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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編

第58話「きっといつか、どこかへ」

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(UnsplashのBùi Thanh Tâmが撮影)

 夜の中でタクシーが止まった。真乃はタクシーから降り、路上に立ってバックシートに座る深沢を見た。

「ねえ、チャンスは何度もないわよ。あたしみたいな女、逃したら後悔する」

 けっ、と深沢が小声で毒づいたのが真乃にも聞こえた。

「俺はな、あんたが好きなように引きずり回せる男とは違うんだよ。おあいにくさま、だ」

 そういうと、深沢は、

「市ヶ谷に行ってくれ」

 タクシーが去ってゆくのを真乃は黙って見送った。

 後悔の気持ちが、ある。
 同時に、毒牙を逃れたという安堵もあった。
 深沢には真乃を毒牙にかけるつもりはないだろうが、真乃から見たら、深沢はまともな女が相手にするには危険すぎる男だ。

 世の中には、もっと御《ぎょ》しやすい男が大勢いる。安全で真乃をおびやかさない男たちだ。
 真乃の言いなりにでき、真乃が好きなように扱える男たちだ。
 いつでも、ためらいもなく関係を断ち切れる男たち。
 それでいい。それでこそ真乃が主導権を握れる関係だ。

 真乃はひとりでレジデンスホテルへ帰った。
 今夜は松濤《しょうとう》の家に戻りたくない。運よく父は出張中で、異母兄の清春はコルヌイエホテルで夜勤。誰も真乃が帰宅しないことを心配しない。

 レジデンスホテルの一室で、真乃はじっと鏡で自分の顔を見た。

 大きく張った目じり、すんなりした鼻筋、ふっくらした頬、つんとした唇。誰からも可愛らしいと言われ続けた顔だ。
 だが真乃が欲しかったのは、こんなお人形のような顔つきではなかった。
 清春のような顔、親友の佐江のような、自分が打ち込めるものを持っている顔が欲しい。

 『あたしには、何もない』と、真乃は考えた。
 この飢餓感は男では埋められない。仕事で埋めるしかないものだ。
 仕事だ、と真乃は深夜の鏡を見て、目をひらいた。

 仕事だ。
 真乃の財布の中には、一枚のメモがずっと入れられている。コルヌイエホテルに入職した直後、はじめてゲストからもらったお礼のメモだ。
 たどたどしい子供の字で『Takk』と書いてある。ノルウェー語で『ありがとう』の意味だと清春が教えてくれた。

 このメモは真乃の宝物だ。
 誰かとふれ合って礼を言われることもあるという、初めての経験をさせてくれた宝物なのだ。

 真乃はコルヌイエホテルの仕事が大好きだった。ゲストからありがとうといわれると、無性に嬉しかった。
 これまで、誰からもありがとうだなんていわれたことがなかったから。

 だったらこの道を突き進もう、と真乃は思った。
 初めての喜びをもたらしてくれた仕事を、やり抜こう。
 真乃には、佐江のようなファッションセンスも、清春のような特異技術も、深沢のような才能もないかもしれない。
 しかし、やり続ければきっといつか、どこかへたどりつける。そこが真乃の居場所だ。真乃だけの場所だ。

「……そこへ、行ってみよう」

 真乃は大きく息をはいて、ベッドに転がった。
 そのときピリリっと携帯が鳴った。清春からだ。

「キヨちゃん?」
「真乃か」
「うん。どうしたの? 夜勤中でしょ」
「仕事中だ。なあおまえ、洋輔に何をしたんだ」
「はあ?」
「こいつ、レセプションのバックルームにやってきて、おまえに電話しろってうるさいんだ。何なんだ、これ?」

 くす、と真乃は笑った。

「ああ、それね、『あたしの男』なの」
「はあ? おい、真乃、おまえ何を言って……」
「キヨちゃん、そのひと、あたしのものなの。よろしくね」
「……洋輔と、付き合っているってことか? おい、真乃!」
「くわしいことは、そこにいるお兄ちゃんの親友に聞けばいいんじゃない?」

 真乃がそう言った瞬間、ごとんっという音がした。清春の電話が投げ出されたようだ。それからドカバカという大きな音がした。

「落ち着け、キヨ!」
「おまえ、よくもおれの妹に手を出しやがって」
「出してねえ、まだ何にもしてねえよ」
「する気がある、ってだけで、殺す理由になる」
「バカキヨ、やめろって。お前それ、ほんとに人が死ぬレベルだぞ」

 くくくっ、と言って、真乃は電話を切った。それからぐっすりと眠った。
 何年かぶりの、夢も見ないような深い眠りだった。
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