58 / 73
第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第58話「きっといつか、どこかへ」
しおりを挟む
(UnsplashのBùi Thanh Tâmが撮影)
夜の中でタクシーが止まった。真乃はタクシーから降り、路上に立ってバックシートに座る深沢を見た。
「ねえ、チャンスは何度もないわよ。あたしみたいな女、逃したら後悔する」
けっ、と深沢が小声で毒づいたのが真乃にも聞こえた。
「俺はな、あんたが好きなように引きずり回せる男とは違うんだよ。おあいにくさま、だ」
そういうと、深沢は、
「市ヶ谷に行ってくれ」
タクシーが去ってゆくのを真乃は黙って見送った。
後悔の気持ちが、ある。
同時に、毒牙を逃れたという安堵もあった。
深沢には真乃を毒牙にかけるつもりはないだろうが、真乃から見たら、深沢はまともな女が相手にするには危険すぎる男だ。
世の中には、もっと御《ぎょ》しやすい男が大勢いる。安全で真乃をおびやかさない男たちだ。
真乃の言いなりにでき、真乃が好きなように扱える男たちだ。
いつでも、ためらいもなく関係を断ち切れる男たち。
それでいい。それでこそ真乃が主導権を握れる関係だ。
真乃はひとりでレジデンスホテルへ帰った。
今夜は松濤《しょうとう》の家に戻りたくない。運よく父は出張中で、異母兄の清春はコルヌイエホテルで夜勤。誰も真乃が帰宅しないことを心配しない。
レジデンスホテルの一室で、真乃はじっと鏡で自分の顔を見た。
大きく張った目じり、すんなりした鼻筋、ふっくらした頬、つんとした唇。誰からも可愛らしいと言われ続けた顔だ。
だが真乃が欲しかったのは、こんなお人形のような顔つきではなかった。
清春のような顔、親友の佐江のような、自分が打ち込めるものを持っている顔が欲しい。
『あたしには、何もない』と、真乃は考えた。
この飢餓感は男では埋められない。仕事で埋めるしかないものだ。
仕事だ、と真乃は深夜の鏡を見て、目をひらいた。
仕事だ。
真乃の財布の中には、一枚のメモがずっと入れられている。コルヌイエホテルに入職した直後、はじめてゲストからもらったお礼のメモだ。
たどたどしい子供の字で『Takk』と書いてある。ノルウェー語で『ありがとう』の意味だと清春が教えてくれた。
このメモは真乃の宝物だ。
誰かとふれ合って礼を言われることもあるという、初めての経験をさせてくれた宝物なのだ。
真乃はコルヌイエホテルの仕事が大好きだった。ゲストからありがとうといわれると、無性に嬉しかった。
これまで、誰からもありがとうだなんていわれたことがなかったから。
だったらこの道を突き進もう、と真乃は思った。
初めての喜びをもたらしてくれた仕事を、やり抜こう。
真乃には、佐江のようなファッションセンスも、清春のような特異技術も、深沢のような才能もないかもしれない。
しかし、やり続ければきっといつか、どこかへたどりつける。そこが真乃の居場所だ。真乃だけの場所だ。
「……そこへ、行ってみよう」
真乃は大きく息をはいて、ベッドに転がった。
そのときピリリっと携帯が鳴った。清春からだ。
「キヨちゃん?」
「真乃か」
「うん。どうしたの? 夜勤中でしょ」
「仕事中だ。なあおまえ、洋輔に何をしたんだ」
「はあ?」
「こいつ、レセプションのバックルームにやってきて、おまえに電話しろってうるさいんだ。何なんだ、これ?」
くす、と真乃は笑った。
「ああ、それね、『あたしの男』なの」
「はあ? おい、真乃、おまえ何を言って……」
「キヨちゃん、そのひと、あたしのものなの。よろしくね」
「……洋輔と、付き合っているってことか? おい、真乃!」
「くわしいことは、そこにいるお兄ちゃんの親友に聞けばいいんじゃない?」
真乃がそう言った瞬間、ごとんっという音がした。清春の電話が投げ出されたようだ。それからドカバカという大きな音がした。
「落ち着け、キヨ!」
「おまえ、よくもおれの妹に手を出しやがって」
「出してねえ、まだ何にもしてねえよ」
「する気がある、ってだけで、殺す理由になる」
「バカキヨ、やめろって。お前それ、ほんとに人が死ぬレベルだぞ」
くくくっ、と言って、真乃は電話を切った。それからぐっすりと眠った。
