねえよ。俺がいじめているみたいじゃねえか」
深沢がそう言い終わらないうちに、真乃の上にすっと、黒い影が落ちてきた。
柔らかく、温かい唇の感触。
「え?」
真乃が見上げると、つややかな色気をしたたらせて、深沢洋輔が笑っていた。
「ま、キスくらいしておけば、あんたも元気が出るだろ」
深沢は骨ばった指で真乃のフェイスラインを撫で上げた。
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