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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第45話「ただのキスじゃない」
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(UnsplashのGabrielle Hendersonが撮影)
真乃は、混乱した頭のままでバンケットルームから離れて歩きながら、つぶやいた。
「何なのよ、いまの」
猛烈な勢いで廊下を歩きつつ、つぶやき続ける。
「ただのキスだし」
……ただのキスじゃない。
それが一番よくわかっているのは、真乃自身だ。
これまでは、自分の可愛らしい外見を上手に使っててきとうに男たちと遊んできた。
毛並みのいい男、性格の穏やかな男、物静かな男。どれも真乃が手のひらで転がすことができる男たちだ。
真乃は自分の家族の中に力と能力がありすぎる男を身近に見てきた。
一代で巨大ホテルチェーンを難なく作り上げた辣腕《らつわん》ビジネスマンの父親は、性的に放縦《ほうじゅう》だった。
正妻である真乃の母をないがしろにして、ふだんは愛人と一人息子である清春のもとで暮らし、松濤の家に戻ってくるのは月に数日だけ。それを、悪いと思わない男だ。
真乃は幼いころから、母が泣くところをずっと見てきた。
おとなしく、資産家の娘だという理由だけで父の妻に選ばれた母。その人生には、一瞬たりとも幸せの色はなかったように真乃は思う。
こんな父親を見続けてきたら、男に支配されたくないと思う娘が育ってもおかしくはない。
男に支配されるくらいならどんな男とも付き合わずに、一人きりで生きて行こうと、真乃は思っている。
男というだけで、女を支配することに何の疑いも持たない男たちには、もううんざりだ。
だからどんな男とも真剣な関係を持つつもりがなく、誰かに従属したいなどと思ったことはない。
渡部真乃は、今のままで生きていきたいのだ。
それなのに。
深沢洋輔の放つ雷電のような力とオーラには、真乃は逆らえない。
あの男に、あと半歩でも近づいたらきっとまずいことになる。
真乃が自分を許せなくなるような、憎むことになるような、ろくでもない恋に落ちそうだ。しかもみずから、進んで。
冷たい汗を全身からふき出す。
たしか、この廊下の先にはリネン室と女性用のパウダールームがある。パウダールームの個室で呼吸を整えれば、少しは落ち着くだろう。
そう思ったとき、どんと真乃は何かにぶつかった。
良い匂いのする男のカラダ。
真乃はとっさに顔を上げた。相手がだれかわかって、目を見はった。
「……キヨちゃん」
「真乃? こんなところで何をしている?」
黒ジャケットに黒のボウタイというスクエアな制服に身を包んでいる清春は、切れ長の美しい目をわずかに見開いただけで、隙《すき》のない姿を崩しもしなかった。
端正で、有能なホテルマン。腹が立つほど優秀な男。
あたしのまわりはこんな男ばかりだ、と真乃は思った。
清春は、顔をしかめている妹をあやしく感じたようで、
「ここはバンケットのフロアだぞ。どうした?」
「どうもしないわよ」
そのとき、真乃はふと異母兄のワイシャツから香る甘い花のようなトワレの匂いをかいだ。
「キヨちゃん」
「なんだ」
「どうして、ワイシャツからディオリッシモの匂いがするの?」
その瞬間、何があっても顔色一つ変えたことがない異母兄の耳がカッと赤くなったのを、渡部真乃は見た。
「……えっ、キヨちゃん、顔が赤い……」
言われた清春が、ますます顔を赤くする。真野は首をかしげる。
氷のごとく沈着冷静な異母兄に、何があった?
真乃は、混乱した頭のままでバンケットルームから離れて歩きながら、つぶやいた。
「何なのよ、いまの」
猛烈な勢いで廊下を歩きつつ、つぶやき続ける。
「ただのキスだし」
……ただのキスじゃない。
それが一番よくわかっているのは、真乃自身だ。
これまでは、自分の可愛らしい外見を上手に使っててきとうに男たちと遊んできた。
毛並みのいい男、性格の穏やかな男、物静かな男。どれも真乃が手のひらで転がすことができる男たちだ。
真乃は自分の家族の中に力と能力がありすぎる男を身近に見てきた。
一代で巨大ホテルチェーンを難なく作り上げた辣腕《らつわん》ビジネスマンの父親は、性的に放縦《ほうじゅう》だった。
正妻である真乃の母をないがしろにして、ふだんは愛人と一人息子である清春のもとで暮らし、松濤の家に戻ってくるのは月に数日だけ。それを、悪いと思わない男だ。
真乃は幼いころから、母が泣くところをずっと見てきた。
おとなしく、資産家の娘だという理由だけで父の妻に選ばれた母。その人生には、一瞬たりとも幸せの色はなかったように真乃は思う。
こんな父親を見続けてきたら、男に支配されたくないと思う娘が育ってもおかしくはない。
男に支配されるくらいならどんな男とも付き合わずに、一人きりで生きて行こうと、真乃は思っている。
男というだけで、女を支配することに何の疑いも持たない男たちには、もううんざりだ。
だからどんな男とも真剣な関係を持つつもりがなく、誰かに従属したいなどと思ったことはない。
渡部真乃は、今のままで生きていきたいのだ。
それなのに。
深沢洋輔の放つ雷電のような力とオーラには、真乃は逆らえない。
あの男に、あと半歩でも近づいたらきっとまずいことになる。
真乃が自分を許せなくなるような、憎むことになるような、ろくでもない恋に落ちそうだ。しかもみずから、進んで。
冷たい汗を全身からふき出す。
たしか、この廊下の先にはリネン室と女性用のパウダールームがある。パウダールームの個室で呼吸を整えれば、少しは落ち着くだろう。
そう思ったとき、どんと真乃は何かにぶつかった。
良い匂いのする男のカラダ。
真乃はとっさに顔を上げた。相手がだれかわかって、目を見はった。
「……キヨちゃん」
「真乃? こんなところで何をしている?」
黒ジャケットに黒のボウタイというスクエアな制服に身を包んでいる清春は、切れ長の美しい目をわずかに見開いただけで、隙《すき》のない姿を崩しもしなかった。
端正で、有能なホテルマン。腹が立つほど優秀な男。
あたしのまわりはこんな男ばかりだ、と真乃は思った。
清春は、顔をしかめている妹をあやしく感じたようで、
「ここはバンケットのフロアだぞ。どうした?」
「どうもしないわよ」
そのとき、真乃はふと異母兄のワイシャツから香る甘い花のようなトワレの匂いをかいだ。
「キヨちゃん」
「なんだ」
「どうして、ワイシャツからディオリッシモの匂いがするの?」
その瞬間、何があっても顔色一つ変えたことがない異母兄の耳がカッと赤くなったのを、渡部真乃は見た。
「……えっ、キヨちゃん、顔が赤い……」
言われた清春が、ますます顔を赤くする。真野は首をかしげる。
氷のごとく沈着冷静な異母兄に、何があった?
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