何年かぶりの、夢も見ないような深い眠りだった。
夜の中でタクシーが止まった。真乃はタクシーから降り、路上に立ってバックシートに座る深沢を見た。
「ねえ、チャンスは何度もないわよ。あたしみたいな女、逃したら後悔する」
けっ、と深沢が小声で毒づいたのが真乃にも聞こえた。
「俺はな、あんたが好きなように引きずり回せる男とは違うんだよ。おあいにくさま、だ」
そういうと、深沢は、
「市ヶ谷に行ってくれ」
タクシーが去ってゆくのを真乃は黙って見送った。
後悔の気持ちが、ある。
同時に、毒牙を逃れたという安堵もあった。
深沢には真乃を毒牙にかけるつもりはないだろうが、真乃から見たら、深沢はまともな女が相手にするには危険すぎる男だ。
世の中には、もっと御《ぎょ》しやすい男が大勢いる。安全で真乃をおびやかさない男たちだ。
真乃の言いなりにでき、真乃が好きなように扱える男たちだ。
いつでも、ためらいもなく関係を断ち切れる男たち。
それでいい。それでこそ真乃が主導権を握れる関係だ。
真乃はひとりでレジデンスホテルへ帰った。
今夜は松濤《しょうとう》の家に戻りたくない。運よく父は出張中で、異母兄の清春はコルヌイエホテルで夜勤。誰も真乃が帰宅しないことを心配しない。
レジデンスホテルの一室で、真乃はじっと鏡で自分の顔を見た。
大きく張った目じり、すんなりした鼻筋、ふっくらした頬、つんとした唇。誰からも可愛らしいと言われ続けた顔だ。
だが真乃が欲しかったのは、こんなお人形のような顔つきではなかった。
清春のような顔、親友の佐江のような、自分が打ち込めるものを持っている顔が欲しい。
『あたしには、何もない』と、真乃は考えた。
この飢餓感は男では埋められない。仕事で埋めるしかないものだ。
仕事だ、と真乃は深夜の鏡を見て、目をひらいた。
仕事だ。
真乃の財布の中には、一枚のメモがずっと入れられている。コルヌイエホテルに入職した直後、はじめてゲストからもらったお礼のメモだ。
たどたどしい子供の字で『Takk』と書いてある。ノルウェー語で『ありがとう』の意味だと清春が教えてくれた。
このメモは真乃の宝物だ。
誰かとふれ合って礼を言われることもあるという、初めての経験をさせてくれた宝物なのだ。
真乃はコルヌイエホテルの仕事が大好きだった。ゲストからありがとうといわれると、無性に嬉しかった。
これまで、誰からもありがとうだなんていわれたことがなかったから。
だったらこの道を突き進もう、と真乃は思った。
初めての喜びをもたらしてくれた仕事を、やり抜こう。
真乃には、佐江のようなファッションセンスも、清春のような特異技術も、深沢のような才能もないかもしれない。
しかし、やり続ければきっといつか、どこかへたどりつける。そこが真乃の居場所だ。真乃だけの場所だ。
「……そこへ、行ってみよう」
真乃は大きく息をはいて、ベッドに転がった。
そのときピリリっと携帯が鳴った。清春からだ。
「キヨちゃん?」
「真乃か」
「うん。どうしたの? 夜勤中でしょ」
「仕事中だ。なあおまえ、洋輔に何をしたんだ」
「はあ?」
「こいつ、レセプションのバックルームにやってきて、おまえに電話しろってうるさいんだ。何なんだ、これ?」
くす、と真乃は笑った。
「ああ、それね、『あたしの男』なの」
「はあ? おい、真乃、おまえ何を言って……」
「キヨちゃん、そのひと、あたしのものなの。よろしくね」
「……洋輔と、付き合っているってことか? おい、真乃!」
「くわしいことは、そこにいるお兄ちゃんの親友に聞けばいいんじゃない?」
真乃がそう言った瞬間、ごとんっという音がした。清春の電話が投げ出されたようだ。それからドカバカという大きな音がした。
「落ち着け、キヨ!」
「おまえ、よくもおれの妹に手を出しやがって」
「出してねえ、まだ何にもしてねえよ」
「する気がある、ってだけで、殺す理由になる」
「バカキヨ、やめろって。お前それ、ほんとに人が死ぬレベルだぞ」
くくくっ、と言って、真乃は電話を切った。それからぐっすりと眠った。
何年かぶりの、夢も見ないような深い眠りだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
